六文銭記 08 決断力・実行力

文聞亭笑一

先週号で滝川の人質になったとりや信繁について書かなかったのは、木曽まで連れて行かれたという事実はない…と思ったからです。真田の勢力圏、つまり諏訪までは連行されたとしても、木曽義昌に対して有効な人質ではないからです。それに、滝川一益にとって重要なのは一刻も早く伊勢の本拠地に帰って体勢を立て直すことで、女連れ、しかも足弱の老婆を連れて山道を逃げるなどと云うのは考えられません。更に、清州で織田政権の次期構想が決められるという情報が入っていればスピードこそが重要なのです。だから、佐久と諏訪の中間点・和田峠で人質は解放されたでしょうし、そこまでは真田軍が護衛部隊を付けて行ったと思われます。

滝川が信濃脱出で苦労している間に、昌幸は旧武田時代の自領の回復を急ぎます。沼田、岩櫃だけではなく、羽根尾城、長野原城などを回復して真田―沼田の線を確保しています。それぞれの城を「点」としてではなく「線」としてつなぎ戦略性を高めていました。

上杉の事情

本能寺の変の直前、上杉家が滅亡の危機にあったことはすでに述べました。西から柴田勝家が迫り、北では新発田重家が反乱を起こしていました。さらに南から森長可に軍勢が迫っていました。それが…6月2日を境に西と南の脅威が消えて、軍を信濃、南に向けました。高坂(春日)や真田信伊の調略で信濃がタナボタで手に入る見通しになったからです。6月中はこれがまんまと成功しましたが、関心が南に向いている間に北の新発田勢はますます勢力を強めます。下越だけでなく、中越地方も危うくなっていました。信濃ばかりにかかわり合っていられません。信濃のことは深志(松本)に復帰させた小笠原と、海津城に復帰させた高坂に任せて、越後の内乱を始末しなくてはならなくなりました。

赤字で倒産寸前の企業が、降って湧いたような好景気で売り上げが回復したようなものです。イケイケドンドンと成長分野に投資したいのですが、赤字事業の整理をしないでいては「笊で水を汲む」の喩えになってしまうのと同じです。攻撃型の上杉景勝とバランス経営型の直江兼続、この二人で思案、検討を繰り返したのでしょう。北と南に軍を分けるほどの兵力はありません。この当時に上杉の動員兵力は7千人程度だったと思われます。

兄弟離反策

関が原の前夜、父と弟は西軍につき、兄は東軍に就く。そして、どちらが勝ってもどちらかが生き残る…という話はあまりにも有名ですが、真田はそれを何度もやっています。

その原型は昌幸の父・幸隆の時代からで、この時は父親が関東公方につき、息子は武田につくという形でした。両者が激突した小田井が原の戦では、息子が父親を討ち取っています。

二回目の今回は、兄・昌幸は北条につき、弟・信伊は上杉につきます。

大混乱で先のことはわからぬ…というのがホンネで、一種の保険です。

こう書くと「真田一族は親子兄弟の情が薄い」と思われそうですが、情が濃いからできることだと思います。敵味方に分かれて、一方が生き残るということは、一方は犠牲になるということでもあります。兄弟のために犠牲になる…という覚悟がなければ、できることではありません。

ともかく、信尹は上杉の先方衆として信濃における上杉方の代官の役割を続けます。子会社として分社したようなものです。

一方の昌幸は北条にすり寄ります。上杉の援軍が期待できないとなれば、北条の大軍を向こうに回して真田―沼田間の防衛線を守り切れるはずがないからです。

真田と北条

普通に考えれば、この組み合わせはあり得ません。

真田は武田の時代から、さらに織田の時代にかけて北条にとっては疫病神のような存在でした。昌幸の父・幸隆の時代から上州を蚕食する害虫のようなものです。とりわけ氏政と、上州方面軍を担当していた弟の氏邦にとっては目の上のたん瘤です。北条に帰属していた上州の勢力を次々と寝返らせ、武田勢力圏を広げるばかりか、織田(滝川)につくと武蔵まで進出してきました。拡大しかなかった北条家にとって最大のピンチで、一時、本能寺の変直前には織田への臣従まで考えざるを得なくなったことすらありました。「憎っくき奴!」です。

真田の臣従の申し入れに、若い氏直が拒絶した気持ちは当然でしょう。叔父の氏邦も側にいたはずですから「斬れ」という雰囲気だったでしょうね。取引材料がなくては死刑執行です。

