真田丸イントロ 信濃の国(2)

文聞亭笑一

真田一族の本拠となる真田の庄は、千曲川からなだらかに北に登っていった高台にあります。現在そこには神社と僅かに土塁の跡を残すだけですが「山肌にへばりついた山村」と言った場所でしょうか。日本のどこの地方にもありそうな鄙びた農村の風情です。

そして、目の前に太郎山山系が伸びてきた端に当たる山が見えます。そこに戸石城が築かれ、村上方の最前線であったり、又、真田の本拠になったりと武田と村上の係争の地でもありました。

何年か前、そう、NHK大河が「風林火山」をやった時、地元の友人の案内で戸石城に登ってみました。ここは上田市近辺の、小学生の遠足のコースだと聞きましたが、なかなかどうして…、結構な急坂です。最後の登りなどは息が切れました。戦国期の山城というのは良く似た地形に設けられています。見通しが効いて、山から一気に駆け下りて街道に出やすい所・・・しかも攻め上るには急坂や崖で難しい所と共通しています。鉄砲伝来以前の戦では、弓矢の威力に数倍の差が出ますからね。

頂上には城址の碑のようなものと、簡単な案内板しかありませんが眺望は利きます。真田の庄が眼下に見下ろせ、鳥居峠を越えて上州に繋がる街道を見張っています。さらに目を転じると、広々とした平原に千曲川が蛇行しながら流れ下っているのが見下ろせます。佐久方面から善光寺方面に向かう軍勢などはすぐに発見できるでしょう。その意味で北信濃を領地とする村上義清にとっては重要な戦略拠点であっただろうと、容易に想像がつきます。

千曲川の歌があります。

♪ 水の流れに花びらを・・・ いえ、五木ひろしの「千曲川」ではありません、

信濃なる 千曲の川のさざれ石も 君し踏みては玉と拾はむ

(この石は只の小さな石ころだけど、あなたが踏んだものなら私には玉にも思えます)

万葉集に残る、切ない女ごころです。

この頃から奈良の都との行き帰があり、奈良から出張してきた若者との、別れを惜しんだ歌ではないかと言われています。

奈良から役人が来る…といえば、税金の徴収です。税は、租庸調の三種類でしたが、とりわけ信濃からは調(地方の特産品)としての馬が求められました。その牧を管理していたのが滋野(しげの)一族で、海野、望月などというのは都にも名が知られた有名な牧でした。馬というのは古代の重要な輸送手段であり、かつ軍事力です。騎馬の技の巧拙で戦いの帰趨が決まるほどで、鎌倉期に盛んになった流鏑馬(やぶさめ)などはその典型的な技ですね。こういう技術に長けていたというのも滋野一族の伝統でしょうし、それがまた戦国の真田軍団に伝承され、武田騎馬軍団の中核を占めるに至ったのでしょう。

もう一つ、信濃のお国自慢の句があります。

信濃では 月と仏と おらが蕎麦 (一茶)

月の名所である姥捨て山の田毎の月を自慢し、善光寺の仏様を自慢し、そして蕎麦の美味さを自慢します。僅か17文字で風流、文化、グルメと観光案内をやってしまいますから、江戸期のキャッチコピーとしては最高傑作に入るのではないでしょうか。

善光寺ですが、この寺に祀られている阿弥陀仏は仏教伝来当初のものではないかと言われています。仏教の導入に熱心だった蘇我氏と反対した物部氏が争い、難波の海に捨てられていたものを善光(よしみつ)が拾い上げ、信濃の地に安置したと言い伝えられています。

よく似た話が浅草の浅草寺で、ここも漁師の兄弟が海の中から拾い上げた仏像を安置したのが始まりとの言い伝えがあります。双方の由緒が余りにもよく似すぎていて、眉唾の感も禁じ得ませんが、そこが信仰、信心の世界でしょう。余計なことを言うと「罰あたりめ」と叱られますから、八百万教信者としてはどちらの言い伝えも信じておくことにします。

善光寺は宗派に関係なくすべての仏教徒を受け入れるというのが有名ですが、戦国期は宗教勢力と政治勢力が複雑に絡み合っていた時代ですから、戦乱を避けて多くの人々が門前に避難してきていたことが想像できます。

小次郎の潜伏期

海野一族は海野平を追われた後、いったん関東管領・上杉家を頼って上州の長野業(なり)政(まさ)の箕(みの)輪(わ)城に逃げ込んでいますが、その後、海野小次郎(真田幸隆=幸村の祖父)は情勢探索の旅に出ます。その足取りは全く記録が残っていませんので、小説家にとっては想像を自由に駆使できる部分ですが、「善光寺の門前に博労(馬の売買商人)として潜伏していた」とする説に…何となく惹かれます。善光寺には全国からの参詣者が後を絶ちません。情報が集まります。居ながらにして情報収集ができますし、馬という軍需物資の荷動き、つまり売れ筋を見ていれば、どこの大名の景気が良いか、戦の支度をしているかが分かります。

