いざ鎌倉 第35回 時政追放

作 文聞亭笑一

人気の高い男はなかなか死なせてもらえませんね(笑) 

畠山重忠は今週まで生き延びました。先週号で二俣川について触れましたが、近くに「万騎が原」という地名もあります。

鎌倉軍万騎が陣取った場所・・・ということですが、100倍近い戦力差で百騎あまりを討ち取るのに4時間もかかったと言うことは・・・鎌倉軍のやる気のなさを如実に表しています。

歴史書は「畠山軍が強かった」事を強調しますが、「不義、不法の戦」に命をかけるのは誰にとっても嫌です。

いかにも恩賞目当てで俗悪と、後々も後ろ指を指されそうですね。

その意味で、地球の裏側のロシア兵も・・・ノリが悪いのではないでしょうか。

前線での弾薬の不足が報道されていますが、「やる気」が低下してきている方の影響が大きそうです。

弾薬が足りないのなら日本海での演習などする余裕がなかったと思いますけどね。

戦後処理

畠山重忠から没収した武蔵領は、幕府の論考行賞で恩賞として配分されるのですが・・・、武将たちは、配分を求めるのに執権・北条時政の屋敷を訪ねません。

「女房の尻に敷かれて不義をする者は長続きせぬ」御家人たちは時政を見限り始めました。

代わりに列をなしたのが尼御台・北条政子の屋敷です。

将軍・実朝に影響力を持ち、大江広元以下文官たちも一目置くのは・・・やはり政子です。

その政子と一心同体なのが、義時、時房の兄弟です。

この二人には、まだ、自らの影響力を発揮できる力はついていません。

時政を暴走させてしまった責任を問われる立場でもあります。

政子は、畠山領の大半を「重忠の妻=重保の母=政子の妹」に相続させます。

畠山を罪人の扱いではなく事故死といった扱いにしてしまいますが、畠山の家名は継がせません。

そして、未亡人には足利家への嫁入りを勧めます。

「バカな親父を止められなくて・・・ごめんね」と言った贖罪の気持ちだったようです。

一方で、閑古鳥が啼くほど人気の落ちた時政の屋敷では、牧の方がとんでもない策略を巡らします。

実朝を廃して平賀朝雅を将軍にしようと、朝廷との交渉を始めます。

「平賀は源氏だから」という実に単純な動機です。

こういう話に乗ってしまう時政・・・耄碌していますね。

高齢者で、自分の能力に限界を自覚し始めると、誰かに全面的に頼るという幼児性に戻ることがあります。

先祖返り・・・などとも言いますね。

時政・・・もしかすると母親に頼る幼児に戻りつつあったかもしれません。

牧の方と母親が合体して観音様のように見え始め、観音様のお指図の通りすることが自分の勤め・・・といった宗教心理に陥っていたとも想われます。

失政へ責任追及

畠山討伐から、鎌倉には不穏な空気が漂います。

「畠山事件は時政の明らかな失政である」

「讒言がまかり通れば、自分もその対象にされる危険がある。明日は我が身だ。」

現代の企業内の人事でもそうですが、傍目にも納得のいかない異動や、恣意的な賞罰があると、社員の気持ちは経営者から離れていきます。

ゴマスリやイジメの見える人事は最悪ですね。

鎌倉の、こういう空気を見て・・・最も気を病んだのは政子と大江広元など政権官房です。

幕府、将軍が求心力を失えば、御家人たちは勝手気ままに動きます。

法治主義、法による秩序の実現を目指す大江広元などは、時政の失政を見逃すことができません。

それを正せる者は・・・義時しかいない。

 御家人たちの注目が義時に集まります。

下克上・・・部下が上司を倒して職を横領すること・・・が横行するのは戦国時代ですが、昔も今も暴君、愚職を退けて正常に戻そうという動きが自然発生します。

このまま行ったらヤバイ・・・誰しもが持っている動物的危機意識にスイッチが入ります。

義時・時房による反時政の行動は、畠山事件の密告者、讒言者とされる稲毛入道の討伐から始まります。

これを実行したのは三浦義村です。

稲毛も・・・祖父の敵ではあります。

テレビでは、時政自身が実朝を騙して畠山討伐の命令にサインさせたというシナリオでしたが、時政に使嗾された稲毛三郎が密告したとみるのが一般的です。

さもないと、時政追放に先立って稲毛入道を討伐する理由がわからなくなります。

稲毛の罪は「将軍を騙した罪」です。

このあたり・・・理屈っぽくなりますが、法治主義が目覚めたのは鎌倉幕府からではないでしょうか。

平安時代は法律といえば奈良町以来の律令と、朝廷の慣わし、前例主義を基本にした公家法がありました。

しかし、政治の中核を担うことになった武士たちの、行動規範となる成文化された法律は、ほとんど無かったともいえます。

後に、三代執権・泰時が作った「御成敗式目」が最初の法律ともいえます。

それもあって・・・後に家康が幕府を開くに当たって「鎌倉殿」を参考にしたのでしょう。

時政追放

時政への人望が落ちてきているのを肌で感じて、焦ったのが牧の方です。

平賀朝雅を4代将軍とするための調停工作などの準備に入りますが、この情報こそ義時たちが待っていたクーデターのための「動かぬ証拠」でした。

時政邸への襲撃は慎重でした。

時政邸を寝所にしていた実朝を義時の屋敷に移動させ、それを見極めてからの不意打ちです。

ほとんど抵抗もできずに捕縛されますが、「伊豆への追放」をどうやりとりするのでしょうか?

この辺りはシナリオの妙、ベテラン俳優の演技力を含めて見所ですね。

時政の追放は、それだけでは済みません。

連枝となった者たちの処分があります。

将軍位を狙った?とされる平賀朝雅。

幕府からの命令で討伐されます。

平賀を使って鎌倉幕府に影響力を与えようとしていた朝廷の面々にも冷や汗が出たでしょうね。

さらに、牧の方の娘を嫁にもらっている宇都宮頼綱・・・処分の対象になります。

「宇都宮の親族・小山朝政に討伐させる」というのが大江広元の意見でした。

これで宇都宮、小山の双方の恭順度を測ろうという提案です。

その裏を読んだ小山は、宇都宮に出家引退を勧める一方で、討伐命令を辞退する旨の陳情を繰り返します。

数日後に出家した宇都宮頼綱が鎌倉に参上し、切った髷を義時に提出して、許しを請います。

「義時に提出」という所が肝心で・・・第2代目執権は北条義時であると知らしめる儀式でもありました。