いざ鎌倉 第30回 血塗られた系図

作 文聞亭笑一

 いよいよ・・・頼家将軍を担いだ比企能員と、尼将軍/北条政子を擁する北条時政の対立が極限に達しました。

食うか食われるか、殺るか殺られるか、そういった場面へと進んでしまいました。

頼家が健康であれば、互いの鎬合い(しのぎあい)、勢力争いといった政治の世界でしたが、頼家が重体、危篤となれば「その次」を巡る跡目争いになってきます。

頼家は重体に陥っていますが、生きています。感染症や、癌のような進行性の病気ではなかったようなので、症状が治まれば小康状態に戻り、さらに原因である「ストレス」が和らげば回復したでしょう。

●比企は「北条謀叛」と理屈づけて、頼家から討伐の許可を取ろうとします。

後継候補は頼家の嫡男である一幡・・・頼家の全権を引き継ぎます。比企が祖父として後見。

●北条は「頼家は死ぬ」と見込んで朝廷に「ポスト頼家体制の承認要求」を出します。

後継は一幡に将軍職と総守護、それに関東28カ国の総地頭、そして関西38カ国の総地頭は千幡に・・・要するに分割相続案です。

長男がまだ死んでいないのに、後継案を申請するという手回しの良さ、このあたりが、後世での、北条一門の評判の悪さに繋がります。

この種の駆け引きを、今回はどう描きますかね。

それにしても源氏・義朝の家系というのは天寿、まともな死に方をしたものがいませんね。

北条が動く

まず動いたのは北条時政、朝廷に対して「一幡・千幡分割相続案」を具申する使者を立てます。

先に、朝廷からの承認をとって、それを論拠に千幡(実朝)の相続権を確保し、一幡を抱える比企の専横を許さない・・・という守りの姿勢に見えます。

が、それはどうでしょうか。比企を挑発しているようにも思えます。

この動きを知った比企能員は頼家に「北条討伐」の指令をもらいに行きます。

危篤と言われていた頼家ですが、この時はすでに回復期にあり、自分をないがしろにする北条に腹を立て、比企一党に「北条討伐」の確約、お墨付きを与えます。

で、そのやりとりを襖の陰で聞いていた者がありました。政子自身説、政子の腹心説、仁田忠常説・・・ともかく政子に知らせが入り、時政へと伝わります。

さぁ、ここからは虚々実々の駆け引きです。互いに相手を討伐する腹を固めながら、多数派工作、軍兵を集めるための時間も必要なのです。

その点では近隣・三浦半島に兵を持つ三浦、和田を味方にしている北条が有利でした。

騙し討ち

北条時政は自邸で法事をするからと比企能員を招きます。何のための法事か?

頼家の病気平癒のための薬師如来像の開眼供養だという説

頼家が出家することになったので、その法要準備に関する打ち合わせという説

いずれにせよ「頼家のため」「将軍様のため」と言われたら断れません。

また法事、仏事では武装して出かけるわけにも行きません。

比企能員にも多少の警戒感はありましたが、北条討伐のための兵を埼玉の領地から呼び寄せるには時間がかかります。

時間稼ぎのつもり・・・も含めて北条邸に向かいます。

一方の北条時政、比企の一行が門を入るやいなや、門を閉じ、問答無用と比企能員を刺殺してしまいます。

さらに従者も皆殺しをはかりますが、二人に逃げられます。

必死で比企谷に逃げ込んだ二人の通報で、比企家は一気に戦支度に入ります。

さて、義時、このあたりのやりとりから外れて、蚊帳の外でした。

比企から来た妻を気にして時政からは連絡がなかったものと思われます。

事件が起きてから情報が入ります。

どこからも指示は入りませんが政子の元に向かいます。

いつの間にか、比企攻めの指揮官として比企の屋敷を攻撃していました。

頼家の後継者 一幡が「焼け落ちる比企屋敷で死んだ」とも言われますし、一旦逃げ出したが片瀬の浜で見つかり、刺殺された」とも言われます。

わずか6才の幼児です。なんとも痛々しい限りですが、これで頼朝の正統は途絶えました。

病が回復した頼家に政権が戻されることはなく、強制的に出家させられて修善寺へと幽閉されます。

修善寺へ流されてから、頼家の病気が再発していないところを見ると・・・ストレス性の病であった可能性がより高まります。

頼家の発作は毒物の可能性もあり得ますが・・・、同様な食事をしていた周りの誰にも似た症状が出ていませんから、その可能性は薄いですね。

頼家の子どもたち

長男、比企系の一幡は比企の乱で討たれました。

次男と4男は母方が三浦系です。それもあって、3男共々出家のまま不問とされました。

その後・・・いずれも北条家に逆らう立場をとり、若くして命を散らします。

本人の意思と言うより、周りに、反北条派に、利用された結果ですね。皆10代の若者です。

次男/公曉・・・後に鎌倉八幡の別当として戻るが、実朝事件で刑死する。

3男/栄実・・・臨済禅の開祖・栄西に弟子入りし、尾張国で養育される。

その後、信濃の御家人、泉親衡に「将軍」と担がれ挙兵して敗戦・・・逃亡。

京で和田氏の残党に担がれて六波羅攻撃を企画するが、露見し、自殺。

4男/禅暁・・・公曉の弟、三浦義胤の一族として生き延びるが、承久の乱で上皇方につき敗死。

政子にとっては、いずれもが孫なのですが・・・史実からあまり愛情らしきものが感じられません。