もう一か所、諏訪も全国から人の集まる場所です。諏訪大社は出雲系の神で、大国主の弟だと言われていますが、これまた全国に分社を持ち、人が出入りします。この二か所を往復していれば全国を漫遊するまでもなく情報収集が可能になったのではないかと思われます。

情報収集には忍者が付きものですが、真田軍記にも有名な猿飛佐助や霧隠才蔵という忍者が登場します。彼らは複数の情報要員の働きを一人に集約した架空の人物のようにも思えます。信州のマタギ、山に生きる人々を代表したのが猿飛、後に幸村の配下に加わる伊賀忍者の代表が霧隠ではないでしょうか。

猿飛佐助を代表とする信州マタギの集団が真田に味方し、表面的な軍事衝突とは違う見えないところで情報活動や戦略的工作をして、大勢力を罠にかける・・・。こんなところが真田軍記の面白い所だと思います。この集団はどこにいたのか? 想像に過ぎませんが筑摩山地とか、筑北と呼ばれる長野県中部の小盆地の周辺にいたと思います。この地域は北に進めば善光寺平、東に向かえば小県・海野平、南に向かえば信濃府中の松本平、西に向かえば安曇野です。行動範囲が実に広かったのではないかと思われます。

彼らの多くは田畑を持ちません。山仕事が中心で、山の幸を里に持ち込み食料に替えます。  薪炭の類がメインですが、狩りによる獲物は高価に取引できます。毛皮類、羽毛を始め、細工物なども得意だったと思います。縄文人の生き残りのような生活ですが、それはそれで豊かな生活様式だったかもしれません。まさに自然と共に生きる生活ですからね。

小次郎(幸村の祖父。幸隆)が浪人時代に、この種の部族と交流していたことが昌幸、幸村などの活躍に繋がる伏線であったような気もします。

こういう人たちは筑北に限りません。上信国境山地、戸隠周辺、蓼科山麓・・・至る所に散在しています。このネットワークを動員すれば、軍隊の数に入らない特殊部隊が構成できます。真田軍はどの戦いを見ても3千人ほどが最大動員力ですが、その裏にそれと同等の裏戦力があったのではないか?とも思います。

徳川を相手に大戦果を挙げた神川の戦など、こうした特殊部隊の活躍なしでは神がかり過ぎています。徳川軍が数を頼んで油断していたにせよ、真田の思う壺にはまり過ぎです。

これは、正規軍が仕掛けた罠に、特殊部隊が徳川軍を誘導した結果でしょう。巻狩りの場合の勢子の役割です。相当多数の人数で噂を流したり、陽動作戦を展開したりして、仕掛けた罠の方に誘導した結果だと思います。

「神川の上流に小型のダムを作っておいて、徳川軍が川を渡るときに一斉に放水し、あまたの溺死者をだした」という話もあります。ダムづくり、ダム決壊・・・・・・文字にしたら簡単ですが、かなりの土木技術がないとできません。それに決壊させるタイミング、通信手段など高い技術力を要します。真田家中にそれのできる技術者がいたと考えるより、猿飛に代表されるマタギ集団が大人数で協力したと考える方が…無理がないと思います。

彼らは戦の最中は姿を見せません。山に隠れて高みの見物をし、戦いが済んだら・・・出てきて、先ずは真田方の負傷者の手当てと移送、次には敵方の生き残りを始末して、それから身ぐるみ剥いで使えるものを分捕ります。これが報酬代わりですね。罠にかかる敵が多ければ多いほど、彼らの稼ぎも多くなりますから、真剣に協力するでしょう。一種のゲリラ部隊です。

まぁ、こんな想像をしていたらきりがありません(笑)

ただ、真田の神出鬼没な作戦行動を見るにつけ、信州に古くから伝わった山岳民族独特の食文化も貢献したように思えます。軍事行動には輜重部隊、つまり食糧輸送の部隊が不可欠ですが、それをより軽量化して部隊を機動的にするために、米の輸送を最小限にしていたのではないかと推測されます。「蕎麦がき」「おやき」などの粉食料と味噌・・・これが真田の機動力を支えたようにも思います。さらには氷餅も使われたでしょう。

「蕎麦がき」というのはそば粉に水を加えてかき回すだけの食事です。これに水に溶いた味噌を加えれば出来上がり、何とも簡単なインスタント食品の決定版ですね。

「おやき」こちらは最近観光名物として有名になりましたが、小麦粉に野菜などを包んで焼いたり蒸したりしたものです。餡にした野菜に味付けがなされていますからそのまま食べます。おにぎりなどよりも日持ちがしますから携帯食には便利です。

