六文銭記 03 乾坤一擲(けんこんいってき)

文聞亭笑一

信幸、幸村たちの避難は無事成功しました。めでたし、めでたし…なのですが、真田一族にとってはここからが正念場です。武田遺臣…つまり、武田株式会社の管理職、重役たちの身の処し方は難しい。武田家の上級役員名簿と、信長侵攻時の担当と、結末を整理してみます。

社長;武田勝頼一族 追い詰められて天目山の露と消えました。

副社長;駿河担当・穴山梅雪 徳川家康に降参し、その執成(とりな)しで生き延びます(処分未定)

副社長;木曽郡代・木曽義昌 滝川一益を手引きした功で深志、安曇へ進出の先陣

副社長;伊那郡代・武田逍遥軒(信玄の弟) 逃亡、行方不明

専務;都留・佐久郡代・小山田信茂 投降するも処刑

専務;秘書室長・跡部勝資 社長に殉じ天目山で敗死

常務;深志郡代・馬場美濃 (武田四天王と言われた先代の息子) 逃亡 

常務;安曇郡代・仁科信盛 高遠城で戦死

常務;海津城代・高坂信達 上杉へ支援要請 (この人は甲陽軍鑑を書いた弾正の息子)

常務;上野郡代・真田昌幸 北条・上杉・織田への3方面外交

第3話の時点で生き延びているのは4人だけです。

担当地域を見てください。甲府、諏訪、伊那という武田軍団の本拠地に居た者は生き残っていません。穴山は駿河、高坂は北信濃、真田は上州です。織田軍の侵攻ルートから距離がありますから、時間が稼げます。その間に外交工作が可能です。とりわけ高坂と真田の位置が微妙ですね。高坂は越後・上杉と境を接しています。織田の軍門に降るか、上杉に支援要請するかのいずれかです。一方、真田は北の上杉、南の北条の選択肢が一つ多いという利点がありました。

真田昌幸には真田信尹(のぶただ)という同じ年の弟がいます。幸村にとっては叔父ですね。この人が真田家の外務大臣のような役割を演じ、上杉、北条、織田(徳川)との間を駆け回ります。幸村が終生尊敬していたという叔父で、昌幸の陰に隠れながらも「名代」として諸勢力の間を周旋します。信尹は昌幸と双子の兄弟だったのではないかという説もあります。

後の話ですが、関ヶ原、大坂の陣でも陰で真田家を支え、この家系は5千石の旗本として明治まで生き残ります。真田家の物語を読むうえで、兄弟、一族の絆の強さというのは他の戦国大名とは異質な程です。祖父・幸綱の薫陶というか、米の取れない痩せ地での環境のためか、よく分かりませんが異常なほどです。昌幸の叔父・矢沢頼綱の本家を想う気持ちもまた同じです。

この時信尹は、北条、上杉の双方に渡りをつけるべく、奔走しています。上州でも内藤家を始め、主だった武田遺臣は北条方に鞍替えしていました。昌幸も北条家に臣従することを臭わせた密書を北条氏直に送っています。同様に、上杉景勝にもエールを送る密書を出しています。

その一方で織田、徳川にも臣従するという工作をしようというのですから強かです。

「武田ホールディングスは倒産しても、真田事業部は独立して生きる」

そういう戦略が取れたのは真田固有の「技術力」ではないかと思います。合理主義に徹していた信長が、何もとりえのない人物とその集団を配下に抱えるとは思えません。使い道のない人物は名門であろうが、忠実であろうが、遠慮なく捨てて、才能のある木下藤吉郎(秀吉)や明智光秀、滝川一益などを抜擢しています。真田昌幸に、魅力を感じたればこそ、配下に加えたのではないでしょうか。

真田の技術力

何が信長に評価されたのでしょうか。三つの可能性があります。

一つ目は馬、馬術でしょうね。馬というのは当時の戦闘において「戦車」に匹敵する威力があります。馬一頭の破壊力は足軽(槍部隊)20人に匹敵したと言われます。しかも、その扱いに精通しているか否かで破壊力に差が出ます。真田の本貫の地・東信濃は奈良朝の昔から官営の牧場が設置され、優秀な生産者、調教師、更に騎手が育ってきた土地柄です。更に、岩櫃城を中心とする群馬県吾妻郡も牧場の多い土地柄です。

昌幸は信長に会いに行くとき、産地の中でも飛び切り優秀な黒葦毛の駿馬を信長に献上します。三方が原戦、長篠戦でも真田の騎馬軍団は一際優れていましたから、信長も真田馬術の優秀さを知っていたのかもしれません。

