紫が光る 第02回 まひろは何歳?
作 文聞亭笑一
いよいよ始まりました。
一回目は顔見世興行・・・と思いきや、母が殺害される・・・という大事件が起き、その犯人が父の就職を世話してくれた恩人の息子・・・と言う設定です。
テンポの速い展開で、平安朝の「ゆったりとしたムードか?」という先入観を吹き飛ばすには十分な展開でした。
紫式部の生誕
第一回目に出てきた「式部=まひろ」は何歳でしたでしょうか。
紫式部の生年は説が三つあります。
970年説、973年説、977年説ですが、今回は973年説を採るようですね。
第1回目に出てきた天皇は円融天皇でした。
そして、その皇太子が後の花山天皇です。
まひろの父は右大臣の推薦で皇太子の私設教師に就職しました。
花山天皇が即位するのは984年です。
まひろが11歳の時です。
・・・ということは10歳以前ですね。
いずれにせよ小学生と言うことになりますから973年説でしょうね。
式部の家は下級公家だった・・・と言われますが、藤原北家の流れです。
歌の道の総本家、藤原定家が出る家柄ですから、庶民から見れば上流階級です。
奉公人も雇っていましたよね。
のちに父親の為時は五位・越前守、越後守などを歴任しています。
現代で言えば県知事に当たります。
後世の戦国時代の大名達は殆どが従五位下・◯◯守です。
そう考えると、公家も無官では貧しい・・・を強調したいのでしょうか。
藤原北家
現代でも歌道の名門とされ、歌会始などは藤原北家が仕切りますが、北家とは何でしょうか。
奈良、平城京の頃に蘇我一族を倒して政治の実権を握ったのが藤原(中臣)鎌足です。
その子・藤原不比等の代に入り、政治中枢を固め、さらにその4人の子供の代で宮廷を独占します。
その子供4人の家系が南家、北家、式家、京家ですが、平安中期西暦1000年頃になると、同じ藤原の中でも北家が抜きんでて勢力を持ちます。
今回の物語に出てくる藤原家の殆どは北家ですね。
物語の準主役・藤原道長の時代に絶頂を迎えます。
平城京から平安京への遷都、そして式部が生まれるまでの事件、歴史を辿ってみます。
645年 大化の改新 ・・・天智天皇に協力した藤原鎌足が政権に参加する。
672年 壬申の乱 ・・・天武天皇即位 天智系の藤原は干される。
700年 持統天皇、文武天皇が藤原不比等を登用、律令体制へ。
729年 長屋王の変 ・・・藤原4家が天皇直系を政権から排除。
785年 長岡京へ遷都・・・疫病流行 遣唐使が持ち込んだ天然痘。
794年 平安京遷都。
866年 応天門の変 ・・・非藤原系公家の排除。
901年 菅原道真を太宰府に追う ・・・政敵排除。
969年 安和の変 政敵を排除し幼年天皇(12歳)、皇太子(2歳)という異常な政治。
ほぼ300年の間に、政権を取り返そうとする(天皇親政など)天皇家の傍流(源平など)と藤原家の確執が続きます。
平安時代の経済
平安時代が比較的平穏であったのは経済環境が安定していたからだ・・・と言われます。
多分、植民地から吸い上げる利益で、都市財政が賄われていたからでしょう。
政治の中枢は京都に一本化されています、一極集中です。東北地方に縄文系日本人・蝦夷の勢力は残りますが、京都を中心にした同心円の広がりで近畿圏(山城、大和、摂津、河内、和泉、近江、)では商工業が発達を始めました。
その外側に農村地帯が広がります。
東には伊勢、美濃、尾張、三河、遠江・・・古墳時代からの農村です。
西には播磨、備の国も弥生以来の豊かな農村です。
京都の経済は概ねこの3地域の生産量に支えられていました。
残る地域、西の出雲以西の中国、四国、九州、日本海沿岸地域は植民地です。
植民地ではありますが九州は別格ですね。
植民地と言うよりは占領地、文化的先進地域ですから管理体制はより強化されます。
太宰府というのはGHQでしたね。
警戒されていました。
北の日本海沿岸地域、伯耆、因幡、但馬、丹後、丹波、若狭、越前、能登、越中
この地域は縄文以来繋がる海の道です。
連合すると強力な海軍になり、中韓と連携すると脅威になりかねません。
国司により分断します。
東の越後、信濃、駿河のライン・・・現代では中央構造線とか、フォッサマグナとか言う・・・より東の地域も植民地です。
東北はこれから植民地化していく対象地域で、中央の法制度は届いていません。
平安貴族のいう蝦夷の国とは「外国」です。
開墾と荘園
平安期は人口が爆発した時代でもありました。
政治が安定すると鉄は武器ではなく農具へと供給されるようになります。
古代では朝鮮からズク(銑鉄・半製品)の輸入に頼っていたのですが、砂鉄を原料としたたたら製鉄が普及し、この生産地が東へと移動して行きます。
関東に多い杉山神社は鉄の神様です。
社の辺りで製鉄が行われていた可能性が高いのです。
鉄の普及は農業生産を加速させます。
平安時代初期まで鉄製の農具は国家管理でした。
農機具は国衙、郡衙に保管されて、国営農場(公田)の耕作にしか使えません。
後の共産党農場であるコルフォーズのような制度でしょう。
農具がありますから、地方に派遣された代官達は私腹を増やすために農地開拓を始めます。
支配下の住民達の労働力を使い(タダ)、国家の道具を使い(タダ)、新田を開墾します。
中央にバレないように、公田からの税収はしっかりと収納します。
開拓地の収穫を独り占めして・・・
住民の反発を受けないように、収穫の一部を住民達に還元したりもしています。
こういう土地の闇開発が全国的に展開され、農作物の生産量が飛躍的に伸びます。
経済全体が伸びていきますね。
これが平安時代の人口増や、安定した政権を支えます。
公地公民、五公五民の税が律令制の大原則なのですが、全国に私有地ができていきます。
京都、近畿圏から遠いほど、監査の目が届きませんから私有地が広がっていきます。
中央もこれを知らなかったわけではありませんが経済停滞を招きますから禁止はできません。
まずは「一代限り許す」と自由化します。
その後、地方住民の反対に絶えきれず「三代許す」と緩和して、ついには「永年許す」と公地公民制を放棄します。
私有地「荘園」 それを守る武士達の一所懸命が、源平の争乱へと向かいます。