「氷餅」…餅をドライフリージングしたものと考えてください。この地方の雪はそれほど降りません。一尺(30cm)積もれば大雪の部類に入ります。代わりに凍みます。氷点下10℃などはざらで、氷点下20度ということもままあります。この寒さを利用した保存食が氷餅ですね。のして四角に切った餅を紙などに包んで水に浸し、夜間軒下に晒します。寒い夜などはカチンコチンに凍ります。そして昼間溶けだして風に晒しておけば水分が蒸発していきます。数日晒せば出来上がりです。水分が抜けていますから軽量になります。軽量になった分だけ、多数持ち歩けます。食べる時は水に漬けて戻します。元の味までは行きませんが、餅を味わえます。まぁ、インスタントラーメンの餅版と思っていただければいいでしょう。

これら食品は、軍の移動中に炊煙を上げなくて済みます。隠密行動がとりやすくなります。

更に、炊事中の隙を見せずに済みます。桶狭間で、信長の奇襲に敗れた今川は食事中でした。

……と、ここまで12月中旬に書いていたら、だんだんドラマの中身が見え始める情報が入り始めました。どうやら真田幸隆と武田信玄とのコンビのお話はパスして、真田昌幸と武田勝頼の時代から始まるようです。昌幸の次男として幸村が生まれる頃からですね。そうなれば祖父・幸隆の戦績・実績をおさらいしておかなくてはなりません。今週はページを増やします。

武田の信濃攻略

甲斐の武田が信濃に侵略の矛先を向け始めたのは信玄の父・信虎の時代からです。甲斐の国(山梨県)は国土の面積が小さく、しかも山岳地帯ですから経済力に限りがあります。後に金山が発見され、有名な碁石金の力で兵力を増強していきますが、信虎及び信玄初期の時代は貧乏です。

何とか支配地域を増やし、増収を図りたいのですが、南には北条が関東一円の勢力を誇り手出しできません。富士川を下って西には幕府の名門・今川が控えます。手出しできません。

そうなれば、勢力拡大の方策は北に向かいます。

八ケ岳を越えると佐久、諏訪といった盆地が広がり、米成りの良い土地があります。さらに、丘陵地には古代から優秀な軍馬の生産地が広がります。また、上条、市川など武田の一門の支配している土地もあります。

信虎の時代にまず手掛けたのは佐久攻略でした。諏訪は諏訪大社の神官である諏訪氏が古来からの勢力を維持し、伊那地方にまで支配地を広げています。難敵です。一方の佐久は各地に小勢力が割拠していて、まとまりがありません。各個撃破をしやすい情勢でした。

その佐久で、最大勢力だったのが真田の祖先・海野家を棟梁とする滋野一門です。海野、望月、根津といった小領主ですが一門が結束して武田に対抗します。信虎は自力で攻略するには難敵と北の村上義清、西の諏訪頼重を誘い連合軍を編成して三方から海野平を襲います。自軍の5倍ほどの戦力に攻められて、海野勢は敗戦、関東の上杉を頼って上州に落ち延びます。

幸村の曽祖父・棟綱は上杉(越後の謙信ではありません。関東管領です)の勢力の支援を得て祖国復帰を模索しますが、その息子・小次郎幸隆は武田に就いて本領復帰を狙います。親子が敵味方に分かれる…戦国の習いと言いますが、真田一族はこれを何度もやりますね。「卑怯の家」といわれる原因ですが、小勢力が生き延びる手立てはこれしかなかったのも事実です。

小田井が原の戦という、上杉と武田の決戦があります。この戦いで棟綱と幸隆は実際に親子同士で戦い、棟綱は討ち死にしています。武田の佐久支配が決定した戦いでした。この時の手柄で、幸隆は信濃先方衆として、佐久地方の勢力の司令官になります。武田に仕官してから真田を名乗り、六文銭の旗印に決めました。

その後、村上勢と一進一退の戦いを繰り広げます。上田ヶ原の戦、戸石崩れと武田軍は負けが続きますが、真田幸隆の村上陣営の切り崩し(調略活動)で、川中島方面の村上方が武田に寝返り、さらに真田の奇襲作戦で戸石城を攻略します。こうなると、村上方は守りきれません。

武田が村上を破ったことで、ようやく真田一門は旧領の海野平一帯に復帰します。その意味で真田幸隆が「真田家中興の祖・初代」です。幸隆と信玄・・・絶妙の信頼関係にあり、軍師的役割を果たしていました。山本勘助という軍師がいたかどうか・・・諸説ありますが、もしかすると幸隆が「勘助」だった可能性もあります。江戸期に、神君家康が大嫌いな「真田」を主人公にした物語は書けません。ともかく家康は真田を潰したくて、潰したくて、色々仕掛けます。沼田真田家の方は、罠にかかって潰されましたが、松代真田家はしぶとく明治まで生き延びました。