いざ鎌倉 第45回 変か乱か

作 文聞亭笑一

 いよいよ…風雲急ですね。「承久の乱」という東西戦争が勃発します。

右翼に言わせれば「皇統に対する重大な挑戦、大逆事件」と言うでしょうし、左翼に言わせれば「旧勢力と新勢力による階級闘争」とでも言うでしょう。

承久の乱は朝廷を頭とし、荘園の存続を支える西日本勢力と、鎌倉を盟主に土地の私有化を進める東日本勢力が、その経済基盤を巡って争った経済戦争だと思います。

「変」か、「乱」か

承久の乱は承久の変とも呼ばれます。

変と乱・・・どう使い分けするのでしょうか。

承久の乱は、江戸期に水戸光圀が大日本史を書いて以来「皇国史観」が盛んになって、戦前までは「変」の方が優勢でした。

天皇自らが起こした争いですから「変」だと言います。

定義があるのか? 調べてみました。

変・・・支配層の中で起きた権力争い

乱・・・支配者(皇統)に対する反乱、または支配権を争奪する争い

・・・と言いますが、「本能寺の変」は、確かに織田政権の中での勢力争いです。

しかし「蛤御門の変」は長州が御所に向かって攻撃を仕掛けた反乱です。

定義によれば「乱」ですよね。

「勤王勢力が幕府を攻めたのだから「変」なのだ」と強弁しますが・・・変(笑)ですよね。

まぁ・・・どっちでも良いですが、日本史の中で朝廷と武士は三度にわたり権力闘争をします。

1, 承久の乱・・・武士が政権を奪取します

2, 建武の中興・・・朝廷が政権を取り戻しますが、すぐに奪い返されます。

3, 明治維新・・・建前上は朝廷が政権を奪いますが、新政府の中身は薩長、そして軍部いずれにせよ全国区で戦争をするのですから「乱」ですね。

承久の乱は日本国の統一戦争

頼朝が1192年に鎌倉に幕府を開いて以来、日本国は分裂状態にありました。

土地の私有化を認めた鎌倉幕府の勢力圏は中部以東です。

畿内を中心に関西以西は依然として朝廷支配の荘園制が生きていました。

鎌倉御家人が地頭職を務める土地も散在しては居ますが、それは交通の要衝であったり、軍事拠点であったりする場所のみで、西日本のほんの一部に過ぎません。

その地頭職も鎌倉御家人が常駐するわけではなく、地方出身の代官に任せきりですから社会制度的には荘園制度のままでした。

実朝が想起したという親王将軍案は、後の維新当時の「公武合体策」に近い発想です。

東西異なる経済体制を容認し、政治統一を図るというものです。

現代の共産中国が「一国二制度」などと言いましたが似ています。

しかし、所詮はマヤカシです、絵に描いた餅です。

「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」は昭和の高度成長期・交通戦争時代の標語でしたが「狭い日本、二つに分けて何とする」と言うのが後鳥羽上皇の想いでしたね。

その想いは鎌倉を預かる義時も同様だったのではないでしょうか。

朝廷や幕府の権力欲・・・というより双方が持つ経済体制の矛盾が、併存を許さなかったのだと想います。

尼将軍の大演説

後鳥羽上皇の院宣が出ます。

宣戦布告状ですよね。

ただ、この院宣には「鎌倉幕府を倒せ」とは一言も書いてありません。

それはそうでしょう、朝廷は三寅の鎌倉下向を許していますから幕府の存在を認めています。

院宣には「義時を征伐せよ」と書いてあります。

この院宣が有力御家人たちへと飛びます。

この第一報が飛び交ったとき、鎌倉御家人は「人間学法則」にいう「2:6:2の法則」通りに分かれました。

京に在番していた者や、近畿圏にある者は賛成派・上皇方に付きます。

鎌倉在留の幕府主流派は反対派ですが・・・地方にいる御家人は「お手並み拝見」「勝ち馬に乗る」態度です。

つまり・・・中間派の「6」です。

甲斐の武田は、信濃の小笠原に「様子を見ようや、勝った方に付こう」と手紙を出しています。

院宣など・・・たいした値打ちを認めていません。

吾妻鏡に依れば、政子の大演説は以下の通りの短文です(意訳)

皆、心を一つにして奉る(たてまつる)べし。

これ、最後の詞(ことば)なり。

故・右大臣家が朝敵を征伐し、関東を草創してより以降、官位と言い、俸禄と言い、その恩すでに山嶽よりも高く、溟海よりも深し。

報謝の志 これ浅からんや

しかるに今、逆臣の讒により非義の綸旨をくださる。

名を惜しむの輩は早く秀康、胤義らを討ち取り、三代将軍家の遺蹟を全うすべし。

但し、院中に参らんと欲する者は、ただいま申し切るべし。

「皆々、よぉく聴け・・・」から始まり「誰のおかげで今日があるのか」と昔を思い出させ「その恩に報いよ」と「謝恩」を大儀名分に立てます。

そして法皇の院宣を「非義の綸旨」と一刀両断に斬捨て、「院を惑わせた者たちを討ち取れ」と命じます。

幕府No2の実力者・三浦一族の胤義を名指ししているところも迫力十分です。

「院に味方するのならこの場で申し出よ→斬捨てる」でだめ押しします。

その一方で政所筋からは「西日本の荘園は手柄次第に分配」と「恩賞沙汰」の噂が流れます。

「恩のために戦え」と檄を飛ばされ、「恩賞手柄次第、領地が倍、三倍」と煽られたら「2:6:2」の「6」は一斉に鎌倉派になびきます。

「お手並み拝見・・・」などという手紙のやりとりをしていた武田、小笠原は率先して中山道軍の中核を買って出ます。

CM人気の林先生ではありませんが「今やらないで何時やるの?」と言うのが御家人たちのムードですねぇ。

勢いです。

ことをなすは人にあり、人を動かすは勢いにあり。

勢いを生んだのは政子の「謝恩」の演説と噂を流した大江広元の「恩賞予告」でした。

いずれもキーワードは「恩」ですね。

守るか攻めるか

幕府軍は盛り上がりましたが、戦略論で意見が割れます。

京を攻めるべし・・・という広元、政子の積極策と、箱根と足柄で防衛するという泰時と意見が割れ、義時が迷います。

これに断を下したのも政子でしたね。

嫌がる泰時の尻を叩いて泰時、時房の東海道軍を出発させます。

進むごとに続々と兵が集まり10万人にふくれあがります。

中山道軍は武田が中心になり4万人。

北陸道は義時の次男・朝時が中心となって5万人・・・総勢19万人が京を目指します。

一方、院宣の効力を信じていた上皇軍は動員が遅れました。

急遽依頼した比叡山にも断られ、二万人弱の軍隊で対抗します。10倍の敵です。勝ち目はありません。