いざ鎌倉 第26回 鎌倉殿の13人
文聞亭笑一
ドラマが始まって半年が過ぎました。物語の主役を務めてきた頼朝が原因不明の事故で亡くなり、ここからがドラマのタイトル通り「鎌倉殿の13人」のサバイバルゲームの始まりです。
13人のサバイバル・・・ではありませんね。
源氏の嫡流である頼家、実朝、公曉・・・それに阿野全成を含めた源氏の血脈を含めて、20人近い者たちの生き残るための死闘です。
結果はご存じの通り義時の北条得宗家に集約されていくのですが、そこに至るまでに・・・この半年のドラマで活躍してきた御家人たちが次々と粛正されていきます。
粛正・・・とは違いますね。
粛正は権力者が異分子を排除するのですが、鎌倉殿の寄り合いでは、仲間はずれを作り、それを村八分にして重箱の隅をつつき・・・些細な罪状を見つけてリンチしていきます。
なんとも陰湿な政治ゲームですが、現代でも党内の派閥抗争とかで同じ事が行われています。その最大規模のものが12億人を支配するどこかの国の「党」でしょうかね。
新将軍/頼家
吾妻鏡など史書は頼家を愚人のように書きますが、それは政権の中心にいた大江広元らが自分たちの失政、失策を弁護するための方便だと思います。
頼家は弱冠18歳の青年です。親父の政権運営には参加させてもらっていませんでした。
行政、立法、司法の三権に関して自ら扱ったことはありませんでした。
その青年に、ある日突然、「征夷大将軍に任ず」と辞令が飛んできます。
親父の側近たちに「どうしよう? 良きに計らえ」と言うしかありません。
良きに計らった<つもり>だったのが大江広元でしたが、大失敗をしてしまったのが侍所の人事です。
武闘派、体育会系の和田義盛に変えて、官僚的な梶原景時を侍所別当に任命してしまいます。
梶原は頼朝の時代には警察権を握り、治安維持の傍ら、有力者たちの弱みを握るスパイ活動をしてきた男です。
有力者たちに煙たがられるのは当然で、しかも、景時自身は文学的才能が高く、あることないこと組み合わせて推理小説を書いてしまうタイプでした。
梶原景時と言えば「讒言」という言葉が思い浮かぶほど「他を評するに酷」だったようです。
義経の戦果をボロクソに評論したなどとも言われます。
大江広元としては「世代交代を進め、知性派で頼家体制の中核をまとめる」という意向だったでしょうが、古参の大物御家人たちにとっては「隠居勧告」にも感じます。
そして・・・頼家の後ろには比企家の陰がちらほらと映ります。
比企・・・古参の御家人たちから人気がありません。
広元の描いた「第一次頼家内閣」は、与党の御家人たちに不人気で「13人の合議制」へと・・・無血クーデターを起こしてしまいました。
この失策の罪を頼家に与えるのは筋違いです。鎌倉殿官僚機構のド・チョンボだったのです。
鎌倉殿の13人
頼家は、決して暗愚ではなかった・・・というのが私の感覚です。
若干18歳の若者ではありますが、頼朝が全く放任していたわけではなく、それなりの教育をしてきたはずですし、頼朝の眼鏡にかなっていたと思われます。
そうでなければ、冷酷と言われる頼朝は廃嫡していたでしょう。
にもかかわらず、御家人たちから不満が出たのは
① 大江広元、梶原景時らの官僚派による頼家への情報パイプの独占?
要するに、古参御家人の出る幕がなくなった。「オヨビデナイ現象」
比企、梶原に権力が集中する不安
② 頼朝/頼家の比較論・・・「頼朝様なら、こうではなかった」
いつの時代でも、どこの組織でも必ず起きる現象です。
古参の者が既得権を守ろうとする抵抗で、先代を引き合いに出して新政権を批判します。
こういう雰囲気に気がつき、早速手を打ったのが・・・実は大江、梶原の官僚派でした。
古参の勢力と対抗しても勝ち目はない、頼家を犠牲にして妥協しようというのが合議制の提案でその根回しの順番に興味があります。
合議制提案の連判状、巻紙には筆頭に梶原景時の名があります。頼家の側近をまず説得しましたね。「このままじゃじゃ勝てぬ」と。 次に和田義盛、不平不満派の筆頭です。
3番目に安達盛長/頼朝の側近中の側近、そして三浦、北条と続き、その後に比企が来ます。
このあたりが面白いですね。
比企にとっては頼家の専断、専制は望むところで、自分が頼家の後ろ盾として権力をふるえます。
頼家から権力を奪う相談は歓迎しなかったと思いますが・・・大江や梶原を敵に回すわけにはいきませんから妥協したのでしょう。
そして足立、八田、二階堂、中原、大江と官僚派が続きます。
これを政子に見せたところ「義時を加えなさい」の鶴の一声、13人目に北条義時が加わります。
これで・・・頼家の将軍の権限を停止してしまいました。
しかも、この閣議に将軍を加えないというのですから、将に傀儡化です。
頼家の反抗
反抗と書きましたが犯行でもあります。
好色は武勇のうち、好色は父譲り・・・先週の放送でも頼朝がそれを是認していましたが、政治活動を制限されて不満な頼家は女漁りに精をだします。
父の最も古参の側近である安達盛長の息子、景盛に評判の美女の側室がいると知ってちょっかいをかけます。
「将軍」を笠に着て移籍?を強要しますが断られます。
そこで、安達景盛を三河に出張させ、その留守を狙って女を奪い、御所に監禁し強姦してしまうという暴挙に出ます。
さらに、出張から帰った盛長が返還を求めて抗議すると「謀叛だ!」と兵を派遣して討伐しようとします。
無茶苦茶・・・将に暴君です。
これを知った尼将軍が怒ります。甘縄の安達屋敷に駆けつけ、
「安達を討つなら、まずこの尼を射よ」
と、啖呵を切ります。
これには安達討伐に出動していた頼家側近の小笠原長経も仰天します。
この事件の結果、権力序列、構造が、なんとなく見えてきました。
名目は将軍の名で政が行われるが、将軍のすることは形だけ、議案は官僚が作り、合議にかける。
それで決まったことでも、最後には尼将軍・政子の拒否権がある。
・・・政子の代弁者という位置づけで、義時の存在感が増していきます。