いざ鎌倉 第27回 比企と北条
作 文聞亭笑一
第26回がちょっと先に進みすぎて一週間お休みしました。
・・・と、参議院選挙の開票速報のため大河ドラマはお休みになりました。
結果的に2週間の休刊となりました。
休刊の間に急患?コロナがまたまた爆発して身動きが取れなくなりました。
政府が指図しなくても行動制限を始めます。
「言われなくとも・・・当たり前のことはする」日本人はその程度の賢さを持った人種です。
休んでいる間に、頼朝の死因について考えました。
頼朝は死に至るような持病を持っていません。
どの資料にも病気、疲労、倦怠感など慢性的病気を持っていた記述がありません。
さらには万年青年というか、生涯現役で女に関する裏話は幾つも残っています。要するに・・・元気です。
その元気な頼朝の突然死ですから、事故か? 暗殺か? と推理小説の格好のネタです。
「落馬」というのが直接の事故ということになっていますが、「落馬」という記述は公家日記に噂話、不確定情報として伝わるだけで根拠はありません。
武家の棟梁が落馬で頭を打って死んだなどと言うのは・・・普通はあり得ませんね。
鎌倉時代はスポーツとしての流鏑馬(やぶさめ)が流行していました。
全速力で駆ける馬上から矢を射て、的に当てる、こんなスーパーマン的な馬術が花開いていた時代です。
頼朝が、仮に・・・酒に酔っていたとしても、落馬は考えにくいですね。
信長の死因同様、幾つかの仮説が小説として語られます。
① 馬上で何らかの脳疾患、ないし心臓病を起こしたという発作説
脳溢血の発症というのが古来の定説です。数日間生きています。
脳梗塞、心筋梗塞なども考えられます。
馬上で意識がなくなって落馬する・・・あり得ます。
ただ、そういう病気を発症するような予兆が、それまでの記述の中に見当たりません。
とはいえ、御家人たちのパワーバランスの上で権威を保つストレス・・・、十分に心臓を痛めます。
② 馬が何かに驚いて暴れたという事故説
これには暗殺説がつきまといます。
馬と乗り手、人馬一体などと言いますが、馬は利口な動物です。
自分と乗り手の癖を覚えて、自分にとっても乗り手にとっても快適になるように歩を進めます。
蜂や虻に刺された程度、マムシに食われた程度で暴れたりはしません。
ましてや頼朝の周りには20人以上のSPが付いています。
熊や山犬などは近づきません。
③ 暗殺説があります。主犯が誰か、手段が何か、で多種多様な推理が成り立ちます。
主犯、誰がやった? 公家説、平氏や奥州の残党説、鎌倉の不平不満分子等々
どうやって? 毒物説、忍者による奇襲、誰かに使嗾された特攻隊の襲撃、狙撃
この組み合わせで n×n=∞
当時の公家が、京都朝廷が、「なんとしてでも頼朝を排除したい」というのは後鳥羽上皇以下の切なる想いで、何らかの手を打ってきた可能性は否定できません。
このやりとりが後の承久の変、幕府による上皇の島流し、に繋がって行く予兆でもありました。
武力を持たない公家にとって、唯一の武器は薬物でした。
「薬を賜る」と称して「毒を飲ませる」のが朝廷の武器でした。
朝廷による暗殺事件・・・この疑惑は信長の暗殺・本能寺にも共通します。
朝廷は悪いことをしない・・・という明治史観で消されましたが、頼朝の死も、本能寺の変も、なんとなく朝廷の犯罪の臭いがします。
朝廷も、必死で戦っていたのです。
朝廷による頼朝排除の動きに呼応した? とも思える鎌倉御家人もいます。
頼朝、そして後継者の頼家の元で覇権を争う北条と比企・・・この流れに置いて行かれてしまった創業の功臣たちがいます。
頼朝の旗揚げ以来の上総、千葉、岡崎、土肥、佐々木などといった面々はテレビに出てきません。
つまり、記録にないのです。
「俺たちが作った鎌倉なのに・・・」 のに・・・、のに・・・、のに・・・
「のに・・・」ほど怖い不満要素はありません。
贔屓の引き倒しを起こす内部分裂の病原菌です。
頼朝の死で「のに・・・ウイルス」が伝染を始めたのは事実です。
幕府の中核は大江広元や三好、中原と言った文官に代わり、武張った御家人たちの出る幕は減っていきます。
軍事政権から官僚政治への転換が起こっています。
比企と北条の綱引き
安定政権にあっても、主流派と非主流派の確執があります。さらには主流派の中でも主導権争いがあります。
現在の政党内でも同じ事で与党と野党、与党の中でも主流派、非主流、反主流、連立会派・・・いろいろな人の思惑が、いろいろに混ざり合って、何が何だか当事者にすらわからない状況です。
現代の日本ですら、憲法改正問題では与野党が変な組み合わせですよね。
改正派の維新が野党で、消極派の公明が与党です。
その公明党閣僚に国土交通省を任せて災害対策を怠っている(?)現政権・・・次の災害でボロが出ないか・・・心配しています。
頼朝の後継、頼家政権の誕生で一躍、檜舞台に登場してきたのが比企能員です。
なんとなく、「政治屋・小沢一郎」を思わせるようなキャラクターで「俺の、俺たちによる、俺たちの政治」を指向します。
頼家の側近を身内で固め、「この紋所が目に入らぬか!」というスタイルの権威主義を指向します。
これに大江広元を中心にする官僚派や、集権指向の梶原景時が賛同し、北条、三浦などの旧主流派を排除する方向へと動きます。
まずは頼家の側近を固めます。
側近に5人は
比企宗員、比企時員、小笠原長経、中野能成、そして蹴鞠相手の北条時連
明らかに、比企一党が新政権の官房を担うという布陣です。
そして、武家政権の要である侍所の長官を三浦一族の和田義盛から梶原景時に代えます。
この人事に、多くの御家人たちは危機感を覚えます。
「梶原景時=讒言」と言われるほどに陰湿とみられた男が幕府No2のポストに就きます。
御家人たちは否応なく梶原の号令に従うことになります。
こういう・・・急激な人事は破綻します。
梶原景時は軍事の専門家で、戦略、戦術では第一人者であったと言われますが、義経をはじめ多くの御家人を追い落とす讒言癖で御家人たちに警戒されている人物でした。
要するに・・・信用がありません。
「梶原が侍所別当(長官)では、御家人取りつぶし旋風が起こる」
とりわけ、一族の和田義盛が罷免された三浦一族は反・頼家の立場に傾きます。
頼朝の業績を手本にした家康の江戸幕府は、二代秀忠、三代家光の時代に徹底的に大名家取りつぶしをやりました。
些細な過失を「謀叛」にでっち上げ、お家取りつぶし、または大幅減封をしています。
有名な忠臣蔵も狙われたのは播州浅野ではなく、安芸の浅野本家と、吉良上野介の息子が養子に入った上杉本家でした。
まぁ・・・それに似たことが起きる・・・と予感した者たちが、隠密裏に動き始めます。
さて、今週もあまり進みませんでした。#26の安達の女房拉致事件にまで、行きません。