真田丸イントロ 信濃の国(1)

文聞亭笑一

大河ドラマが終わり、2週間ほど間が空きます。「休んだら…」というアドバイスも頂戴しましたが、休んだら次に始めるのが億劫になります。散歩をしていてもそうなのですが、いつもの6kmばかりの道のりで、「チカレタビー」などとベンチに座って一服すると、その後の足取りが重くなります。行儀が悪いですが、休まず、歩きたばこでスタスタ行った方が疲れません。

さて、来年は私の故郷が舞台の真田丸です。終盤の大阪の陣も、私が約25年間過ごした関西が舞台です。これほど地の利が分かった物語はないので、今からワクワクしています。ネタ本などはこれから漁りに行きますが、過去に何人かの歴史小説家が取り上げた題材ですから、資料には事欠きません。むしろ、一つの事件を作家がどう分析しているのか、その推理の・・・筋道の違いを比較してみるのも面白いかもしれません。

最初の舞台になるのは信州と、上州でしょうね。

真田家は信濃の名門・滋野一族の末裔です。古代というか、平安朝の頃からこの地に定住し、「牧」の支配者として君臨してきた一族です。「牧」とは字の如く、牧場のことで馬の産地です。官営牧場の支配者という立場でしょうね。馬は古代から最大の動力源であり、戦力・武力の源ですから、平安朝の防衛大臣的な役割を持っていたとも思われます。なにせ、信州の佐久地方は『柵』から派生した地名だとも言います。浅間山から碓氷峠、御巣鷹山から秩父・甲斐山地へと連なる山塊が、蝦夷への防衛線であったとも言われています。

それはともかく…この辺りの地理を理解しないと物語の展開が分からないと思います。

長野県には全国的にも珍しい「県民歌」なるものがあります。小学生になれば強制的というか自然発生的に覚えてしまう歌ですが、「この歌を歌えない者は信州人ではない」とも言われ、余所者を見分けるリトマス試験紙のようなものです。そう薩摩藩が隠密を見分けるために「ヤカン」を「ヤクァン」と発音させたようなものかもしれません。

この県民歌、「信濃の国」という題名です。

♪1 信濃の国は十州に 境つらぬる国にして 聳ゆる山はいや高く 流れる川はいや遠し松本・伊那・佐久・善光寺 四つの平は肥沃の地

海こそなけれ物さわに  よろず足らわぬことぞなき

♪2 四方に聳ゆる山々は 御嶽・乗鞍・駒ケ岳 浅間は殊に活火山 何れも国の鎮めなり 流れ澱まず行く水は 北に犀川・千曲川

南に木曽川・天竜川 これまた国の固めなり

この歌は6番まであります。地理から歴史、観光地、歴史上の人物などの観光案内までついていて、長野県を理解するにはこの歌で歌われたところを見聞すれば、すべてわかるという優れものです。さらに… 小学校の一年生からこの歌を歌うというのですから、他県の人が聞いたら驚きます。教育県だとびっくりするでしょう。でも、私の世代は知らずに歌いました。覚え込まされましたから、今でも歌えます。同郷の者が三人集まればこの歌を歌って絆を確かめます。

「十州」・・・県ではありません。旧国名です。「十州を言ってみろ」こんなのが社会科の問題で出ましたからねぇ。岐阜県、静岡県などと答えていたら「ペケ」です。越後、越中、飛騨、美濃、三河、遠江、駿河、甲斐、武蔵、上野が正解です。

「いや高く」「いや遠し」なんてのは古文ですよねぇ。中学生の頃までは「嫌になっちゃうほど高く、嫌んなっちゃうほど遠いんだ」などと理解していました。一番の傑作的な誤解は「海こそなけれ物さわに」の一節で、「海の魚は獲れないが、沢には鯉をはじめ川魚が沢山いる」という意味だと思っていました。が…、高校に入って地理の先生から「やせ我慢のセリフ」と聞いて、本来の意味を理解しました。

真田丸へのイントロに、なぜこんなローカルな話を紹介するのか。

信州人の特質を御理解いただくためです。

真田三代のリーダを支えた兵士たちの心情を御理解いただくためです。

信州の風土は、山や川で仕切られた小さな集落で、集落同士がまとまることはありませんでした。勝手バラバラ、地域の特質に合わせて多様な文化を形成していました。政治的にも、文化の面でも集団になることはなかったのです。徳川幕府はそれを利用して、小藩を乱立させ、なおかつ天領を随所に設定して分割統治をしました。一つにまとまると怖い地域性を持つと・・・最大の警戒をしていたのです。

