いざ鎌倉 第37回 今週どこまで行くのやら

作 文聞亭笑一

先週は・・・全くの肩すかしでしたね。

まさか、あのような対談で一回分を使うとは思いませんでした。

もしかして、配役の誰かに不祥事が出て撮り直し、それが間に合わずに「対談」かと・・・、余計な勘ぐりをしてみたりもしました。

鎌倉時代の年表を見ると、主立った事件は1205年の時政追放のあと・・・1213年の「泉の乱」と、それに連座した和田一族が反旗を翻した和田合戦までありません。

この7~8年間が・・・平穏だったのか、それとも幕府の締め付け、統制が厳しくて何もできなかったのか、その辺りはわかりません。

ただ、はっきりしていることは実朝が確実に成長し、古参の幕僚たちの傀儡から脱しつつあることです。

今回は実朝の人生をその年譜をみながら、おさらいしてみましょう。

実朝の年譜

1192年  頼朝の第5子、4男として鎌倉で誕生

阿野全成、阿波の局が乳母として養育に当たる

阿野全成は頼朝の弟(今若) 京・醍醐寺で修行していて京文化に明るい

阿波の局は政子、義時の妹  実の叔父、伯母が養育係というのは異例

    幼名は千幡

1203年 兄・頼家の出家により将軍職を継ぐ

 後鳥羽上皇の命名で「実朝」に改名  (後鳥羽への思いは終生強かった)

 11才・・・現代で言えば小学5年生 (史書は12才となっているが数え年)

1204年 坊門忠清の娘を正室に迎える

    小学6年生での結婚 ままごと遊びの延長線

1205年 和歌に目覚め、10首の習作を京に送り藤原定家の指導を受ける

1206年 北条義時の山荘で歌会を開く

北条泰時、東重胤などが参加する

 この年、兄の次男・善哉(後の公曉)を猶子にする。猶子とは相続権を持たぬ養子

     京で赤(あか)班(も)瘡(がさ)(ハシカ)が流行し、摂政・九条良経が亡くなる

1207年 後鳥羽法皇による念仏宗(後の浄土宗)弾圧事件

法然は土佐へ、親鸞は佐渡へ流罪、僧4人の処刑・・・天皇による初の死刑執行

     この年、足立遠元が亡くなる 「鎌倉殿の13人」は6人になる

1208年 実朝が疱瘡にかかる・・・闘病二ヶ月

 政子が病気調伏祈願と、実朝の世継ぎ誕生祈願のために熊野詣でに出る

1209年 実朝、住吉大社に歌を奉納する

 朝廷は実朝に位打ちを仕掛ける 従三位に昇進、翌年は正三位

→実朝が将軍親政を指向する 義時、広元の政所の意向を無視することもある

 和田義盛が「上総介」任官を申請する

→許可したい実朝と、反対する政所(義時、広元)で確執

さて、次回16日はどの辺りを放映するのでしょうか。様子を眺めるしかありません。