いざ鎌倉 第24回 京の頼朝

文聞亭笑一

先週の「鎌倉殿・・・」は富士の巻狩りと、曾我兄弟の仇討ち話だけで終わってしまいました。

いったいどこで起きた話か? 裾野市や御殿場市に多数の遺跡が残ります。

その中でも面白いのが国道246号線にある「矢羽(やば)居(い)交差点」です。

「日本一ヤバイ交差点」などとネットに書き込む輩が居て、危険な交差点と誤解され炎上したこともありますが、この交差点がとりわけ事故が多いわけではありません。

巻狩りの最初の儀式で矢を射た場所・・・と言うのが地名の由来です。

「矢羽射」・・・が正しい。

「頼家が、目の前に現れた大鹿を一矢で撃ち取った」と吾妻鏡には書かれています。

「頼家の放った矢は大鹿の胸を貫き、心の臓に達した」などと書きます。

今回のドラマでは、頼家の弓の技を過小評価して描きましたが、あそこまでのことはなかったと思います。

頼家は蹴鞠の名手ですから、運動神経は良かったはずです。

身体も頼朝より一回り大きく体力もあったと思われます。

ただ、頼家に手柄を立てさせようとする周りが騒ぎすぎて、贔屓の引き倒しになっていたと思われます。

三谷脚本は、曾我兄弟の仇討ちを頼朝暗殺を狙ったクーデター事件・・・という説を採用しましたね。

時代考証の小和田さんもその説を採っているようです。

先日、たまたま小和田さんの講演を聴く機会がありましたが、彼も歳をとりましたねぇ。そういう私も同様ですが・・・。

北条一族

初期鎌倉政権は寄せ集めの連合政権で、呉越同舟、合従連衡、有力御家人たちの主導権争いが、互いの陰謀が渦巻く世界だったようです。

そんな中で、最も有利な位置にいたのが北条氏でした。

頼朝の妻の実家、親族として頼朝一家の親衛隊を構成していました。

表御殿では大江広元が構築した「政所」「問注所」「侍所」が機能しますが、トップ人事などは奥御殿で決まります。

今も昔も変わりません。世界共通ですね。

政子が、妻として奥を仕切ります。拒否権まで持つ大実力者です。

時政が、御家人代表として頼朝の後ろ盾、相談役を勤めます。

義時が秘書室長的役割で、頼朝への情報のつなぎ、表でも、裏でも、目を光らせています。

義時の嫡男・金剛(泰時)も頼家の側近です。

さらに娘婿の畠山重忠、稲毛三郎などが、武蔵の大軍団を率いて北条親衛隊を構成します。

身内が少ない・・・と言うより、「いない」に等しい頼朝にとっては、北条こそが親族なのです。

そして・・・それ、北条を特別視することが・・・古参の御家人たちにとっては面白くないのです。

頼家の乳母・・・比企家がその後釜を狙いますが、少々焦り気味というか、やたらと動きすて・・・墓穴を掘っていきます。

範頼追放

血の繋がった兄弟でも、一緒に住んでいた経験がないと赤の他人同様なのでしょうか。源平の物語を読んでいると家族団欒、家庭円満の平家と、同族で殺し合う源氏の対比が鮮やかに描かれます。とりわけ頼朝の周辺は兄弟、親族を次々に殺していく歴史です。 私などは田舎の大家族社会で育ったためか「兄弟仲良く」が基本中の基本でした。父の兄弟が多かったので、父系だけで従兄弟が17人も居て、それが兄弟同然につきあっていましたね。 その感覚からすると頼朝は・・・宇宙人です(笑) 頼朝が討たれたかもしれない・・・と言う時に、範頼が「鎌倉のことは、私が居ますから・・・」と発言したことが「謀叛」として騒ぎ立てられます。これは、範頼に対する悪意のある者の讒言でしかありません。「範頼が邪魔になる人物は誰か」というのは歴史小説家の格好のテーマですが、北条説、比企説の他に三浦説もあります。三浦一族は、むしろ範頼を頭にしたクーデターを企画していたストーリーが疑われます。それが崩れて、範頼が邪魔になったのかもしれません。 ともかく、野心もなく、政権担当能力もない善人の蒲殿・範頼は謀反人の汚名を着て伊豆に流され、暗殺されてしまいます。

大姫入内工作

1195年に入ると頼朝は二度目の上洛の旅に出ます。狙いは・・・大姫入内、つまり後鳥羽天皇の后にしようという企み?です。

娘を天皇に嫁がせて男子が誕生すれば天皇の外祖父となる・・・、摂関家など公家たちの常套手段で、清盛のやったことです。

清盛は娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、その子・安徳天皇の外祖父として朝廷を牛耳りました。

頼朝がそれと同じ事を考えていたのか、それとは違う鎌倉流を用意していたのか?

結果的に失敗に終わりますから、その狙いまではわかりません。

北条始め比企や三浦など関東武者には全くわかりませんし、公家出身の大江広元なども賛同していなかったようですね。

後鳥羽天皇はこの時15歳です。

すでに苦情関白の娘・任子、土御門家の娘・在子と、二人の中宮がいます。

大姫を3人目に送り込もうと企てます。

今回の上洛は、いわばお見合い上洛ですから大姫は当然、政子も伴います。勿論、表向きにはそのことを伏せて「東大寺大仏殿の落慶法要に出席する」としていますが、朝廷への献上物を始め、関係筋への賄など鎌倉の財のかなりな物を注ぎ込みます。

鎌倉は武家政権、いわば農村文化ですから日常的な贅沢はしません。

その分だけ、戦争がなければ幕府の台所は豊かなのです。

また、奥州の金山も手に入っていますから産出した金銀は鎌倉殿の懐に入っています。

鎌倉は京・大阪に比べたら商業資本が未発達なこともあって金銀も流通に回るよりは資産化してしまっていました。

これを、惜しげもなくばらまきます。

その狙いは後白河法皇の寵姫であった丹後局、彼女との駆け引きになります。

また、彼女と対立している関白・九条兼実とも掛け合わねばなりません。

かなり難しい交渉ごとです。

滞在5ヶ月、結論の出ないまま頼朝一家は京から引き上げます。

政子や大姫、それに頼家にとっては長期修学旅行でもありました。

頼家が後に蹴鞠に熱中することになりますが、この時の京都滞在で覚えたのかもしれません。

サッカー少年が、同世代のサッカー仲間を集めて政権ゴッコをする・・・これが後の頼家政権です。

鎌倉でも、京都でもそうですが、頼朝という人は政治には熱心ですが、子供の教育に関しては全く無関心のように見えます。

情が薄い・・・などとも言われますが、兄弟だけでなく自分の子供たちも政治の道具にするだけで、父親らしいことをしていませんね。