いざ鎌倉 第28回 机上の改革
作 文聞亭笑一
ようやく「安達女房拉致事件」が放送されました。
私としては「やれやれ・・・」といった感じなのですが、吾妻鏡などの資料や従来からの通説とは違った描き方になりました。
現代の倫理観で考えてみれば、放映したようにしか描けないわけで、他人の女房を拉致、監禁し、強姦して我欲を押し通すなどと言うのは獣のすることです。
鎌倉時代、800年前のことはいえ、そういう悪逆非道を公共放送NHKが映像にできることではありません。
安達女房は同意していたとするしかありません。
はてさて・・・800年前の倫理観、現代人には理解できないことが多すぎます。
とはいえ「安達女房拉致事件」は頼家と政子の間で亀裂が起きた最初の事件です。
乳母という母子の愛情の邪魔になる存在がありましたが、この事件までは政子と頼家は「血を分けた母子」の関係がありました。
気に入らないことばかりするけれど・・・と、不満ではありましたが、大事な息子でもありました。
頼朝の後継者は頼家・・・この路線は既定路線でした。
ところが、この事件の後から・・・もう一人の息子・実朝へと政子の関心が移り始めます。
筆者は男ですから母親の気持ちはわかりませんが、「頼家がダメなら実朝がいる」と方針変更ができるものなのでしょうか?
ともかく、頼家に対する期待が萎み始めたことは間違いなさそうです。
理の社会と御家人社会
鎌倉殿の13人が政治機構として機能しない実態は前回の放送でしっかりと描いていました。
要するに村の寄り合いですから何も決まりません。
声大きい、我が儘者が騒ぎ立てればその方向に動くという組織体です。
政権を担当する大江広元、梶原景時などから見たら政権運営の邪魔者でしかありません。
参議院で野党が多数を占めた「ねじれ国会」の時代の様なものでしょうね。
その参議院が多数決ではなく全員一致の村の寄り合いだったら・・・政権は機能しません。
大江広元を中心とする文官と梶原景時は、論理のわかる法治主義の実務家です。
主人公の北条義時も三浦義村も、頼家の側近たちもそのことはよくわかっています。
わかっていないのが古参の御家人たち、その筆頭が北条時政であり和田義盛、比企義員です。
この人たちは半分以上「情の世界」に浸っています。
好き、嫌い、欲得こそ・・・判断基準の基本なのです。
武士・御家人というのは地方の実力者です。
一定の領地を持ち、その石高(経済力)と領民(軍事力)を持っていますが、その権利を保証してくれているのは鎌倉殿です。
御家人の権力の根拠・地頭職・・・現代で言えば市長でしょうね。
軍事的動員権、警察権を持った市長です。
「泣く子と地頭には勝てぬ」と言われるほどの地方の専制君主でした。
私が新入社員だった頃、私の勤めていた会社のある支店長は「会社が潰れたとて、我が支店は生き残る」などと演説をぶっていましたが、鎌倉殿の時代の、御家人たちの気持ちと同じでしょうね。
自分の権限のよりどころを忘れています。
こういう人を夜郎自大とも言います。
そういえばA新聞、「日本は潰れてもA新聞は生き残る」という大層な気構えのようです(笑)。
だからといって日本を潰すような発言はして欲しくないですね。
安倍さんが嫌いだからと言って国葬批判の川柳を捏造し、国民の総意であるがごときに仕組み、「国葬反対」の運動を仕掛けます。
従軍慰安婦、沖縄珊瑚礁などに続く「やらせ記事」の伝統でしょうね。
これが報道の自由だそうです。
国を売るような、やらせ記事はごめんです。
頼家の反撃
通説では「頼家は無能な為政者」であったように描きますが、決して無能ではありません。
むしろ、父を越えようという焦りが・・・旧勢力の抵抗に遭って挫折していく流れのようです。
頼家は京から日本一という評判の数学者を招きます。
真言宗の源性という男で、彼に御家人たちの領土の大きさを調査させます。
要するに国勢調査の簡易版、書類上での検地をやります。
こういうことを発案するだけでも頼家は非凡なのです。
御家人寄せ集め勢力の鎌倉殿を、中央集権の政権として確立すべく動き始めていました。
頼家は頼朝が権威を確立してきたプロセスをよく学習していました。
頼朝は地頭制度を軸に領地を安堵、加増することで自らの権威を確立してきました。
平家を倒し、奥州藤原を倒し、彼らの持っていた領地を分け与えることで御家人たちを支配してきました。
戦争、侵略による政権維持策でプーチンのやっていることも800年前と変わりません。
頼家にとって、もはや戦争して領土を拡大する相手はありません。
「餌にする領土」がないのです。
そうなると・・・父・頼朝が「データなしに、いい加減」にやった区割りを、計算し直すという方法を思いつきました。
一定の基準を設けて、それを越える分を没収し、新たに雇用する役人たちに分け与える・・・。
これで頼家の官房たちが頑張ることになります。
若気の至り、絵に描いた餅でしたね。
単なる計算式だけで「多すぎるから返上せよ」と言われて領地を返すものなどいるはずがありません。
さらに頼家が標的にしたのが大江広元や三善義信などの政権中央の文官たちです。
御家人は暴れ出すからヤバイ、文官ならねじ伏せやすい・・・と思ったかもしれませんが、文官ほど理論闘争には長けています。
頼家が僧・源性にやらせた計算根拠の不確かさを突いてきます。
さらに「鎌倉殿の13人」に回状が回ります。
武家たちにとっても「明日は我が身」の政策です。
13人の閣議が始まります。
いやすでに10人。
梶原景時は失脚しました。
京に向かう途中で討手に阻まれ討死しています。
安達入道と三浦義澄は天寿を全うしました。
閣議は「冗談じゃねぇ」と北条時政、「・・・んだ」と比企義員・・・即、否決です。
鎌倉武士にとっては「一所懸命」土地こそ我が命です。
そういう基本がわからなかった頼家とその取り巻き、全学連の学生運動、鳩ポッポの民主党政権に似ています。
大江広元
鎌倉幕府の官房長官として「鎌倉殿」を担った中心人物ですが、常に脇役に徹します。
幕府というのは軍事政権ですから、軍事力を持つ者に物事の決定権が与えられますが、経済を中心とする民政とは別次元の話になります。
鎌倉幕府の中央は揺れていますが、御家人たちが管理する地方の民政が揺れている事件は発生していません。
荘園の崩壊で私有地が拡大し、武士も、百姓も、商人も自由度が増して新しい経済に向けて活発に動いていた時代だったのでしょう。
成長期には些細なことでの訴訟事件は起きません。
訴訟などして立ち止まっているよりも、新たな成長機会を追う方が、よほど見込みが高いのです。
大江広元にとって鎌倉幕府は自分が手がけた作品です。
箱の中では北条だ、比企だと騒いでいますが、「幕府」という箱こそが広元の生きがいだったのでしょう。
鎌倉幕府の創業者は頼朝と、大江広元の二人の合作だと思います。
SONYの井深さんと盛田さんのように。