いざ鎌倉 第44回 嵐の前

作 文聞亭笑一

大河ドラマの三木谷脚本は実朝暗殺とそれ以後の混乱を、じっくり時間を掛けて描いています。

それぞれの心理描写が興味あるところで、小説家、脚本家の想像の世界です。

北条が仕掛けたか、三浦か、それとも京の宮廷が動いたか・・・。

明治以来の皇国歴史観は「天皇の犯罪」にはタブーを掛けていますので「朝敵・義時」となっていますが、京と鎌倉の壮絶な政争が闇の世界を作り上げていたものと思われます。

藤原不比等以来の藤原(公家)支配を続けたい朝廷・・・公地公民

公家や寺社が所有する荘園を自らの領地として私有化したい武士・・・地頭

国家(貴族)による土地支配から、土地の私物化を認める大改革が進行中だったのがドラマの時代です。

この後、承久の変でこの問題には答えが出されます。

1192年ではなく、1221年こそ、歴史に残る大改革が実現、確定した年でした。

奥山の おどろが下も踏み分けて 道ある世ぞと人に知らせん (後鳥羽院)

天皇家にも時々、やる気満々の為政者が出てきます。

院政を始めた白河上皇、その跡を継いで清盛、頼朝を使嗾した後白河法皇、そして鎌倉と対立し朝廷の権威を取り戻そうとした後鳥羽上皇・・・この三人の「治世?」「意欲?」「謀略?」で源平の戦乱が起きました。

この世の春を満喫し「望月の欠けること無し・・・」などと権力を独占していた平安貴族の治世で世の中に大きな歪みが溜まっていたのです。

地殻に歪みが溜まれば地震が起きますが、社会に歪みが溜まれば暴動、戦争になります。

歌人としてもかなり優れていた後鳥羽上皇が1208年に読んだと言われる歌が「奥山に・・・」です。

「おどろ」は「荊棘」と書きます。

いばら、とげ・・・など雑草が背丈ほどにも伸びた藪のような場所、つまり乱れた世のことでしょう。

踏み分けて・・・「やぁやぁ我こそは」と意欲満々です。

道ある・・・道理が通る世の中にすると言うのですが、貴族社会に戻ることが多くの国民の希望であったとは思えません。

貴族ばかりが優雅に暮らしている社会には不満が溜まっていたからこそ、源平の争乱が起きたのです。

荊、棘、いずれも棘(とげ)刺す植物です。

武器を持つ連中・・・武士ども・・・という意味がありますね。

鎌倉を意識していることは間違いありません。

「憎き鎌倉め、踏みつぶしてやろう」と宣戦布告のような歌を承久の乱の13年も前に作っていました。

明治の皇国史観は「天皇を神様にする」ために「皇統は無謬である」という理屈を懸命に宣伝しました。

「万世一系」もそれで、小学生に神武以来の天皇の名を暗記させたりしました。

しかし、天皇とて人間です。

人間ですから欲もありますし、間違いもします。

現代の平成上皇、令和天皇は国民に親しまれて、実によく務められていると感心しています。

が、後鳥羽はいけません。島流しになって当然です。

梟雄・三浦義村

梟雄(きょうゆう)・・・謀略が巧みで、変幻自在、風見鶏な人を指します。

三浦義村がまさにそれで、北条義時とは無二の親友でありながら、隙あらば寝首を掻こうと狙っているライバルでもあります。

テレビでは「実朝事件は三浦が仕組んだ」とする吾妻鏡説を採りましたが、私は朝廷の動きを察知した北条が仕組んだ謀略で、三浦に手を汚させた・・・と言う説に親近感があります。

義時と義村・・・互いに相手を知り尽くしていて利用し合います。

いわゆる友情物語とはほど遠く、「欺し合い」の関係でもありましたが互いの利用価値が高いのです。

それに、二人の動きに鎌倉御家人たちの注目度が高く、うかつな動きをすれば鎌倉幕府が壊れてしまいます。

鎌倉政権を奪ったところで、鎌倉が壊れてしまっては奪う値打ちがありません。

承久の乱、義時死後の話になりますが、執権の座を巡って泰時、時房、義村が三つ巴の争いをします。

義村は伊賀の局が産んだ子・北条政村を担いで、北条家の実権を奪おうと暗躍します。

雀百まで踊り忘れず・・・とも言いますが、最後まで諦めることなく、しぶとく権力闘争を仕掛けた政治家でしたが、三浦の世は来ませんでした。

嵐の前

三寅将軍(成人後は藤原頼経)・・・と言っても幼児ですが、その後見という名目で政子が尼将軍として実務を取り仕切ります。

といっても・・・政子が決定をするのではなく、実務は義時、広元、善信の政所で処理し、政子の花押(サイン)で正式決定すると言う段取りです。

今まで実朝がやっていたことを政子が代行する・・・と言う処理形態です。

「尼将軍」と呼ばれるのはこの時期の政子のことです。

この形態は、朝廷からすると苦々しいのですが、幼児に将軍職は下賜できない・・・と渋っている間に既成事実化されてしまいました。

政子は従2位の位がありますから、それより下位の職務・将軍職を代行しても問題はありません。

実朝を失って、さぞや混乱するだろうと言う予想は、義時の素早い、非情な策によってことごとく潰されてしまいました。

阿野の乱も線香花火でしたし、公曉の弟・禅暁も闇に葬られてしまいました。

ただ、朝廷にとって歓迎すべきは公曉、禅暁の後援者であった三浦胤義が六波羅の担当になって京に来たことでしょうか。

公曉、禅暁の処刑で義時に恨みを持つ胤義を抱き込んで、「イザと言うとき」の手駒に飼い慣らそうとアプローチします。

これは成功しました。承久の乱では三浦胤義、大江親広(広元の長男)など在京の御家人たちが上皇方に味方します。

後鳥羽上皇の熊野行き

上皇の熊野詣では珍しいことではありません。

28回目と言いますから毎年のように熊野への旅行を楽しんでいたようです。

ただ、1221年の御幸は意味合いが違います。

対鎌倉への戦略検討と、熊野の戦力を旗本代わりに使おうという魂胆です。

天皇は直属の軍隊を持ちません。

北面の武士などと言いますが、所詮は当番で上京している御家人たちです。

また、比叡山の僧兵も用意したいところでしたが、比叡山には厳しい政策を実行していましたから体よく断られました。

熊野の僧兵、海陸両用です。

鎌倉攻めには海軍による上陸作戦も考えていたようですね。

ただ、この上皇さんは物語でしか戦を知りません。

院宣・・・上皇の命令を出せば、御家人たちは従うはず・・・と楽観していました。

この「はず」がそうならなかったのは・・・御家人を利で釣った義時、広元の裏工作と、歴史に残る政子の大演説でした。

さしもの院宣も・・・只の紙切れになってしまいました。