いざ鎌倉 第39回 和田合戦

作 文聞亭笑一

鎌倉殿の13人も、残りは5人になりましたが・・・その中の最長老である和田義盛に「排除」の矛先が向かいます。

「邪魔者は消せ」という映画がありましたが、将にそのストーリーですね。

すでに鎌倉幕府は政所の北条義時、大江広元、三善善信の3人が中心となって政権を担当していました。

政所から観ると侍所(軍部)を握る和田義盛は邪魔者でしたね。

長老風、先輩風を吹かせ、親代わりのように慕う実朝に直談判してくるのも鼻につきます。

もう一人、和田義盛を煙たがる男がいます。

三浦義村・・・三浦党の党首なのですが、No2の和田の方が目立ってしまい存在感が薄らぎます。

分家の方が本家より勢いが強いというのは面白くありません。氏長者・・・という権威も危うくなっています。

挑発と暴発

義時/広元の政所勢は「和田排除」の姿勢を明確にしてきました。

「泉の乱」を足がかりにして和田義盛のプライドを傷つける嫌がらせを連発します。明らかな挑発です。

黙って引き下がれば男が廃る・・・という状況に軍を率いる義盛が黙っているはずがありません。

「やるっきゃない」と、クーデター計画を始動させます。

まずは兵力、戦力を整える・・・本家の三浦党を抱き込みます。身内の横山党を呼び寄せます。

横山党というのは、八王子から橘樹郡辺りまでの多摩川流域族、南武蔵勢です。

そして、まず、玉を押さえる。つまり実朝を拉致することを狙います。

将軍の命令・・・となれば御家人たちは命に従うしかありません。

従ってクーデターは奇襲による御所の占拠が基本です。

この作戦のキャスティングボートを握ったのは三浦義村です。

どちらに付くのが得策か・・・損得計算ですが、政治力という点で北条義時と和田義盛では比較になりません。

和田義盛は体育会系の親分肌で、政治のできる人ではありません。

さらに、和田の計画が成功すれば、義盛は調子に乗って三浦党の氏長者も奪われるリスクがあります。

最初から寝返るつもりで和田党に荷担し、戦が始まると北条方に乗り換えます。

策士・広元

和田が挙兵する・・・というのは誰でも予想できる展開でした。時間の問題です。

この間に広元が秘密裏にやったことは、大量の「御教書」の作成でした。御教書・・・つまり将軍の命令書です。

「和田を討て」という命令書が事前に用意してあって、クーデターが起きたらこの命令を御家人たちに届ける・・・和田は孤軍になる・・・という準備ができあがっていました。

ですから和田合戦というのは「飛んで火に入る夏の虫」でもありました。

大江広元・・・文官ではありますが、政治家、戦略家としてはこの時代の最高峰にいましたね。

後に起きた幕府と朝廷の戦争、承久の乱で後白河上皇以下を島流しの処分にしてしまうのも、参謀・広元の助言からです。

天皇親政を標榜する明治維新の後、日本の歴史教育では朝廷に逆らった者を「悪人」としています。

北条義時、北条政子は日本史上の3悪人と言われるのですが、仕掛け人の大江広元は指弾されません。

広元は長州藩・毛利家の始祖なのです。明治政府は先祖を攻撃できません(笑)

巴御前と朝比奈義秀

今回の大河では「木曽義仲の妻・巴御前が和田義盛の妻になった」という俗説を採用していますが、三木谷さんが「吾妻鏡に忠実に・・・」という発言とは裏腹に、吾妻鏡にそういう記事はありません。

この話は小説である可能性が限りなく高い(99%)ようですね。

ただ、巴御前が瀬田の戦いで落ち延びた後、捕縛され、鎌倉に送られたという可能性はあります。

捕虜を収容していたのは侍所ですから、和田義盛と接点があり、和田が「妻に・・・」と所望した可能性は残ります。

ただ、今回の巴御前の描き方は失笑ものですね。

眉毛をやたらと濃く描いて「強い女」の演出をしていますが、平家物語には「巴は色白く、髪長く、容顔誠に優れたり」とあります。美人形であったと記録してあります。

さらに、俗説では和田と巴の間にできた子どもが朝比奈義秀で、天下無双の武人であったとか描きます。

事実、和田合戦では幕府軍を相手に大活躍し、父が敗れた後は舟で海上に脱出するという英雄として描かれています。

鎌倉一の武士と信濃源氏一の女武者・・・その間に生まれた子どもならさぞかし優秀であろう、スーパーマンに違いない。そんな空想の産物でしょう。

しかし、朝比奈義秀が巴の産んだ子という話は全くの嘘です。

義仲と義経、宇治川の戦いがあったとき、朝比奈義秀はすでに6才です。

巴の子であるはずがありません。

それはそうとして、今回のドラマのメイクアップのように、京都人が木曽義仲を「信州の山猿」と粗暴な人物の様に評価し、その余韻で、巴御前が体育会系の醜女のように描かれるのは面白くありませんねぇ。

とかく京都人は「初対面では人を試す」という嫌な性格があって、手を変え、品を変え、嫌がらせをし、それに対する反応で人を評価してきます。

かつての祇園のお茶屋での会話です。

「あんさん、どちらのお生まれどす?」

「信州です」「信州! おお怖」「???」「信州言うたら義仲はんでっしゃろ。おお怖」

一体何年前のことを・・・とあきれますが、余所者に対する面接試験の・・・標準的質問ですね。

怒ったり、反論したりすると軽く観られます(笑) なめられて、ぼられてしまいます。

「そうじゃ、怖いぞ~ サービス悪いとナ 取って食うぞ」

こういう対応ができるようになるには、半年、一年かかりますね(笑)

和田勢は全滅に近い敗北を喫し、義盛も討ち取られますが、朝比奈義秀は沖合に止めてあった6隻の軍船に部下を収容して安房へと逃れます。

巴御前も越中とか、越後などに逃れて90才まで生きながらえたという伝説が残ります。

多分、和田合戦の時には鎌倉にいなかった(和田の妻にはなっていない)というのが正しいのではないかと思います。

源平戦の後に上州沼田で出家して、尼となって義仲や兄・今井兼平などを供養していたという説もあります。