取引材料は弟の信伊です。信濃勢は殆ど調略済みである…とハッタリをかけたのでしょう。

それしか考えられません。東信の室谷、出浦、根津、伴野などは既に北条軍に参加していますし、佐久から諏訪への道筋で抵抗勢力として残っているのは、徳川についた小諸の依田玄蕃だけです。上杉の支配地域は既に調略済みで、北条が進軍すれば寝返る手はずになっていると大嘘を言うしかなかったと思います。

これに騙されたのは氏直か、氏政か…記録はありませんので小説家に依って各論があります。今回の三谷脚本では「氏政が騙された」という説を取っていますね。

騙し、騙され…というより、「真田などに手間取っている暇はない」というのが北条方の本音でしょう。たとえ騙されても、信濃を抑えてしまえば真田は北条に取り囲まれた海中の孤島になります。自滅するしかないのです。

結果論から言えば…、これが誤算でした。

高坂(春日)信達の逡巡

真田の隣、地蔵峠を越えて川中島の平野に出る入り口に海津城があります。

信玄、謙信の戦国大スペクタル、川中島合戦の重要拠点でした。信玄から絶大な信頼を得ていた高坂弾正が、信玄の死後もずっとこの城を守っていましたが、勝頼に疎まれて失脚し息子の信達が家督を継いでいます。信達は武田の滅亡を受けて、旧姓の春日に戻しています。

織田の侵攻時には、進駐軍の森長可に城を明け渡し、森軍の先鋒として上杉討伐に向かいます。それが…本能寺の変を知るや森を追い出し海津城に復帰しますが、上杉が進軍してくるに及んで、今度は上杉に恭順します。この辺りは真田と同様で「強いものに巻かれる」しかありません。

卑怯とか卑劣とかいうモノサシで測る問題ではありません。親会社が倒産し、吸収合併されたら、下請け企業はライバルの傘下につくしかないでしょう。戦国を生きる企業(武士)にとって売上確保(部下を賄う税収=本領安堵)こそが大切なのです。

さて、上杉が越後に引き上げると、それまで上杉方についていた信尹が北条に寝返ります。

兄の安全が確保出来たら、それで相互犠牲契約は終わりで、今度は二人して北条の下請けに早変わりします。この辺の連携が何とも憎いばかりですねぇ。

信尹は、今度は兄の名代として、一旦は上杉についた信濃の国人たちを北条方に誘い入れ深志、筑摩の調略に当たります。変幻自在と言おうか、大勢力の動向を的確に把握していないとできない変わり身の早さです。情報網でしょうね。相手より多くの情報を持っていないとできない交渉事です。

信尹の説得に春日が迷います。この逡巡が彼の運命を暗転させました。「春日は北条の調略を受けている」という情報が伝わると、上杉は北の鎮圧に向かっていた軍を引き返し、一気に信濃へ舞い戻ってきました。この辺りの切り替えの早さは謙信以来、上杉の得意とする所です。

どちらとも決めかねていた信達は処刑されてしまいました。

余談ですが、その後の高坂(春日)家の末路は悲惨でした。豊臣の世になると、この地に再度赴任して来た森長可の弟・忠政によって一族一門の総てが探し出され、処刑され、根絶やしにされてしまいます。森軍の信濃退陣を妨害したという罪でした。

家康の信濃参戦

西の方では清須会議で勝を収めた秀吉が着々と信長の後継者であると足元を固めていきます。その対抗馬は北から柴田勝家、南から伊勢に戻った滝川一益、それに東から織田信長の3男信孝です。この3勢力は秀吉を取り巻くような陣形に見えますが、その実、情報連携の誠に取りにくい位置関係です。取り巻いているようで…実はバラバラなのです。

勝家はしきりに家康を味方に引き入れようと使者を送りますが、家康にとって織田家の跡目争いには興味がありません。誰が相続しようが、それを倒して自分が天下を取ろうと方針を転換していました。

そのためには武田の遺領をそっくりいただき、対抗できる実力を付けようと考えていました。先遣部隊は既に三州街道を北上し、飯田から伊那へと入って調略活動を始めています。

信濃ばかりではありません。

富士川を遡上して甲府へと進軍しています。北に進んだ北条が、上杉と対峙している隙に、甲斐を手に入れてしまおうという狙いです。

これには北条が慌てます。すでに大月など都留郡は北条の勢力下にあったのですが、その地盤が崩されます。上杉とのにらみ合いをしている余裕はありません。方針を変更して南下する作戦に切り替えました。

天正壬午の乱、信濃での第二ラウンド(下図)が始まります。

(次号に続く)