いざ鎌倉 第42回 八幡宮の大銀杏

作 文聞亭笑一

いよいよ、頼朝の血縁が消滅する場面になりそうです。

嵯峨天皇をルーツとして血縁をつなげてきた源氏ですが、平安期の軍神・八幡太郎義家を輩出した河内源氏の直系である鎌倉の源氏は実朝を以て終焉を迎えることになりました。

結論から言えば、

「自分が依って立つ基盤である鎌倉武士団のニーズに逆らって滅びた」と言うことになります。

初代の頼朝はこのこと「関東武士の思い」を、自らの経験で知り抜いていました。

二代目の頼家は梶原景時、比企能員など、一部御家人を偏重した結果、排斥されました。

三代目の実朝・・・都に憧れ、朝廷を尊重するあまり、自らの基盤を忘れました。

幕府は直属の軍隊を持ちません。

武士集団の統合の象徴として成り立つ政権だったのです。

鎌倉武士団のニーズとは・・・土地(税収)の私有権です。

朝廷や公家、寺社に繋がる荘園制度を破壊し、地頭による領地の支配権を確立し、さらにこれを増やしていくことです。

朝廷による「公地公民」ではなく、地頭による「私地私民」という社会制度の改革なのです。

関東ではこういう改革が7割方進んでいました。

ここで言う関東とは安宅関(北陸道)、不破関(中山道)、鈴鹿関(東海道)より東を指します。

現在の中部地方は、ほぼ鎌倉の支配下にありましたが、近畿地方のほとんどは未改革でしたし、西日本も改革が進んでいるとは言いがたい状況でした。

西日本の武士たちは「日和見・・・勝ち馬に乗って私利を稼ぐ」と言う態度でした。

三浦一族の動き

創業以来の軍団で政権に残っているものが少なくなりました。

鎌倉殿の13人もついに・・・ 3人だけです。

とはいえ関東武士団は健在で、それぞれの後継者が家督と領地を守っています。

中でも三浦義村を筆頭とする三浦一族は、鎌倉政権の重鎮として政所、侍所の双方に影響力を高めていました。

「北条に隙あらば・・・それにとって変わろう」と、虎視眈々と機会を待ちます。

実朝が発案し、政子がまとめてきた「宮将軍」の構想が漏れ聞こえてきますが、これは三浦にとって面白くありません。

都に対して好印象がない上に、都とのつなぎ役のような形で実朝の側に居る源仲章が目障りです。

このまま実朝政権が続くと、宮将軍の側近として京から送り込まれる官僚によって幕府が乗っ取られ、三浦の出る幕がなくなるかもしれません。

実朝排除の計画は、三浦が仕組んだとみる説があります。

できれば北条義時も同時に倒してしまえば、その息子の泰時は娘婿ですから懐柔が可能です。

「公曉将軍に三浦執権」に向けて邪魔者は居なくなります。

公曉への教唆・・・そそのかし・・・は弟の義胤にやらせるつもりでした。

万が一にも計画が露見した場合でも自分・義村だけは安全地帯にいるという用心です。

公曉の乳母は三浦義胤の後妻になっています。

その意味で義胤は公曉の父代わりになります。

頼朝に対する比企能員と似た関係、いや、それよりも近しい関係になります。

公曉を還俗させて将軍にする・・・魅力的な役割です。

先手必勝

この三浦の動きを、事前に感じ取っていたのが義時、時房の北条執権家です。北条の情報網に、三浦や公曉の動きが読まれていたのでしょう。

蛇(じゃ)の道は蛇(へび)・・・とも言います。読み筋は同じ。

まずは義時と時房が夜の由比ヶ浜で密談します。誰も居ない浜で二人きり・・・。

将軍実朝を暗殺する。

実行犯は公曉、その説得は三浦義村にやらせる。

実行後に公曉を始末する。

そして、今後とも同様な動きが出ないように公曉の弟・禅暁も暗殺して、源氏の血筋を消滅させる・・・という一連の暗殺計画ができあがります。

義村への説得、と言うか・・・脅迫は時房が担当します。

義村を江ノ島に呼び出します。

「実朝を排除して宮将軍を迎えることにした。

冷泉の宮の下向が決まっている。

ついては公曉に実朝を暗殺させろ。その公曉を三浦が始末しろ」

と迫ります。

実朝を殺すことについては三浦の計画通りなのですが、その公曉まで殺せと要求されます。

断れば・・・「三浦謀叛」と大義名分を立てられ、自分たち一族が粛正されてしまいます。

こうなると逃げようがありません。

快諾して「義時の親友」の信用を守るしかありません。

決行日と決行場所は・・・北条の考えることも、三浦の考えることも・・・同じでした。

右大臣昇進祝いとして八幡宮に拝賀する日、八幡宮の石段にて実行する。

公曉一人で不成功に終わってはいけないので仲間も数名認める。

そして、公曉以下の襲撃犯人は三浦が責任を持って始末する。

随分と細かいことまで、入念に計画を練ります。

大銀杏

鶴岡八幡宮の大銀杏・・・平成22年(2010)の台風で倒れてしまいましたが、頼朝が八幡宮を創建した頃からあったとすれば樹齢800年~900年です。

大男の公曉が誰にも気づかれずに陰に入れたとすれば幹周りは3m近くあったのでしょう。

・・・とすれば50年から100年の樹齢があったと思われます。

尤も「仕組まれた暗殺劇」ですから、公曉たち数名が根元にうずくまっていたとしても見て見ぬ振りでしょう。

あえて警備をしなかったとも考えられますね。

決行日は1月27日です。

まだ日暮れの早い時間帯でしたから夕刻からの儀式は薄暗い上に、当日は雪が降っていました。

照明のある参道以外はほぼ暗闇ですね。

銀杏の陰でなくとも隠れていることができたかもしれません。

この公孫樹、根から再生した芽が伸びてすでに若木から成木に近く育っているようです。

八幡宮は、やっぱり公孫樹がないと寂しいですね。

ところでイチョウの「公孫樹」と「銀杏」の文字はどう使い分けるのでしょうか?

どの資料を見ても鎌倉八幡宮のイチョウは「銀杏」と書いてあります。

私などは

イチョウの樹=公孫樹  イチョウの実・=銀杏(ギンナン)と思っていましたが公孫樹は山茶花(さざんか)、石楠花(しゃくなげ)、風信子(ヒヤシンス)、無花果(いちじく)、心太(ところてん)などと並んで難読漢字と敬遠されてしまったようですね。

暗殺者の暗殺者

北条、三浦の政略によって断絶してしまった河内源氏本流ですが、源氏が滅亡したわけではありません。

むしろ、傍流が「我こそ源氏」と勢いづいて正統を名乗り始めます。

源氏の全国区化の始まりかもしれません。

鎌倉執権・北条を倒すのは新田源氏、足利源氏ですよね。

さて、六尺越の大男・公曉を倒したのは誰でしょうか。

三浦義村が選んだ刺客は長尾定景、後の足利政権の関東管領の元で活躍し、戦国武将・長尾景虎(上杉謙信)のルーツともなる武士でした。

公曉とその仲間たちを討ち取ります。