いざ鎌倉!! 第18回 判官贔屓

文聞亭笑一

判官(ほうがん)贔屓(びいき)・・・という言葉があります。

語源は義経・・・判官・・・に同情するあまり、理非曲直を度外視して感情的に一方の味方、見方をすることですが、この時代における政治的情報操作がもたらした影響力の大きさを伝える言葉でもあります。

義経、範頼と頼朝は兄弟ではありながらそれぞれが全く別な環境で育ちました。

血縁・血統では兄弟ですが、環境的には兄弟とは呼べません。

ここらあたりに他人が付け入る隙があり、その隙間を利用する悪党(後白河)の餌食になります。

六条堀川屋敷

義仲を倒して京に入った義経が本拠にしたのは六条堀川の源氏屋敷です。

父や祖父の屋敷跡ですから、そこを回復して陣取るのは当然ですが、本軍、兄の範頼が上京してもその場を譲らず、しかも軍議となると堀川屋敷を使いますから寺社などに陣取る諸将を呼びつける形になります。

京雀や公家たちから見ると源氏の総大将は義経に見えますし、また宇治川戦での華々しい活躍が喧伝されますから、皆々がそう信じるようになりました。

その上に一ノ谷、鵯越の大勝利です。

義経人気が沸騰するのは当然です。

京雀の噂話に鎌倉の頼朝などは話題にもなりません。

ましてや範頼やその配下にあった諸将などは「その他大勢」にされてしまいます。

が・・・その「その他大勢」に梶原景時や北条義時など鎌倉方の主流派が含まれています。

本来、梶原景時が義経の軍監、参謀長だったのですが、一ノ谷の奇襲作戦で意見が合わず、参謀の交代という異常事態が起きていました。

梶原が義経を嫌うように、本軍・範頼の参謀長である土肥実平は安全第一の範頼を嫌い、「頼朝には無断で参謀交代」をしてしまいました。

勿論、鎌倉の頼朝がそれを知るよしもありません。

さらに・・・「範頼の下では手柄は期待できない」と畠山重忠や熊谷直実などが義経の元へと勝手に陣替えしています。

その意味では統率力に欠ける軍団で、その実態を知っていたら平家も防衛戦が張れたのでしょうが・・・倶利伽羅峠の合戦で義仲軍から受けた「東国の源氏は強い」というトラウマが全軍の感情を支配し、戦うよりも逃げる事を考える・・・という心理状態を作り上げていました。

一ノ谷の戦勝後、朝廷は源氏の代表は堀川館の主・義経である・・・という姿勢を示します。

これが悪党・後白河の策略で、義経と頼朝の間を裂き、相互につぶし合いをさせるべく布石を打ってきます。

検非違使の大夫尉

「朝廷の任官を独断で受けては成らぬ」 これは鎌倉方の本軍が出発する際に諸将に厳しく言い渡された軍令でした。

朝廷や公家たちの権威、権力の源は「叙位叙勲」つまり人事権であるということを熟知していたのが頼朝であり、大江広元です。

そのことをわかっていたにもかかわらず、旭将軍などと煽てられて、捨てられた義仲や、叔父の行家のことがあったばかりです。

にもかかわらず・・・義経は後白河から従六位・左衛門少尉、検非違使の官位を受けます。

二通りの解釈があります。一つは司馬遼太郎が「義経」で推論したとおり義経の甘えです。

「俺は鎌倉殿の弟だ、関東の有象無象の御家人とは違う。しかも、俺の手柄は群を抜いている」

このあたりが観点の差で、平家を畿内から追い払った軍功と、軍監を勝手に取り替えた軍律違反、さらには勝手に官位を受けてしまったという重大な命令違反・・・この辺の重みの判断を間違えました。

何事につけても「俺は別だ」という態度が御家人たちに嫌われます。

二つ目は義経自身の野心です。

それを煽るのが後白河を筆頭とする公家衆で、義経を頼朝の対抗馬にしようと世論を盛り上げます。

検非違使の大夫とは京都府警の総監、皇宮警察の長官といった役割ですから京雀の安全を守る役割です。

京都の町の守備隊長・・・カッコいいですねぇ。

モテモテです。

弁慶以下の取り巻きも浮かれてしまいます。

さらに朝廷は六位から従五位の下に昇進させ、「覚えめでたし」と抱き込みにかかります。

しかし、後白河が裏で糸を引いていることを察している頼朝は義経の手柄を認めません。

抗議に来た弁慶などは「陪臣(直属の部下でない)とは会わぬ」と門前払いです。

屋島へ、そして壇ノ浦

義経が平家を畿内から追い払ったものの、三種の神器が平家の手の内にある状況は変わっていません。

この当時、天皇は二人いました。

正統は清盛と後白河の孫に当たる安徳天皇です。

三種の神器も携えていますが都落ちしています。

一方、後白河が擁立した後鳥羽天皇は京にあって、正統な政権構造を形成しているものの、正統性を証明する神器がありません。

偽天皇だと明言する官人たちもいて後白河以下の悩みの種です。

「三種の神器を取り戻せ」

鎌倉に対して矢のごとくに催促します。

「神器を取り戻せ」と言うことは、平家を倒せと同義語ですね。

頼朝は再度遠征軍を起こします。

大将は範頼、参謀は和田義盛

この軍は山陽道側の平家の拠点を攻撃しながら京から西に向かって進みます。

が、大軍であるにもかかわらず兵站、食料の準備ができていません。

行く先々で食料調達に苦労し、戦闘らしい戦闘もできず北九州まで流れていきます。

九州に渡ったのは食糧補給のためです。

兵站(ロジスティックス、物流)を考えずに戦争をするのは日本式戦争の伝統で、その後も同様なことが続きます。

それだけ短期決戦が多かったと言うことでもあります。

唯一例外だったのが400年後の秀吉と石田三成のコンビで、戦争を始める前に物流を押さえる戦略をとりました。

そのまた400年後、後世の日本陸軍は秀吉流をとらず、先祖返りして義経流のインパール作戦などを行い、飢餓地獄に陥りました。

それはともかく、義経による屋島への奇襲作戦は意外、意外、意外の三重奏です。

まずは、敢えて嵐の中を四国に向けて出航した意外さです。

強力な海軍を持つ平家に正面からぶつかるのは無理・・・と、大きく迂回して徳島へと向かいます。

この時点で源氏に荷担していた水軍(海軍)は大阪湾の渡辺党と伊予の河野水軍だけでした。

平家水軍の1/4の戦力しかありません。

この後、熊野水軍が味方に加わりますがそれでも平家の半分でしかありません。

次の意外性は、徳島から屋島まで一昼夜で到達した移動の早さです。

馬術の巧みさもありますがわずか150騎の身軽さが迅速な移動を可能にしたのと、敵を油断させたのでしょう。

また、平家も敵は海上を北から来ると、徳島からの陸路への警戒が欠けていました。

そして三つ目、たった数百の軍勢に驚いて逃げ出した平家の判断です。

このとき、屋島の陸上には軍人系の人材が不在でした。

最も頼りになる平知盛は関門海峡の彦島にいて、範頼の軍勢を下関と門司に分断し、痛めつけていました。

屋島では弱気の宗盛が真っ先に逃げ出します。