二つ目は情報力でしょうか。武田軍団は川中島の戦の折、「謙信現る」の報を、狼煙の伝達で数時間後には甲府に伝えていました。その大半の狼煙(信号所)を管轄していたのは真田です。

武田の狼煙は3色を使いました。薪にする木の性格により白煙、黒煙、黄煙です。これを3回に分けて焚きます。一回目は謙信の現れた方角です。高田から信越線沿いを来たのか、信濃川を遡って長岡方面を飯山線で来たのか、それ以外か。二回目は軍勢の規模です。万余の大軍か、通常規模か、偵察ないしゲリラ行動かなど…。三回目は緊急度ですね。敵の進軍スピードです。

現在の情報判断でいえば重要度、緊急度、影響度みたいな感じでしょうか。3X3X3=27通りの情報が伝達できます。まぁ、野球のブロックサインのようなものです。

三つめは測量術というか土木技術でしょうね。城造りの巧みさです。一次二次の上田合戦、大阪城・真田丸の構造や、城郭の運用能力の高さは、当時の技術レベルの水準を越えていました。

占領した新府城を見て、設計した真田の技術力に信長も目を見張ったと思います。

信長は技術に関してはとりわけ関心の高かった人ですからね。安土城などは当時の最先端技術を惜しげもなく使った信長自らの設計です。そういう技術オタクの目から見たら、真田昌幸は…一度面接しておきたかった人物でしょう。

武田の三弾正

ついでに、余談ですが…信玄時代に「武田の3弾正」と言われた3人を紹介しておきます。

攻め弾正…真田弾正・昌幸 今回の主役・幸村の父

槍弾正……保科弾正・正俊 保科はその後家康に仕え高遠城主。二代秀忠の隠し子を養育し、その隠し子・保科正之は幕府大老・会津50万石の祖となる。

逃げ弾正…高坂弾正・昌信 信玄の知恵袋、甲陽軍鑑の著者、戦略家 逃げ弾正は逃げたのではない。殿軍(しんがり)、退却戦の名人だった。

真田が先陣を切り、保科が白兵戦で活躍し、不利になっても高坂が凌ぐ…これが武田の強さと褒め称えられた三人です。弾正というのは官名・弾正忠です。信長も弾正を名乗っていました。

真田の実力

この当時、全国区で見た真田の評価はどの程度だったのでしょうか。今回は現代の会社規模で例示してみたいと思います。

武田家は戦国の雄です。武田ホールディングスとも言うべき大企業です。この規模の会社、つまり二か国以上を支配する会社は、東から順に北条、上杉、武田、徳川、織田、長曾我部、毛利、大友、島津の9社しかありません。中でもダントツが信長の織田カンパニーで、第2位が毛利、第3位が北条ですね。企業合併が続き、シェア争いの真っ最中です。

真田の属する武田カンパニーはどちらかというと斜陽企業で、先代・信玄の遺産を織田や徳川に蚕食されて守りに回っていました。ただ、その中で幾つかの事業部の内、真田昌幸が担当する上野事業部だけが元気で、北条の沼田城を奪取しますし、南への開拓を順調に進めていました。

もう一つ、堅実に経営していたのが北信濃の高坂弾正の事業部で、ここは上杉の内乱・御舘の乱を調停し、武田・上杉同盟を締結するなど、北の守りを鉄壁にしていましたね。ですから勝頼政権としては一番安心できるのは北信濃、上州だったのです。

信玄は「人は石垣、人は城」と人材発掘と登用に熱心だったのですが、勝頼は先代が残してくれた人材を嫌いました。忠告、意見の一つ一つが鬱陶しいのです。長篠の戦で、武田四天王と言われた人々すべてを失い、更に、高坂弾正まで遠ざけます。

二代目、三代目が陥りやすい落とし穴ですが、それにすっぽりとはまってしまいました。

高坂弾正が生きていたら、織田の進軍に対し全く別の戦略を用意したでしょうし、木曽義昌を裏切らせることなどなかったと思います。諏訪・深志郡代の馬場家は2代目が凡庸でしたから、諏訪か松本に、木曽の飛び地(税収・支配地)を用意してやればよかったのです。

甲陽軍鑑という著作は、徳川幕府の軍政の基本として250年間の長きにわたり生き延びましたが、戦国の「経営指南書」とも言うべき傑作でした。その高坂が武田滅亡の3年前に亡くなっています。これで武田政権の「芯」が抜けてしまいましたね。

