いざ鎌倉 第31回 実朝の嫁
作 文聞亭笑一
鎌倉殿の13人から、毎週一人ずつ消えていくといった感じですね。先週は比企能員が消えました。
梶原、安達、三浦に次いで4人目が比企でした。残りは9人ですが、北条への対抗馬となり得る御家人は和田義盛を抱えた三浦一族程度しか残っていません。
北条が手回しよく朝廷工作をした成果で、比企の乱が治まる頃にはすでに千幡に「実朝」の名と、将軍位が認可されて来ました。
この当時の「京⇔鎌倉」の通信は片道7日ほどかかりますから異例の早さです。
かなり以前から幕府と朝廷の間で交渉が進んでいて、「頼家の後は実朝」が了解事項になっていたようですね。
お互いの公式文書が六波羅に用意されていて、早馬、駅伝などの通信手段で「いけ!」「よし!」といった感じだった様に見えます。
形式主義で、手続きに手間暇かける公家文化にしては異例すぎます。
こういう交渉に当たっていたのは鎌倉幕府の文官たち・中原、三善、大江といった面々ですから、彼らはすでに北条と手を握っていたようにも思えます。
頼家・修善寺へ
朝廷には「死んだ」として報告された頼家は、北条の本拠・伊豆の修善寺に流されます。
伊豆・修善寺、弘法大師が開いたという「独鈷(どっこ)の湯」が有名な温泉地です。
岡本綺堂の名作「修禅寺物語」は、流された頼家と、面打ち職人とその娘の交流を描いた悲劇です。
また、歌も残ります。
この里に 悲しきものの二つあり 範頼の墓と頼家の墓 (正岡子規)
養父や乳母に担がれて、祖父や母などの血縁者と対立してしまった頼家・・・子供を乳母の家で育てる・・・という、この当時の育児・教育システムが生み出した悲劇ですね。
歴史家や小説家の中には政子を「冷たい母」として描くケースが多いのですが、我が子の教育に携われなかった悲しい母でもあります。
さらに、明治新政府は「天皇に弓引いた」として政子と義時を「大悪党」に決めつけてしまいましたから、北条得宗家は評判がよろしくないですね。
しかし、天皇制、藤原氏の貴族政権を倒して、この国最初の民主化(武家)政権を作ったのは頼朝の鎌倉殿であり、それを発展させ貴族色を薄めたのが北条得宗家です。
民主化政権第一号ともいえます。
さらにいえば、後に我が国最初の危機、元寇に立ち向かったのも北条家の鎌倉政権でした。
天皇家を神格化しようとして明治政府は随分と無茶をしました。
宮内庁は未だに天皇陵を調査させない方針を貫きます。
なぜに?そこまでこだわるのでしょうか。
万世一系であろうがなかろうが、天皇家は日御子アマテラスの末裔として日本国民は尊重しますよ。
また、歴史家、小説家の中には比企征伐・頼家追放を以て「平家が源氏の幕府を奪った」などという人もいますが、これも源平騒乱の余韻ですね。
頼朝が幕府を作り、源氏も平家も守護・地頭に任命して武士の世になりました。
この時点で「源平藤橘」の垣根は崩壊しています。
頼家の元で勢力争いをしたのは平氏系の北条と、藤原系の比企です。源氏系の足利や新田、それに平賀、武田といったところは政権中枢に入っていません。
氏素性を言い出すのは江戸期に入ってからです。
戦国大名が「由緒」をでっち上げるために系図を捏造しました。
その代表選手が源氏を名乗った徳川家です。
実朝の縁談
虚弱体質の次男坊・・・として、体育会系の武士と言うよりは、文学青年風に育ってきたのが実朝です。
後には百人一首にも残るほどの歌人となりますが、この当時はまだ13才、中学一年生という年齢です。
兄が病気で倒れてから身辺が騒がしくなり、いつの間にか朝廷から征夷大将軍の辞令が飛んできました。
本人にしてみれば
「やだよ~、おれ、そんなのやりたかねぇ」
と、駄々を捏ねたいところでしょうが、爺さんの北条時政が次々とお膳立てをし、母の政子や乳母の阿波の局も世話を焼きます。
よって、たかって「ああせい、こうせい」と、一挙手一投足を指図されたら健康な若者でも病気になります。
虚弱体質の実朝では、心身に変調を来しますね。
たびたび発熱を繰り返した・・・といいますから心身症でしょうね。
将軍が独り身でいるわけにはいかない・・・と縁談話になります。
まず候補に挙がったのが足利義兼の娘でした。
関東の源氏の中核となる氏族ですから血統には申し分なしです。
周りの大人たちは「決定」と事を進めようとしますが、ここでも実朝が拒否権を発動します。
「俺の嫁は京の姫でなくてはならぬ」
頑として足利の話を拒絶します。大人たちの間では「決まったものと」として先走った準備をしているものもいましたから、この抵抗は大騒ぎになりました。
「東男に京女」などという言葉が、この当時からあったのかどうか知りませんが、実朝はすでにこの頃から和歌の道にのめり込んでいました。
当時の歌道の第一人者・藤原定家から万葉集などを送られて、それを手本に詩作を繰り返していました。
その延長から行けば恋文の相手は京の姫でなくてはならぬのです。
思春期の中学生、初恋、反抗期、複雑な心理なのです。
京生まれの牧の方(宮沢りえ)なども「公家の姫が良い」と大騒ぎをし、京の守護をしている平賀義信の次男で、娘婿の平賀朝雅を通じて大納言・坊門信清の娘・信子に白羽の矢を立てます。
13才の実朝に、12才の信子・・・雛遊びの人形のようなカップルですが、この組み合わせは「琴瑟相和す」の喩えの通り、実に仲むつまじかったようです。
が、結局・・・子宝には恵まれませんでした。
頼朝の血脈が途絶える結果となりました。
それはさておき・・・余談ですが「牧の方」の宮沢りえ、良い演技をしていますねぇ。
時政爺を誑し(たらし)込んで自分の息子を北条家の後継者に仕立て上げていきます。
テレビでは北条義時として出ていますが、この当時の小四郎・義時は江間義時と、北条の分家扱いになっています。
そして北条本家の後継者は弟の時房でしたが、頼家騒動のドサクサに紛れて北条家の後継者は牧の方の息子・政範となっていました。
実朝政権で最初に朝廷の除目を受けたのは義時で、従五位下・相模守に任官しています。
父の時政が従五位下・遠江守ですから父と肩を並べます。
が、追いかけて政範が従五位下・左馬助に任官します。
弟が肩を並べ、北条の後継者は政範だと発表されます。
このあたりで・・・北条家の中に亀裂が入ります。
時政親父に末っ子の政範と、政子・義時・時房の関係にヒビが入ります。
実朝の屋敷が時政邸になったり、義時邸になったり、玉の奪い合いのようなことも頻発します。