それが、過去三度、まとまりました。

一回目は、木曽義仲が平家打倒の兵をまとめて、越後から越中、倶利伽羅峠を越えて京の都に攻め入り、旭将軍として短期政権を打ち立てた時です。

三度目は明治維新の後、「信濃の国」を歌いつつ教育県として全国に人材を供出した時代です。

二回目…これが今回の時代背景です。南は武田信玄、北は上杉謙信と別れましたが、京を目指して西に進軍した時代です。真田はその中心になって信州人をまとめ、信長、秀吉、家康に対抗していきます。反権力の代表的役割を演じますねぇ。とりわけ・・・最後の勝利者である家康には、二度も三度も苦杯をなめさせました。アンチ家康の英雄として、カッコいいのです。江戸時代に幕府の圧政に苦しんだ庶民からすれば真田の六文銭は期待の星でもありました。幸村人気は関西の方が圧倒的に高いですからね。期待の星と書いたついでに、真田の六文銭は、「三途の川の渡し賃」というほかに「昴(スバル)」の意味もあります。スバルは小さな星の塊りですが、その中に明るく輝く星が六つあるところから六文銭とのつながりを考えたのでしょう。

ともかく、戦国の最後の最後に、巨大権力を相手に徹底抗戦したのが人気の理由でしょう。

さて、来年の拙文に何と題名を付けようか・・・と、いろいろ考えてみました。真田を特徴的に表すものは何か。やっぱり六文銭の旗印でしょうね。真田幸隆が「真田」を名乗った時から常にこの旗印、紋所と共に人々が活動していきます。

「六文銭記」とすることにしました。六文銭の旗の戦記・・・なのですが、縮めて 六文銭戦記、「せん・せん」と同じ音がダブるので一つに再圧縮しました。

NHK大河の展開がどうなるのか、今年はネタ本も発行しないようですし、原作もない三谷幸喜のオリジナル脚本のようですが、ならば半分は後追い、半分は予想屋よろしく予告的に行きましょうか。いずれにせよ、ドラマ展開を見ながらの「おっかけ」で気が抜けそうにありません。在庫を作るのも無理なようですね。

滋野(しげの)一族は清和天皇の皇子・貞保親王の孫・善淵王が信濃守として小県郡に下って、この地に勢力を築いてきた氏族で、平安時代の末期には<滋野三家>と称する海野、根津、望月に分かれた。その後、この三家から会田、塔ノ原、田沢、刈屋、光、真田などに分かれて小県郡と筑摩郡に広がった。

                    (南原幹雄・謀将真田昌幸)

戦国物を読むと、なぜか主役の家系は清和天皇に繋がっていきます。清和源氏・・・その末裔であるというのが当時の流行だったようですねぇ。家系図などと言うものは平安期にはなかったか、あっても数代前までのものではなかったかと思われますが、鎌倉幕府ができ、御家人帳(武家の戸籍のようなもの)を作るにあたって、土地を所有する正当な「権利の裏付け」として作られたのではないでしょうか。提出先の幕府が清和源氏の本家ですから、「一族の端に…」という諂(へつら)いを含めて書き記したことが想定されます。嘘か? 偽か?などと詮索する必要はないでしょう。祖先は2の倍数で辿っていけば10代、20代前は膨大な数になります。その中に、清和天皇の縁者がいれば嘘ではなくなります。

こんなことを書くのも、数年前に発見した我が家(市川家)の家系図も清和天皇から始まっていました。更に、ご丁寧なことに「武田信玄の裏書」があり、武田の一族であることを証明してありました。まぁ、私が見たのは「その写し」ですから、真偽のほどは定かでありませんが、「総本家には本物が残っている(はず)」と言いますから、あるのかもしれません。

それはともかく、滋野一族の本拠地は海野平と呼ばれる千曲川支流の扇状地です。米はあまりとれませんが、なだらかな傾斜地が千曲川に向かって広がりその先には上信国境の山々が連なって見えます。とりわけ噴煙を上げる浅間山が見渡せます。ここに「小県(ちいさがた)」と名付けたのは小京都、小江戸などと同じ感覚ではなかったでしょうか。信濃地方の中心、文化の発信地という思いが感じ取れます。

鎌倉時代には、海野平の端、別所温泉の近くに鎌倉北条家の重鎮・北条義政が住まい、鎌倉文化の粋を凝らした立派な寺院を建てています。現存する国宝・八角塔で名高い安楽寺です。

余談ですが、この北条義政は蒙古襲来に立ち向かった北条時宗の叔父です。徹底抗戦を主張する時宗に反対し、元に朝貢して属国になった方が良いと主張した人です。どちらかと言えば平和主義?または・・・事なかれ主義の人だったようですね。

海野家は滋野一族の本家筋で、鎌倉時代には信州七奉行と言われた一人です。信濃の国を七つに分けて、それぞれに分割して統治していたことがうかがえます。他には、仁科、片桐、木曽、上条などの名が見えます。

真田幸村の曽祖父・海野棟綱の時代に、甲斐から侵入してきた武田信虎(信玄の父)、北信の雄・村上義清、盟友であったはずの諏訪頼重の連合軍に攻められ、領地を失います。一族は四散し、海野家は上州の長野業政を頼ります。

物語はこの辺りから始まるかもしれませんね。海野棟綱の子・海野小次郎が武田信玄に仕え、

姓を真田と改めるところから、真田家と六文銭の軍旗が誕生します。