いざ鎌倉 第40回 実朝頑張る

作 文聞亭笑一

先週の和田合戦、義盛の最後の場面は「騙し討ち」に近い映像表現で、主役の北条義時、脇役の三浦義村を悪人、悪党と描いていました。

大河ドラマの主役を、悪人として描くのは初めてのことではないでしょうか。

いずれにせよ、政治音痴で体育会系の和田義盛を愛すべき英雄に仕立て上げましたね。

時代考証を担当する加来先生によれば、これが日本の伝統的英雄像で、現代にも残る日本文化の特徴だと言います。

政治家や官僚はどれだけ実績を残しても悪人、悪党です。

言われてみれば「そうかな」と思う部分もあります。かつての大鵬、王、長島に始まり、イチロー、大谷翔平とヒーロー、英雄の伝統は続きます。

政治家を評価しない伝統は国葬反対、統一教会問題などの安倍バッシングにも現れていますね。

政治家嫌い、官僚嫌いの伝統文化ではありますが、体育会系礼賛は軍隊、戦争にも繋がります。

気をつけないといけません。

鎌倉大地震

実朝にとって父親代わりと慕っていた和田義盛が討伐されて、政所に不信感を抱いた実朝は、政所の独断政治に対して自己主張を強めます。

北条義時、大江広元のコンビと距離を置こうとします。

その後ろ盾としたのは京都朝廷、後白河法皇の権威です。

この頃から実朝は「大政奉還」を考えていたらしく「源氏の世は自分が最後」と考えていた節があります。

後継者は後鳥羽上皇の皇子を養子にもらい受ける・・・という案です。

これには坊門姫(九条家)のアドバイスもあったようですね。

今回のドラマでは「実朝は性交不能者」であったとしています。

そうだったかもしれません。

和田合戦の直後に鎌倉を大地震が襲います。

実朝は神の怒りではないかと恐れます。

その「神」を鎮めてもらおうと、神様の元締めである後鳥羽上皇に対してのラブコールの歌を送ります。

山は裂け 海は浅せなし世なりとも 君に二心吾があらめやも

余談になりますが、鎌倉市内には「歌の橋」とも呼ばれる鎌倉土橋があります。

この橋は泉の乱で捕らえられた上野国の武士、渋川刑部兼守が実朝の恩赦にお礼として架橋したと言われます。

渋川は無実を訴えた歌を10首、遺言代わりに荏柄天神に奉納します。

これが実朝の目にとまり、再審の結果で無罪放免となりました。

荏柄天神・・・それほどの社ではないなどと思っていましたが、日本三大天神の一つだそうです。

残りの二つは有名です。

京の北野天満宮、九州の太宰府天満宮

余談ついでに・・・、京都の祇園祭で先頭を務める長刀鉾、あの長刀の下に飾ってあるのは泉親衡の像です。

泉と京都、そして朝廷・・・関係が深そうですね。

そうなると・・・泉の乱から和田合戦へと続く流れの底には、朝廷の黒い手が働いたとも見えてきます。

大船建造・陳和卿(ちんなけい)

将軍親政を打ち出した実朝がまず始めたことは「宋に渡る舟を建造する」ことでした。

京の公家文化に憧れていた実朝に、更に大きな夢を与えたのが陳和卿という、宋から来た仏像技術者でした。

この男、まずは源平の戦で破損した東大寺の大仏像・その頭部を修復した鋳物師です。

この時に山門の仁王像を製作したのが彫刻師・運慶、快慶ですね。

更に言えば鎌倉名物の鎌倉彫は陳和卿の作風を運慶の息子が真似て始めたものだと言います。

この陳和卿が仏教建築の盛んな鎌倉にやってきました。

「大仏を鋳直した男」と有名人ですから実朝に呼ばれます。

その初対面で陳和卿のやった大芝居というか・・・、お世辞、オベンチャラ

「将軍様は宋の国、医王山の高僧、私の師にそっくりだ」

を、実朝は信じてしまいます。

京への憧れが、文化の源である大陸へと広がっていましたね。

現代の若者にも共通しますが「未知への憧れ」に火が付きました。

さっそく造船に掛かります。

1216年4月、舟は完成しますが・・・海へ引き出す前に横転し、進水に失敗します。

重心の計算が間違えていたのか、それとも由比ヶ浜のような遠浅の海岸で大型船を進水させようとすることが無謀なのか、原因は記録されていませんが・・・陳和卿は造船のプロではありません。

鋳物師、彫刻師です。実朝が口車に乗せられましたね。

陳和卿はどこかへ逃散したようです。

ちなみに・・・造船と言えば三浦一党はプロ揃いですが、協力したと言う記録もありません。

薄笑いを浮かべながら、実朝の造船を観ている義時、広元、義村の顔が浮かびます(笑)

渡宋は諦めましたが大陸への思いは強く、宋から仏舎利を取り寄せ円覚寺に奉納しました。

鎌倉仏教

仏教伝来は法隆寺、四天王寺に代表される聖徳太子の時代からです。

奈良時代には東大寺、唐招提寺、興福寺、薬師寺など「奈良の都の八重桜」と言うほどに盛んになりました。

平安遷都の頃から御所の鬼門を守る比叡山に最澄の延暦寺、そして庶民仏教としての弘法大師・空海の高野山が仏教の中核になります。

鎌倉初期は新興宗教、仏教の新しい派が幾つも誕生した時期です。

平安末期から法然、親鸞と言った浄土系の宗派が立ち上がります。

この宗派は朝廷・とりわけ藤原氏が大壇家を務める興福寺や奈良の古寺、天皇家が保護する延暦寺、園城寺などと対立し、しばしば朝廷による弾圧を受けます。

が、弘法大師によって広がった庶民の信仰は権威を排除した新興宗教へと向かいます。

そこへ・・・武士のための仏教・・・という形で栄西が臨済禅を持ち込みました。

鎌倉幕府の支援も得て京都、鎌倉を中心に一気に広がります。

妙心寺、大徳寺など総本山と呼ばれるものが続々と誕生します。

修行、集中といった心身鍛練が武芸にも通ずるところがあったからでしょう。

京の禅寺と言えば京都五山を思い浮かべますが、これは室町時代に付けられた呼称です。

京都五山・・・天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺

これに対して、鎌倉にも仏教文化の花が咲きます。

鎌倉五山・・・建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺

改めて並べてみると・・・訪ねたことのないお寺もありますね。

紅葉狩りをかねて寺巡り「鎌倉五山巡り」をしてみたいところです。

日蓮の法華宗、道元の曹洞禅も鎌倉時代の新興宗教ですが、ドラマでやっている鎌倉時代初期よりはもう少し後の時代です。

日蓮と元寇・・・8代執権・時宗の時代です。

親鸞の名言

 「善人なお以て往生をとぐ、況んや 悪人をや」

悪人トリオである義時、広元、義村 それに尼将軍と呼ばれる政子が思い浮かんでしまいます。

13人の生き残りは4人になりました。

残る放映は5,6回ですかね。