乱に咲く花 06 みんなが先生

文聞亭笑一

松陰の獄中生活は1年と2か月ばかりでしょうか。この間に世の中は激変しています。日米和親条約締結に続き、8月には日英和親条約締結、12月には日露和親条約締結と続き、翌年の12月に松陰が出獄を許されたのと同じ時期に、日蘭和親条約が締結されます。 「米国と条約を結ぶのなら俺たちとも…」と続々と押し寄せられ、断る理由がなかったんでしょうね。ペリーとの間で結んだ条約をひな形に条約締結が進みました。条約締結とは港を開くことですから、これで開国です。

にもかかわらず・・・攘夷か、開国か、という争いがこの辺りから激しくなるあたりが当時の混乱を現しています。攘夷・開国の論争は通商条約をめぐって争われますが、開港という点に関しては幕府の一存ですんなり決まっています。長崎のほかに函館と下田の開港が決まったのですが「江戸や京阪から遠隔地」ということでしょうか。伊豆半島の先端や、蝦夷地という辺境なら夷敵が攻めてきても大したことはあるまい…という安心感があったかもしれません。が、これに横浜、神戸が加わったとたんに、反対運動に火がつきます。

日本人はいつでもそうです。イスラム国というテロ集団に対しても、対岸の火事と関心を示さなかった人までが、邦人人質のニュースが飛び込んで以来、ハチの巣をつついたような大騒ぎです。現実が目の前に現れないと問題視しない傾向がありますね。

それはさておき、幕府の最大の問題は幕府最高責任者の将軍・家定が情緒不安定というか、精神的身障者であったことです。平和な時代であれば、将軍は飾り物にして、老中の合議制で時間をかけて方針を決めていけばいいのですが、その日本的寄合会議では欧米の要求に間に合わなくなりました。ペリーの場合もそうですが、彼らは期限を切って要求を突き付けてきます。このやり方に…全く慣れていなかったのが日本社会でした。

高須久子でございます。と女性の声で自己紹介した者のいることに驚き、松陰は体を伸ばして向かいの独房の格子を覗いた。なるほど、東の端の独房に白い顔がのぞき、こちらを見ている。松陰の目にも…よほど美人に見えた。
「罪は姦淫でございます」と悪びれずに言う。

松陰が出てくる小説のどれを読んでも女気が全くありません。愛だ、恋だという記述がないのです。どうやら生涯その道には縁がなかったようで、司馬遼の小説でも「らしき」、「モドキ」女性はこの高須久子だけです。

久子は長州藩の300石取りの上士の家に生まれ、男兄弟がいなかったため婿取りをして家を継ぎました。家付き娘というか、れっきとした武家育ちの姫様です。教養もあり、美人ですから亭主が健在であればセレブな奥方に収まっていたでしょうが、夫が早死にしてしまいました。その後の転落はテレビの方が詳しいでしょう。

ともかく、扱いに困った親戚衆が藩に頼み込み、5年の刑で野山獄に預ってもらうことにしたのです。こういう刑務所というか、収容所の役割もあったんですね。委託刑とでも言いましょうか…。もちろん、食費その他の必要経費は高須家とその親戚が負担します。

恋愛と言っても、互いに独房ですからプラトニックでしかありえませんが、交換した歌や俳句を読む範囲で、恋の匂い…くらいはします。

この部分、先週号とダブりました。

松陰の獄中生活は1年2か月であった。この獄中で彼はおびただしい量の読書をしたことで有名であるが、それよりも最年少である彼が囚人たちからついには師と仰がれた不思議さである。この不思議さを解くカギは、先ず松陰の底抜けの親切さにあるらしい。

見返りを期待しない親切さ…ボランティア精神とでも言いましょうか、こういうところに人が集まってきたのでしょう。彼の周りには人の和ができます。しかし、彼のそういう行動を支えた家族は大変だったでしょうね。やりたい放題、好き勝手して心配させ、人が集まればその面倒を見るのも家族の財布です。放蕩息子、道楽息子なのですが……それを見捨てないというところに杉家の家風があったのでしょうか。

この当時、父の百合之助は藩の火付け盗賊改めの役(警察官)についていましたから、役料収入で多少は家計に余裕があったのか、それとも役目柄で管轄下の刑務所で問題が起きないようにと気を使っていたためか、いずれかだったようにも思います。勘当!禁治産としてしまうのが普通ですし、委託刑のあった時代ですから、そのまま牢から出さないという選択肢もありましたが、松陰の要求する本を必死でかき集めます。

