いざ鎌倉 第33回 武蔵の主

作 文聞亭笑一

北条家によるライバル掃討作戦が着々と進行しています。

その発信源・・・というか、欲望の発生源を時政の後妻・牧の方とする脚本が面白く、また宮沢りえがその役を上手く演じていますね。

ここまでのところ「女たちが歴史を動かした・・・鎌倉編」といった形の物語になっています。

北条政範の頓死

鎌倉殿の13人を次々と粛正し、北条王国を築こうと画策する牧の方・・・彼女にとって究極の目的は自分の息子である政範を夫・時政の後継者とし、鎌倉幕府の実権を握ることです。

将軍職は傀儡、飾り物で政権は北条がとるという路線は、すでに時政によって着実に進展しています。

政範が時政の後継者である・・・という実績を付ければ、義時、時房の上位に立って北条家の後継者として政治の表舞台に登場することになります。

そのチャンスがやってきました。

京へ、三代将軍・実朝の御台所をお迎えに参上する護衛武士団の団長に北条政範を抜擢しました。

この役目は朝廷に対し「鎌倉御家人団の代表」とも言うべき役回りですから晴れやかなものです。

鎌倉武士団の中から「優秀な若手」「将来を担うエリート」と目される者たちが選抜されています。

北条政範・・・団長、この役目を終えれば北条家の正式な跡継ぎとして公表予定

畠山重保・・・畠山重忠の嫡男、時政の孫(娘の子)、武蔵武士団の統領の後継者

結城朝光・・・北関東武士団の代表

佐々木盛季・・・頼朝旗揚げの功臣、佐々木四兄弟のうち佐々木盛綱の3男

さらに、京で彼らを迎えるのは京都守護の平賀朝雅、牧の方の娘婿です。

政範にとっては義兄ですね。

朝廷とのつなぎは平賀朝雅が一切を取り仕切ります。

となれば、義弟の北条政範を表に立てることは当然で、天皇、上皇への謁見もありえます。

ただ、この時の政範は15才、中学生の年齢です。

鎌倉代表のプレッシャーは相当な重荷だったとも察せられます。

その政範が、京で突如発病し、死去してしまいます。

病名、症状、原因など、全く記録がありません。

発病から死去までの時間が短いのが不思議で、暗殺、毒殺説などもありますが・・・平賀朝雅の屋敷にいますから、暗殺者が入り込む隙はないと思われます。

心臓病や脳疾患は15才の年齢では可能性が低いですよね。

となると流行病か?ならば記録に残りそうです。

となると・・・腸捻転か、急性虫垂炎(盲腸)が疑われます。

鎌倉代表としての過度の緊張感を考えると、腸捻転が疑われます。

この病気は初期の手当を間違えると一晩も持たずに死んでしまいます。

症状が盲腸炎に似ているので、その手当(冷やす)をしてしまいがちなのですが、腸捻転は温めなくてはいけません。

状況から推察するに・・・この可能性が最も高そうですね。

平賀朝雅

テレビには後鳥羽上皇の側近として中年の男が「朝雅役」出演していますが、あれは朝雅の父・大内惟義です。

朝雅は当時25才、牧の方の娘婿、政範の義兄ですから若者です。

NHKが役者を減らすために親子を一人の人間に演じさせましたかね?

ともかく、平賀家は源氏の名門で、源義光の流れと言いますから甲斐の武田家と同じルーツになります。

鎌倉幕府にあっても信濃源氏の統領として重きをなしています。

この当時、平賀家の本領は佐久地方です。

また、平賀朝雅は武蔵の国主、伊賀守・伊勢守を兼務し、京都における鎌倉幕府の代表者ですから飛ぶ鳥を落とす勢いでした。

余談になりますが、その子孫と称するものが戦国時代にも登場します。

佐久・内山城主・平賀玄信です。

信濃から上野攻略を狙う武田信玄と対決し、滅びました。

また、江戸末期には幕末の発明王で知られる平賀源内が出ますが、彼もルーツは信濃源氏だと自称しています。

京での喧嘩

北条政範が急な発病で苦悶している(? 腸捻転なら激痛)中で、平賀朝雅が主催する宴会が開かれていました。

酒の勢いか、それともどちらかが仕掛けたか、平賀朝雅と畠山重保が口論になります。

ついには刀に手がかかったといいますから、相当激しい喧嘩だったと思われます。

喧嘩の原因は武蔵国の支配権、軍事的指揮、命令系統に関するものであったと思われます。

畠山重保は畠山重忠の嫡男です。

畠山重忠といえば源平合戦、奥州征伐など鎌倉幕府創業期の軍神とも言うべき存在です。

源平合戦では義経、範頼と言った頼朝の弟たちを主役に物語を作りますが、大きな戦の先陣は常に畠山が勤め、向かうところ敵なしでした。

この当時の武蔵国の国守(知事)を務めていたのは平賀朝雅です。

しかし、平賀は京都守護が主務のため、領地の管理ができません。

そこで実務を義父の時政が代行しようとします。

しかし、実態としては武蔵の各地は御家人たちの領地(市長)で、その御家人たちが自分たちのリーダと仰ぐのは畠山重忠です。

名目上は県知事が統治しているようでいて、実際は市長会の代表が県政の実務を代行しているといった案配です。

武蔵を意のままにしたい・・・と考えれば、畠山は邪魔になります。

畠山も平賀も、いずれも時政の娘婿なのですが、畠山には先妻の娘、平賀には後妻(愛妻)の娘となれば、後妻にめろめろな時政の重心は平賀に偏ります。

こういう環境ですから一触即発ですね。

権威と、名目論で武蔵を語る平賀朝雅

実力と既成事実で武蔵を語る畠山重保

喧嘩になって当然でしょう。

その同じ屋根の下で・・・北条政範が病魔で苦しんでいます。

讒言(ざんげん)

どうも今回の物語はこの「讒言」による事件が多くてうんざりします。

現代で言えば「スクープ」と称してマスコミ雀が騒ぎ立てるのと同じですね。

政範の死でガッカリしてしまっている牧の方、時政に讒言したのは平賀朝雅です。

政範が病気で苦しんでいるのに宴会をしていたのはケシカラン、京でもめ事を起こすのはケシカラン・・・と、宴会を主催した自分を棚に上げ、喧嘩のもう一方の自分も棚に上げ、「畠山謀叛」をささやきます。

曰く、「畠山は朝廷の権威や、鎌倉殿の意向を無視して武蔵国を私している」

時政にしてみれば、人気の高い畠山重忠は武蔵を支配する上で目の上のたんこぶです。

なんとか排除したい、その理由は何でも良いのです。

川崎の奥に隠居していた稲毛の入道を鎌倉に呼び出して、讒言したかのように仕組みます。なんとも汚い。