その意味で高坂は武田カンパニーの経営戦略担当、真田は新規事業の事業部長というレベルでした。発想のスケールにかなりの違いがありました。

猿飛佐助

真田物語はこの人なしには進みません。幸村(信繁)の目であり、耳であり…五感です。

真田家は先代の幸綱以来、武田カンパニーのCIO(Chief Information Officer…情報担当役員)を担当しています。情報要員を多数抱え、全国に展開していました。その出身は幾つかあります。

まずは山の民、マタギ(猟師・樵(きこり))です。山岳地帯を苦もなく走り回り、道なき道(獣道(けものみち))に精通した人々で、この人たちは特殊技能の持ち主です。そう、忍者といった方が良いでしょうね。偵察、通信、暗殺、毒物、医術など生化学技術者でもあります。

次に上信国境の四阿山の行者たちがいます。修験僧とも山伏とも言いますが、全国を行脚し、情報を集めて流通させます。後の物語「真田十勇士」に登場する三好青海入道、伊佐入道などがそれに当たりますね。更に、博労(ばくろう)…馬商人がいます。十勇士でいえば根津甚八、望月六郎太がそれです。根津、望月、海野は真田の同族で、奈良朝からの牧場主で、馬商人ですからね。

もう一つ、真田の氏神である白鳥神社のノノウと呼ばれる巫女集団がいます。彼女らは宗教行事のほかに芸能をしますし、全国を渡り歩きます。広域情報を集めます。

これは私の推論ですが「猿飛佐助」という人物は、最初に挙げたマタギ系忍者の「総称」であって、個人名ではないと思います。複数の忍者の活躍をひとりに代表させたものだと思います。いちいち名前を挙げるのは面倒ですし、第一、忍者の個人名など歴史書には残りません。

これら情報要員の元締めをしたのが出浦昌相…今回から登場します。  次号に続く


「真田丸」余話 その1

文聞亭笑一

正月以来、NHKは真田丸の宣伝のような番組を垂れ流します。追いかけ屋としては忙しくて仕方がありません(笑)7日には歴史ヒストリアという番組で「真田丸発見」というテーマで、土木技術の面から見た大坂冬の陣、夏の陣の真田軍団の活躍を分析していました。私のような技術好きには面白い番組でした。読者の約7割は理系の方ですので、紹介してみます。

1、真田丸は丸ではなく四角い形をしていた。

これを、大発見のように伝えました。が、歴史を少し齧り、城郭構造を知る者にとっては、大発見でも何でもなく「当たり前」の常識です。日本の城郭はどこのお城でも「本丸」を中心に「二の丸」「三の丸」を配します。大阪城、江戸城のような大城郭になれば、それでは足らずに「北の丸」とか「山里曲輪」のように多くの「丸」や「曲(くる)輪(わ)」で囲まれています。

つまり「丸」とは地域、機能を指す言葉で、真田丸というのは「真田の陣地」という意味です。従って丸かったり三角であったり、四角でも六角でも構いません。要するに、地形をどうデザインして防御性を増すかということで、「丸」だから円形だったであろうなどと考えるのは素人の発想です。

ただ、江戸時代に真田軍記を書いた作者は大阪の町人出身で、お城に入ったことのなかった人でしょうから、「丸だから円形に違いない」と勘違いしたのでしょう。想像で配置図を描いてしまいましたから、古文書の殆どは大阪城に接した半円形の陣地になっています。

古文書に書いてあるから正しい…と思うのは科学的でないのですが、歴史家という人たちは文系で、古文書を根拠にしますから間違った歴史物語を作って「学問的だ」と威張ります。

2、大阪の真田町に真田丸はなかった

大阪城の南側に真田という地名の場所が幾つかあります。ある神社などは幸村の銅像を飾り、陣地まで再現していますが、どうやらそこではなかったことが実証されたようです。

実際の場所は、超音波による地質探査の結果、真田町から少し離れた、お寺が集中している一角だったようです。堀があった痕跡、谷に囲まれた地形など、広島の浅野家から発見された古地図とぴたりと一致しました。

天然の地形を巧みに利用した難攻不落の陣地・・・これは優れた地学知識、土木技術が無くては短期間で構築できるものではありません。真田幸村が土木の知恵を持っていたのか、それとも土木に優れた家臣団を抱えていたのか?

