いざ鎌倉 第34回 狡兎死して

作 文聞亭笑一

古来、男の理想像として「文武両道」という言葉があります。

一方の女性の理想像は「才色兼備」でしょうか。

近頃はジェンダーだとか、差別撤廃だとか・・・人間が動物の一属性であることを忘れた議論が盛んで、それを後押しするバカなマスコミが世論誘導をしていますが、男と女、雄と雌は役割が違います。

互いの役割を存分に発揮してこそ人類の永遠が期待できるわけで、子孫を残すのもこの世に生まれた意義の一つでしょう。

鎌倉殿で文武両道と言えば、真っ先にあげられるのが畠山重忠です。

源平合戦では義経に従い鵯越で馬を背負って駆け下りたという武勇談も残しました。

平家との合戦、奥州での合戦などでも常に先頭に立ち、向かうところ敵なしと言われたスーパーヒーローです。

その上、政治感覚にも優れていて頼朝にも信頼され、頼朝亡き後は北条一族の一員として主流派の一角を形成していました。

御家人たちの信頼も篤く、とりわけ武蔵の御家人たちからは兄貴分として実質的に武蔵軍団の指導者の立場にいました。

比企能員を倒して、鎌倉の支配者になった北条時政にとっては気になる部下です。

武蔵と言えば鎌倉の喉首を押さえる位置にあります。

関東も、奥州も、そう、鎌倉街道はすべて武蔵を通過していきます。

万一、畠山が寝返ったら鎌倉は包囲されてしまいます。

時政にとって「武蔵を直接支配したい・・・」この欲求は日増しに高まります。

武蔵守には娘婿で牧の方お気に入りの平賀朝雅を任命したのですが、本人は京都守護ですから実質的な地方行政はできません。

「なんとかしたい」そのイライラが募るところに京から讒言が届けられます。

三谷脚本では北条政範の死を「朝廷による毒殺説」を採っていましたね。

あり得る話ではありますが、平賀の屋敷で起きたとすれば、平賀も同意していたことになります。

平賀朝雅は時政、牧の方夫婦の大のお気に入りで、弟分の政範を籠絡すれば自分が鎌倉の執権になれる立場なのに敢えてリスクを冒すでしょうか? 

事実、後に時政は平賀を4代将軍にしようなどと画策します。

畠山謀叛

手足として三浦義村を使います。三浦は畠山に対して恨みがあります。

頼朝の旗揚げ・石橋山の合戦の折、三浦一党は伊豆の頼朝に合流して反平家の旗揚げをしようとしました。

しかし、悪天候に阻まれ合流ができず、畠山重忠が率いる平家軍に攻撃されて敗戦し、安房へと逃げます。

そのおりに義村の祖父は「年寄りの意地」と城に残って華々しく討死してしまいました。

義村にとって、畠山重忠は「祖父の敵」になります。

更に義村にとっては、頼家に娘を娶せ、男子まで誕生させたのに・・・頼家が出家、暗殺されてしまいました。

北条に対抗する勢力として浮上するチャンスを失いました。

そこへ・・・時政からの誘いです。断れば、今度は三浦が狙われます。

「やるしかない。責任は執権・時政にある」

4月22日 鎌倉がなんとなく・・・ざわつきます。

何かある・・・噂が飛び交います。

いわゆる「いざ鎌倉!」の前触れで、御家人たちが鎌倉へと郎党を呼び寄せ始めます。

そんな中を武蔵・稲毛領(川崎市西部)の稲毛三郎重成が時政に呼ばれて鎌倉に向かいます。

彼はすでに政治から引退していましたが、兵を率いて鎌倉に向かいます。

これも「いざ鎌倉!」

この情報を事前に察知して、義時と時房が稲毛入道の鎌倉入り阻止のため説得に向かいます。

軍を率いた者が鎌倉に入れば、「すわ、大事」と御家人たちが勝手に暴走をしかねないのです。

なんとか説得して軍は返したものの稲毛入道(三郎)は鎌倉に入り、不穏な空気が漂います。

稲毛の入道が武装して鎌倉に向かったのは時政からの偽情報です。

畠山一党の稲毛に武装させ、「畠山謀叛」を演出しようとしました。

これは義時、時房兄弟に阻止されましたが、「引退したはずの稲毛三郎が鎌倉に出る」というのが異常です。

畠山太郎、都築次郎、稲毛三郎は武蔵・畠山3兄弟といわれた強力軍団でしたから憶測が飛び交います。

牧の方、時政が流す「畠山謀叛」の噂に火を付ける形になりました。

狡兎死して走狗煮らる

「史記」にある有名な句です。直訳すれば「兎が死ぬと猟犬も要らなくなって煮て食われる」

つまり・・・「敵国が滅びてしまえば、軍事に尽くした功臣は不要になり、殺されてしまう」という現実を表した警句です。

いつの世でもよくある話で、現代のサラリーマン社会でも通用する警句として処世術の教科書に出てきます。

常に新しい手柄を出し続けないと、昔の功績を鼻にかけていたりするとバッサリやられるよ・・・という警句でもあります。

動乱の時代に、鎌倉政権にとって実に頼もしい軍人であった畠山重忠が、武蔵を自分の物にしようと思う時政にとっては鬱陶しくなってきます。

そこへ、平賀、牧の方から「畠山重忠の息子・重保は北条に不満を持っている、もしかすると息子・政範暗殺犯人」などと囁かれると・・・自制心を失います。

これも・・・呆け症状の一つでしょうね。

ブレーキが効きません。重保は時政にとって娘の子・孫に当たるのに・・・若い嫁さんの方に引っ張られますから・・・呆け症状ですね(笑)

6月21日 義時、時房、二人の息子が時政に呼ばれます。

「畠山謀叛、討て」父の命令ですが、二人は必死で思いとどまるよう説得します。

・・・が、その頃、時政の意を受けた稲毛入道が将軍・実朝に拝謁し「畠山謀叛」を伝えます。

事情を知らない実朝は「身内である稲毛が密告するのだから間違いあるまい」と判断して、「畠山を討て」と命令してしまいます。

綸言汗のごとし・・・将軍の命令は取り消せません。

軍事、警察の本部である侍所が動き始めます。

こうなれば義時、時房の政治力の出る幕ではありません。

軍事行動が開始されてしまいます。

最後の手段は・・・義時自身が隊長となって、畠山重忠に名誉の死を演出するしかなくなりました。

この時点でしょうか・・・義時は父との決別を決心しています。

二俣川に散る

二俣川・・・神奈川県在住の読者にはあまり良い印象の地名ではないと思います。

交通違反をすると・・・二俣川まで行かされて、説教されて、怖い映画を見せられて、交通安全講習を受けさせられて、やっと免許証の命をつないできた場所です。

その二俣川で、義時率いる1万騎の追討軍と、「いざ鎌倉!」と130騎ばかりの少数で駆けつけた畠山重忠が遭遇します。

桁違いの戦力差・・・にもかかわらず4時間の戦闘になります。誰も「謀叛」を信じていなかった証です。

追討軍の兵士は「不義の戦」に参加したくなかったのです。