いざ鎌倉 第19回 武士の世誕生

文聞亭笑一

鎌倉幕府の成立は何時か? 最近の歴史教育では1185年、1192年の双方を取り上げているようです。

私たちの学生時代には「良い国(1192)作ろう 鎌倉幕府」と、頼朝が征夷大将軍に任じられた年を覚え込んできました。

高校受験の問題にも出ましたからねぇ。

一方の1185年は平家が滅亡し、さらに義経討伐のために鎌倉殿が全国に守護・地頭を設置することが許された年です。

目的は義経追討(探索)ですが地方官の任命権、すなわち、地方官の人事権を鎌倉殿が握ったわけで、実質的に行政権を手にしました。

ですからこちらの方が「幕府成立」に近いのですが、幕府という名称は将軍職でないと使えません。

「武家政権の成立」ではありますが・・・幕府ではありません。

さらに言えば鎌倉政権(鎌倉殿)の勢力は東日本が中心で、西日本の荘園の大半を朝廷や公家が支配していました。

その意味では東西分裂行政の態です。このねじれ政治を解決したのが政子・義時による承久の乱(1221年)で、ここからは紛れもない「武士の世」になります。

頼朝追討の宣旨

頼朝に会うこともできず京に帰った義経は、後白河法皇の力を利用して頼朝を倒すことを考えます。

義経や弁慶などその取り巻きに政治のできる人材は皆無ですが、大天狗・後白河法皇や、政治が大好きな叔父・新宮行家が義経人気を利用して政権獲得を狙います。

ともかく京都における義経人気は病的なほどで「義経が登場すると必ず勝つ」と信じられていましたし、源平合戦の報道?評判?噂話?に尾鰭がついて、義経万能、天才軍師、スーパヒーローとしての虚像ができあがりつつありました。

戦争を知らない法皇や公家は「義経必勝」を信じます。

公家にとっては、武士の世界が分裂している方が自分たちの存在価値が高まります。

両者の間を調整しながら漁夫の利を奪うのが公家政治の基本なのです。

法皇の読みとしては、義経が立てば近畿以西の武士たちが味方するであろう、とりわけ九州の勢力や、義経と共に戦った瀬戸内や熊野の水軍は味方するに違いない・・・。

さらに、平氏の残党も「罪一等を許す」といえば従うであろう、義経は官軍、頼朝は賊軍。

さらに、さらに・・・奥州には藤原がいる。

藤原とて鎌倉の台頭は面白くあるまい。

関西の勢力を率いた義経と、奥州の藤原で鎌倉方を挟み撃ちにできるではないか。

勝てる!

この時代の関東、関西の境は箱根ではありません。

鈴鹿、不破、安宅の三つの「関」が境です。とりわけ近江と美濃の境である「不破関」が東西の分岐点です。

義経・後白河の誤算

関西はアンチ鎌倉・・・の読みは、足下の「近江」の読み違いから崩れ始めます。

近江には、平家に国を奪われた佐々木4兄弟が本領を回復して戻っていました。

佐々木4兄弟は頼朝の旗揚げ以来の、股肱の臣です。

頼朝を裏切るはずがありません。

頼朝の旗揚げと言えば、北条と三浦と、土肥や佐々木しかいなかったのです。

頼朝は京の動きを監視するためにも、土地勘があり最も信頼できる部下を近江に置いていました。

義経の手勢(直属兵力)が数百に過ぎないのに比べ、佐々木は数千の戦力を有します。

400年後の家康も頼朝のやり方を真似て、近江には最も信頼できる部下・井伊直政に35万石(万余の兵力)を預けて京の見張りをさせました。

義経逃亡

法皇の院宣があっても・・・兵力が集まりません。

集まったのは朝廷の荘園を守る公家侍が少々で、とても戦力には成りません。

「勝てぬ」と見切ってからの義経の動きは素早かったですね。

「九州で再起を図る」と大阪湾から四国へと海路を選びました。

瀬戸内の水軍は自分の強さを知っている、法皇の院宣もあり味方に成るに違いないと思っていましたが・・・これが大間違いでした。

瀬戸内の水軍も、熊野の水軍も、壇ノ浦における義経の戦法を嫌っていました。

壇ノ浦で、義経は当時の戦争のルール違反をやっています。

「海戦では非戦闘員である水夫を射てはならぬ。陸戦では馬を狙ってはならぬ」

これがルールというか、マナーというか、暗黙の了解事項でした。

義経は「改革だ、革命だ」とばかりに非戦闘員を狙い撃ちにしました。

このことがわだかまりとなり、さらには身内を殺された水夫たちが義経の四国行の舟を出すのを渋ります。

その上に悪天候でした。

舟は流れに流されて、やっとの思いで紀伊半島の先端にたどり着きます。

ここから先は静御前が歌った

「しずやしず しずのおだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな」

「吉野山 峰の白雪踏み分けて いりにし人の姿恋しき」

・・・という逃避行になります。

佐々木兄弟が見張っている東海道は勿論、東山道も通れません。

唯一、鎌倉方の警戒が薄いのは北陸道です。

歌舞伎「勧進帳」では安宅の関で弁慶が大芝居を打ちますが、実際は越中国、小矢部川の渡し場で起きた事件のようです。

弁慶が打ち据えた道具も金剛杖ではなく扇だったようで、随分と派手な演出になりましたね。

そうでないと演劇としては面白くありません。

守護・地頭制度

後白河のこの政治的判断ミスを徹底的に追求したのが頼朝と北条時政です。

義経追討の院宣を出させるのは勿論、大江広元が発案した「地頭制度」を認めさせてしまいます。

地方官の人事権を鎌倉殿が独占します。

そして地頭職は武士・鎌倉の御家人に限るとしました。

さらに、御家人たちを束ねる有力武将を守護として各国に配置します。

従って、地方政治の権限は鎌倉に移ります。

鎌倉の有力御家人が守護として大きな権限を持つことになりました。

梶原景時などは播磨、美作の二カ国の守護になります。

土肥実平も備前や安芸の守護を歴任します。

遅ればせながらも源平合戦の論考行賞ですね。

一方で、院宣があっても奥州には手が出せません。

平泉には藤原秀衡が健在です。その秀衡は「自分の後継者に義経を」とも考えていました。

というのは、自分の息子たちに鎌倉と対抗できそうな能力のあるものがいないからです。

豊富な砂金、経済力で朝廷を籠絡し、優秀な奥州馬で成る10万の騎馬隊を天才義経が指揮すれば、鎌倉殿に白河の関は越えさせる事はあるまいし、頼朝も事を構えることをためらうであろう・・・という読みです。

軍事は義経に、内政は息子たちが分担して・・・という秀衡の構想は、息子たちには理解不能でした。

秀衡の死後、息子たちの内部分裂で藤原王国は自滅していきます。