いざ鎌倉 第25回 頼朝落馬
文聞亭笑一
前回の放送で頼朝の長女・大姫が亡くなりました。政治の道具に使われた短い一生でしたが、「個性豊かに、思うがままに過ごしたのだ」という演出家の配慮に救われる気もします。
というのも、ほとんどの小説では大姫を精神病患者として扱っていました。
この後も・・・頼朝は諦めずに入内工作を続けます。
今度は、二女の乙姫(13歳)を土御門天皇(5歳)に入内させようと動きます。
後鳥羽天皇は18歳で天皇を退位し、上皇になっていました。
当時から、天皇という存在は政治に口出しをしてはいけないと言う不文律があました。
現人神、神様ですから政治などと言う下世話なことは配下に任せておくべきだという発想で、それは現代の象徴天皇にも繋がる発想です。
その風潮に対して政治改革を実行し、天皇親政を実現しようとやる気満々だった後鳥羽天皇も、朝廷の実権を握るためには院政を再開するしかありませんでした。
朝廷内部も互いの利害関係が複雑怪奇に絡み合って、派閥争いが盛んでしたね。
九条、土御門、近衛に、頼朝の後ろ盾のある一条・・・こんなところが呉越同舟です。
このドサクサに紛れてでしょうか? 鎌倉からの賄攻勢、物量作戦の成果でしょうか、乙姫の入内はすんなりと認められ、「女御」の称号が授けられました。
朝廷にとっても頼朝は無視できない存在となっていました。
荘園が武士たちに横領されて朝廷の収入がなくなりつつあるからです。
稲毛三郎の相模川架橋
武蔵の御家人の統領は畠山重忠ですが、その配下の有力な御家人として稲毛重成がいます。
武蔵の三羽烏などとも称えられ、畠山太郎、都築次郎、稲毛三郎と並び称されます。稲毛三郎の領地は名前の通り稲毛郡・・・現在の川崎市中・西部です。
畠山重忠同様に、頼朝の媒酌で北条政子の妹を嫁にもらっています。
頼朝からの信任厚い北条軍団、頼朝親衛隊ともいえます。
稲毛三郎の妻・政子の妹が、頼朝や政子の上洛中に重病に陥ります。
それを、帰路の美濃で知った三郎は、頼朝に叱られる、仲間に嘲笑されるのを覚悟の上で、頼朝護衛の列から離れて妻の元に駆けつけることを、恐る恐る願い出ます。
「何をぐずぐずしておる、すぐに戻れ。わしの一番良い馬を与える。それに乗って駈けに駈けよ」
頼朝の数少ない人情話(?)美談として伝わります。
三郎の妻は亡くなってしまいますが、三郎は出家して妻の供養にと当時の東海道の交通の難所であった相模川に橋を架けることを発願します。
私財は勿論、関東各地に勧進して資金を集め、技術者を集めて架橋にかかります。
この橋の遺構は、たまたま関東大震災の折の液状化現象で地上に現れ、歴史遺産として茅ヶ崎市が保存しています。
現在の相模川の流路とはかなり離れていますが、大きな河川の河口付近の流路は洪水のごとに変わります。
頼朝落馬
1198年12月、相模川の架橋が完成します。
「渡り初めには是非鎌倉殿に・・・」という三郎入道の依頼に頼朝は大喜びで出かけていきます。
鎌倉から茅ヶ崎まで・・・小春日和の湘南の海岸を騎乗していく、爽やかだったと思います。
気持ちが高揚してテロップだったり、並足だったり、全速で駈けさせてみたりと・・・乗馬の楽しみを満喫するような小旅行ではなかったかと思います。
できあがったばかりの橋の渡り初め、現在のようなテープカットはなかったでしょうが、神主のお祓いの後、将軍が先頭になって渡っていく。
というセレモニーではなかったかと思います。
頼朝にしてみれば、「義兄弟の晴れの舞台に花を添えてやる」・・・という、満足感に浸っていたと思います。
・・・・・・が、事件はその時か、その後か、闇の中で・・・起きてしまいます。
「頼朝が落馬し、人事不省に陥った」と記録は書きます。
そして、それ以外・・・何も書きません。
その数日後に頼朝は息を引き取ります。
なぜ事故が起きたのか・・・800年後の現在も不明です。
歴史小説の分野では「頼朝の死」と「信長の死」が不審死の代表とされ、多くの作家が死因の推理に挑戦しています。
行事の中で起きた事故だとする説もあれば、帰路での事故の説もあります。
① 橋材である杉、檜の強烈な香りを嫌って馬が暴れた
② 日頃運動不足の頼朝が、乗馬の激しい運動で心臓発作を起こした。
③ 朝から太陽の下で活動して・・・軽い貧血を起こし意識を失った。
④ 祝宴の酒か、食事に毒が盛られた・・・毒殺説
⑤ あまりの上機嫌で血圧が上がり脳卒中を起こした。
⑥ 酒に酔って乗馬の操作を間違えた・・・馬が暴れて川に投げ出された、溺死説
⑦ 政子が、頼朝の浮気を疑って刺客を差し向けた。
枚挙にいとまがありません(笑)。
さらにいえば・・・落馬したのかどうかも不明なのです。
武士の頭領である頼朝が落馬したのではあまりにもみっともないので記録を消したという説です。
中には、後世になって、頼朝を大いに尊敬した家康が「頼朝公の恥になるような記録、伝承はすべて抹殺せよ」と命じて、落馬に関する記録をすべて抹消してしまった・・・などという説まであります。
これは無理な説ですね。
歴史書や公家の日記まで抹消はできません。
ともかく不思議なのは、頼朝の死に関する記録がほとんど残っていないことです。
その前後の・・・どうでも良い記録はゴマンとあるのですが、頼朝の死因に関する記録がありません。
乙姫まで・・・
不幸は連鎖します。
鎌倉源家は二女の乙姫が父の後を追うように病に罹り、世を去ります。
これで、頼朝が画策した公武合体策は消滅してしまいます。
「公武合体」というのは明治維新の時に岩倉具視が提案した策ですが、頼朝の発想も広義には公武合体です。
ともかく・・・大姫、乙姫と頼朝の娘二人は相次いで世を去ります。
そして2代目将軍として長男の頼家が鎌倉殿に就任するのですが、ここから頼朝側近の旧勢力と、頼家派の葛藤が始まります。
頼家派は 比企能員 梶原景時 大江広元
中間派は 中原親能 八田知家 二階堂行政 三善康信 足立遠元
頼朝派は 北条時政 北条義時 安達盛長 和田義盛 三浦義澄