美談というより…欲しい物は何でもしてあげるから、おとなしくしていてくれ…という願いだったのではないでしょうか。

松陰は「富永殿を師にして書を習いたい」と言いだした。松陰の字は癖のある字である。これを直したいと言った。最初は馬鹿にしていた富永だが、やがて松陰の字を直すために大汗をかいて朱を入れるようになった。他の囚人もそれに倣い富永先生と呼ぶようになった。富永はそのことに興奮し、感謝し、態度まで変わってきた。

こういうところが吉田松陰の教育者としての天性の才能でしょうね。「やる気を出させる」ということに関して、後の松下村塾でもあまたの英才を育て、その門下から明治維新を推進する大立者が次々と誕生していきます。

その実験台というか、試行錯誤の練習場が野山獄であったようで、これは牢番の責任者である福川犀之助の協力なしにはできません。松陰の性格的明るさが福川を引きずり込んだのか、福川の寛容さが松陰に自由を与えたのか…、ともかく双方が協働しないことには刑務所内学校は機能しません。隣との紙のやり取りはできても、向かい側とやり取りはできませんからね。

さて、今週のストーリからすると1ページ余ってしまいました。

金子重輔のこと、小田村伊之助のこと…資料がありません。そこで、松陰が獄中にあった1年半の江戸の動きを書いておくことにしました。

日米和親条約を結んだペリーは、その約定を確固たるものにすべく下田に艦隊を係留し、西洋式の港湾整備を下田奉行所に要求します。当時の日本の港は漁港に毛の生えたようなもので、管理体制が整っていませんでした。それを、ペリーの要求通りに整備させるために「してみせて 言って聞かせて させてみて」をやっていました。そこに飛び込んだのが吉田松陰と金子重輔だったのです。

その後、ペリーは去ります。そして初代米国公使ハリスが下田に赴任したのが安政3年の7月で、この時点では松陰も獄から出て松下村塾を開いています。

松陰が入獄中に起きた大事件は、安政の大地震です。江戸直下型の大地震で、江戸の町は壊滅します。これは日本にとって、幕府にとっても大きなダメージでしたが……、

実は、江戸湾に停泊していた外国船や、下田に駐在していた外人たちにとっても驚天動地のことでした。日本人は…太古以来、地震や火山の爆発にはそれほどに驚きませんが、ヨーロッパ人にとっては地球が割れて粉々になるのではないか…と思うほどの衝撃でした。マルコポーロが書いた「黄金の国ジパング」を夢見て、この国に触手を伸ばそうと思っていた一攫千金の海賊連中にとっては、夢がいっぺんに覚めてしまうほどの大事件でした。

「日本は恐ろしい国だ」という報告書が、本国に送られています。

このことが…実は、イギリス、フランス、ロシアなどの欧米列強に与えた影響が大きかったのです。

「日本はリスクの大きな国だ。それに…資源もない」というのが、この後の数年を外国の干渉から日本を救いました。

自然災害の大きな、定住には危険なところに侵略するよりも、足がかりを作った中国を侵略する方が効果的だ…と、欧米の海賊は考え直したのです。

その期間に日本国内では、尊皇だ、攘夷だと、内乱をやっていることができました。

そう考えると…地震、雷、火事、親父も悪いだけではありませんね。時には役に立ちます。

次に大きな事件は、老中筆頭の阿部正弘が体調を崩し引退して、堀田正睦が老中筆頭になります。阿部はバランス感覚に優れた政治家でしたが、堀田は新し物好きな改革派です。どちらかというと理系のタイプで、西洋の先進技術に傾倒し、開国の方向にまっしぐらに進みます。そう…現代の政治家でいえば菅直人でしょうか。

この、急激に過ぎる開国方針に幕府内部が混乱を始めます。守旧派、改革派、折衷派、攘夷派…一枚岩で来た徳川家譜代大名の結束が乱れだします。

学校で習った近代史では「薩長が幕府を倒した」と教わりましたが、「幕府が自壊を始めた」という方が正しいのではないかと思ったりします。

この辺りから「攘夷でござる」と同時進行になりそうで、文聞亭の頭が混乱を始めています。頭が自壊して…認知症にならぬようにしたいと思います。