六文銭記 51 あとがき

文聞亭笑一

NHKの放映は日曜日の50回目を持って終わりました。見終わっての感想は視聴者夫々に異なるものだったと思います。私などは故郷・信州の英雄としての想いが強い方ですから、どうしても真田贔屓の目で見ます。さらに言えば、武田信玄の流れを汲む昌幸、信繁親子に肩入れし、家康には良い印象を持ちません。

・・・といいながら、私が最初に歴史小説に出逢ったのは、山岡荘八の長編「徳川家康」でした。小学生当時、我が家で取っていた中部日本新聞で連載中でしたから、秀吉、信長が活躍している場面にワクワクしながら翌日の配信を待ったものです。その後も単行本で何度も読み直し、企画部門にいた頃は「経営の教科書」と言った感じで精読しましたね。

歴史小説と言えば司馬遼太郎ですが、司馬遼太郎は大阪人でもあり、家康には批判的と言おうか、一歩引いた立場から論じています。山岡荘八が「偉大なる英雄」として描くのに対し、司馬遼太郎の家康像は「強かな政治家」となりましょうか、そして、三谷幸喜は「家族愛、兄弟の絆」といった描き方でした。

歴史は読み手によって、いかようにも変化します。その典型例が古代史で、つい70年前までは、神格天皇が信じられ、全てが天皇に依る聖なる政治であったと考えられていました。遺跡などの証拠も、その論理によって組み立てられます。中には捏造された遺跡などもあって、復元された石碑に有名な企業経営者の名が刻まれていたりします。

さて本題。

家康は真田信繁(幸村)が「日本一の兵(つわもの)」と褒め称えられ、評判になるのをなぜ許したのでしょうか。

親子二代、いやそれ以前の祖父・幸隆も武田方として、三河の家康の実家・松平を圧迫しています。

嫌な奴、歴史から抹消してしまいたいくらい目障りな奴だったと思います。

家康に従順だった真田信之の手前、我慢したのかとも考えられますが、豊臣を倒して絶対権力者になってからは、そういう遠慮はなかったはずです。家康、本多正信的政治工作で行けば、昌幸、信繁を貶めることで信之が反発したら、それを理由に、簡単にお家取潰しができたはずです。

そう考えると、家康は信繁を「敢えて英雄にした」とも思えてきます。

なぜ? 家康が徳川300年の太平を維持するためでしょう。徳川家が長年にわたってこの国の王者に君臨するために必要な人物だったからです。真田の何が必要だったのか。「忠義」だと思います。

朱子学

家康は太平の世を作るにあたって、国家のバックボーンともなるべき哲学を探しました。関ヶ原から、大阪陣までの14年間にそれを模索したと思います。

影に日向に、信長の後姿を見ながら人生を歩んでいますから、信長的アンチ既存宗教というスタンスは堅持していたと思われます。とりわけ仏教については醒めた見方でした。関が原以後、本多正信を遠ざけて息子の本多正純を重用したのにも、その匂いを感じます。本多正信は一向宗、後の浄土真宗の敬虔なる信者で、家康が20歳代の頃に領国経営で難渋した、三河一向一揆の首謀者の一人です。家康と正信は 敵同士だったのです。さらに、本願寺と信長との死闘を見てきています。浜松に居を構えた折には、隣の尾張で長島一向一揆の凄惨なる場面も目にしてきています。「南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽に行ける」とする仏教の教義には、全く信を置いていない、いや、危険要素を強く感じ取っていたと思います。本願寺を東西に分けて、内部抗争をさせるように仕向けたりもしていますね。警戒しています。

キリスト教はどうでしょうか。これは朝鮮役で名護屋に滞在している時に、自らの目で調査しています。秀吉の禁止令にもかかわらず、根強い信仰を持ち、棄教しようとしない九州の民に、一向衆と同じ危険を感じたものと思われます。家康の目には「南無阿弥陀仏」も「アーメン」も同じに見えたのでしょう。

宗教を否定した代わりに家康が選んだのは「学問」でした。現代人は論語や、孟子を「儒教」と定義しますが、儒教というのが果たして宗教か。私などは哲学であると思っています。孔子、孟子が宗教なら、マルクス、レーニン、毛沢東も宗教にしなくてはいけません。宗教団体として公明党を非難する共産党も、宗教団体になります。

家康の時代に、日本で流行っていた学問は朱子学でした。孔孟の思想が「君子たれ」と教えるのに対し、「君子を支える者はいかに生きるべきか」というところに論点がありますから、為政者が普及させるには好都合です。「君、君たらずとも、臣、臣たれ」というのですから、こんな良い思想はありません。

林羅山を始め、多くの儒学者を集めて「徳川儒学」としての「武士道」を構築します。

哲学は難しいですよね。形而上の話ですから具体的イメージが湧きません。とりわけ家康が重視した「忠義」という概念には、実存するモデルが必要です。それも、より多くの人が見聞きしている具体例が良いですね。建武の中興、源平合戦では高学歴の者しかわかりませんからね。当時の武士たちの1割にも該当しません。

彼らが、つい先ほど見てきたもの、それが豊臣への忠義に徹した真田信繁・幸村の活躍でした。

これ以上の具体的サンプルはありません。30万人とも言われる兵士たちが、自らの体験を通じで経験してきたことです。「秀頼は優柔不断なアホだったが、最後までその主君を支え、大軍に一泡二泡食わせた真田こそ、真の武士である」こういえば…忠義という難しい言葉が、「ああ、ああすることか」と納得できます。同じ論理で後藤又兵衛まで英雄になります。

それもあってか…、家康は信繁の首実検(死亡確認)に立ち会っていません。首を見たら、思わず激高して、不用意な罵声を発してしまうのを避けたのではないでしょうか。信繁を英雄にして忠義のモデルにしようというのは、夏の陣の前に林羅山などと計画していたことではなかったでしょうか。

首実験をしたのは、家康の側に控えていた信繁の叔父・信尹です。そこから「ニセ首であった」「幸村は逃亡した」などの憶測が流れます。

いずれにせよ、狸親父というか、実に日本的政治家です。目的のためには使えるものは何でも使います。それがあってこそ徳川長期政権が可能になったと思われます。

私は鎌倉幕府から明治維新までの武士の世を「中世」と理解していましたが、先日、市の広報誌に中世と表現したら、原稿段階で忠告を受けました。中世とは鎌倉幕府から戦国時代までで、その区分けの中核をなすのは荘園制度だと言います。何かおかしい…、荘園制度を作ったのは平安期の藤原氏ではないか、それが有名無実になったから、戦国乱世になったのではないか…と反論しましたが「小学校の教科書に書いてある」と言われて、逆らうのを辞めました(笑) 歴史論争をする気はありません。

徳川幕府260年は「近世」というのだそうです。そして明治維新から太平洋戦争の頃までが「近代」となっていました。お孫さんに聞かれたら、そう答えておいてください。

家康をどう評価するか。政治的安定をもたらした偉人・恩人という観方があります。その一方で、日本の近代化を遅らせた悪人という観方もあります。幕府という政治形態は、律令上では「占領軍指令所」という位置づけです。頼朝、尊氏の時代から日本国は皇居周辺を除いて、700年近く占領軍の支配地だったことになります。 紙面が切れました。長らくのお付き合いありがとうございました。

(おわり)