多分、後者でしょうね。真田三代は幾つかの戦の城を築いてきました。武田勝頼が籠城しようとした韮崎の「新府城」、徳川を二度も撃退した上田城、更には、自身が本拠にした岩櫃城や沼田城なども手を加え、工夫を凝らしたのでしょう。ともかく真田の城は至る所に罠が仕掛けてあります。守るというより、反転攻勢に出る仕掛けが随所にありますね。

真田の土木技術者は、多分、甲州の金山などで働いていた武田の残党でしょう。黒鍬組などという名で歴史物語に登場しますが、穴掘りだけではなく、石組み、櫓立て、大工、左官など建設会社の技術集団ですよね。武田家滅亡後、多くは徳川に抱え込まれましたが、初期に真田と行動を共にしたメンバが、黒鍬の中でもかなり優秀な技術者だったのではないでしょうか。

そうは言っても、彼らを使いこなした幸村のプロジェクトマネージメントの優秀さですね。

3、徳川の対抗策を次々打ち砕いた大鉄砲

かなり歴史オタクのつもりでいる文聞亭にとっても驚きだったのは、大阪茨木市で発見されたという「大鉄砲」でした。

当時の、通常の火縄銃は射程が100mほどです。弾はそれ以上届きますが、鎧を打ち抜き、敵を倒す威力は100m程度だったようです。

一方、真田が使ったという大鉄砲は有効射程が300mあります。実験映像でも300m先の鎧を貫通していました。徳川方にあっては驚きというか、信じられないほどの威力だったでしょうね。明治維新の頃に火縄銃とライフル銃の差に驚いたのと同じか、それ以上の衝撃を感じたでしょう。

徳川軍は数に頼って真田丸に迫りましたが、寺町の狭い通路しか攻め口がありませんから、狙い撃ちの標的です。命中率が7割を越えたら1万5千人が死んでも不思議ではありません。

後世の203高地で機関銃に死人の山を築き、太平洋戦争でのバンザイ突撃で繰り返した死人の山、日本の軍人は全く進歩がありません。

家康はさすがに作戦を変えます。竹束で弾避けし、塹壕(ざんごう)を掘り、更には盛り土の射撃基地を作って反撃の拠点を作ります。が、それも大鉄砲の威力には勝てません。竹束は大鉄砲に打砕かれて防御壁になりません。100m以内に近づけないのです。150m離れた射撃陣地も、大鉄砲に狙い撃ちされます。お手上げですね。ここで遮二無二攻撃を続行しなかった家康は、日露戦争の乃木大将よりは優れた軍人です。真田丸を囲むだけにして、大阪城の本丸に西洋から輸入したばかりの大砲を打ち込む作戦に切り替えます。

真田丸がいかに優れた防衛陣地であっても、20万の兵で囲んでおけば攻撃には討って出られません。真田丸を無視しました。これが、幸村にとっても、大坂方にとっても辛い所でした。

防御はできても反撃ができないのです。

さて、主題の大鉄砲ですが誰が開発したのでしょうか。欧米の真似でないことは確かです。

欧米にはこのような重たくて長い銃身の火縄銃はありません。日本の独自開発です。真田軍、信州上田にそれだけの技術があったのか? 多分、答えはNoでしょう。

この技術は、九度山のある紀州・和歌山で培われた技術ではないか…というのが、文聞亭の推理です。紀州・和歌山は戦国時代には一揆の国でした。つまり有力な領主が治めたのではなく、有力者が相談をして国土を防衛するという間接民主主義のような政治形態です。その首相というか、主将が雑賀孫市で、本願寺と協力し信長、秀吉に徹底して逆らいます。彼らは優れた鉄砲技術者軍団でした。信長も秀吉も苦労させられました。

それもあって、豊臣政権ができると猛烈な弾圧を受けます。山奥に逃げたんでしょうね。

紀州・九度山に押し込められた幸村と接触があっておかしくありません。どちらも政権から危険視された集団なのです。IS同様のテロ集団の扱いだったでしょうね。復活を目指す幸村と、雑賀一族の想い、その彼らが作りだした秘密兵器ではなかったでしょうか。

真田丸の正確な絵図が広島・浅野家に残っていたというのも面白いですね。浅野家は当時の紀州の殿様です。幸村の脱出を見逃したり、雑賀の残党が大阪城に入ったりするのを見逃しています。豊臣家の寧々夫人・北政所の親戚ですから、目立たぬように秀頼にエールを送っていたのかもしれませんし、真田、雑賀などの危険人物を厄介払いしたのかもしれません。