真田丸イントロ 信濃の国(3)

文聞亭笑一

NHK大河ドラマ「真田丸」は1月10日から放映ですね。カレンダーを見たら、1月3日が空になります。年に一度の休日だぁ…と休むのが普通ですが、勤勉性というか、貧乏性というか、これも信州人の気質ですから…書くことにしました。年末繁忙時のお邪魔虫でしょうね。

先号までで真田幸隆(本によれば真田幸綱)の真田家創業について触れましたが、真田の創業と武田の躍進はほぼ同期しています。信玄の陰に真田あり・・・、とでも言いましょうか。信州では信玄贔屓が多く、とりわけ松本を中心とする中信地区や伊那、諏訪方面にはその傾向が強いですね。これは、一つには信玄時代の善政が記憶遺産として残っているからでしょう。

信玄は占領政策として減税をやっています。戦国時代は軍費がかさみますからどうしても増税傾向になります。信州のように、武田と上杉の大勢力が激突した地域ではそれが極端に出ます。鎌倉期から税率は4公6民が普通で、時折 災害対策として5公5民ということがあったりしました。これが戦国の世になると6公4民が普通になり、7公…ひどいケースは8公などもありました。8公というのは記録にある範囲では、朝鮮の役の際に秀吉が(三成が)九州でやった例があります。無茶苦茶ですねぇ。消費税8%と同じ「8」でも意味が違います。強盗です。

信玄は占領地では本領の甲斐よりも税金を安くしました。さらに、馬場美濃守が城代になった松本・安曇地方では、百姓たちの代表に福祉予算として碁石金を与えています。バラまきと言えばそれまでですが、武田贔屓が増えて当然でしょう。

さて、私は故郷を指すのに「信州」を使います。長野県と言いません。これも歴史遺産かもしれませんね。明治維新で「長野」という地名が県名になりましたが、信州、信濃の国の南の方の人たちにはなじみがありません。長野市の辺りは「善光寺平」で、北信濃・北信というのが通り名でした。長野と言われても自分の地域のような気がしないのです。

それはさておき、川中島合戦の話をします。

真田は信濃先方衆の中心として、上杉謙信と真っ向から対決します。そうすることが武田陣営にあって真田の役割なのです。かと言って信濃勢の大将ではありません。大将は、深志城に居て松本、安曇、諏訪、伊那谷の軍勢を率いる馬場美濃と、海津城を預かる高坂弾正です。ここでも参謀ですね。それに徹したところが幸隆、昌幸の2代の我慢強い所で「俺が、俺が」としゃしゃり出ません。「信濃一国の棟梁になりたい」と思ってはいたでしょうが、面に出しません。

川中島の決戦は5回あったと言いますが、大勢力同士のぶつかり合いが5回で、小競り合いの類を含めれば10回以上あったようです。

武田の信濃攻略はもっぱら経済的理由からです。京に軍を進めるための財源が目的です。

一方の上杉謙信は「義」だと言われていますが、現代的に言えば名誉欲、義務感ですねぇ。

なまじ名門・上杉の名跡を継いでしまったために「関東を支配しなくてはならぬ」という義務感から、戦争に次ぐ戦争に没頭することになってしまいました。「我こそは世界の警察官である。民主主義、自由主義、人権尊重の布教者・指導者である」と、世界各地を転戦して歩くアメリカ合衆国の大統領が…謙信に似ています。

何回かの川中島合戦を見ると、戦闘のレベルでは上杉が勝っていますね。しかし支配地の増減を見ると、やる度に武田の版図が増えています。名を取るか実を取るか…?判断の難しい所です。戦争をスポーツとして見れば謙信の勝です。戦争は経済効果の取り合いだと観れば信玄の勝です。長嶋茂雄と土光敏夫が異次元で戦争ゲームをしていたようなものでしょう。

おっと、経済人代表に土光さんを持って来たのは時期が悪かったですねぇ。土光さんの末裔たちの体たらく…まぁ、武田の末裔もそうでしたから良い例かもしれませんけど・・・(笑)

ところで、歴史物には必ず地名が出てきます。この地名が曲者で、現代に残っている地名が少ないのです。地図を見ても分かりません。地方都市などは特にその傾向が強く、銀座の真似をして一丁目、二丁目などと変更してしまい、訳が分からなくなっています。私の故郷の松本も御他聞に漏れず、訳の分からない地名になってしまいました。今年、叔母が百歳を迎えたのですが、私の記憶している昔の地名番地ではお祝いの手紙も出せません。「源池」というのですが、今や・・・中央4丁目だそうです。東京でも馬喰町や御徒町は残っているのに、それが嫌だという住民の声に押されたようですね。後から入ってきて地方文化にイチャモンをつけるイチャモンキーに迎合し過ぎです。「〇〇が丘」などという勝手な名を付ける不動産屋も歴史文化の破壊者です。

真田の活躍した地域には多数の城があります。城と同姓の豪族がいたということです。

小さくて見にくいかもしれませんが、上信国境地帯の戦国地図を添付してみました。【作者引用の地図は、判読できないので添付しません。必要な方は原書で確認ください】

真田が関係した城を中心に描いてありますから、佐久地方や上州北部は詳しく載っています。

老眼の皆さんには視力検査のような地図になり、誠に申し訳ありません。どうしても読みたい場合は、別の紙にコピーして、さらに拡大してご利用ください。

(「大いなる謎 真田一族」 平山優 より引用)

ついでですから、物語が始まる頃、武田勝頼の時代の地図も次ページに載せておきます

この二つを比べてみると1560年から80年にかけて領域の統合が進んだことがよく分かります。平成の大合併にも似て、城(町役場)が無くなり、市役所としての城になっていきます。

城も、山から下りて、政治の中心となる平城が増えてきていますね。

あれこれ書くより地図を眺めていただいた方がドラマの理解が進むかもしれません。

【クリックで拡大できます。】

家康の真田嫌い

真田は3度にわたって家康を苦しめた・・・と云うのが定説ですが、実際は4回です。

一回目は前ページの地図・左隅に「三方が原」があります。上洛を目指す武田信玄を家康が迎え撃ったということになっていますが、実際は家康がおびき出されて惨敗した戦いでした。

武田上洛軍は飯田から天竜川を下り、三州街道を南下します。長篠城、二股城を落とし、浜松城に向かうと見せて素通りし、三方が原に向かいます。これは城攻めを避けて家康を三方が原におびき出そうという作戦でしたが、家康はその罠にまんまとかかってしまいました。この作戦を立案し、囮(おとり)役、家康の誘いだしを引き受けたのが真田昌幸(幸村の父)です。

この戦いで家康軍は完膚なきまでに打ちのめされました。家康は命からがら浜松城に逃げ帰っています。このとき家康の身代わりになって死んだ夏目何某が夏目漱石の先祖だとも言います。ともかく、家康は恐怖のあまり、鞍の上で失禁してしまったという逸話が残るくらいですから、武田騎馬軍団の威力は凄かったのだろうと思います。

これが真田に してやられた1回目です。

2回目は武田の滅亡後、信濃を手に入れた家康が北条と領地交換をやります。北条が駿河方面を明け渡す代わりに、上州を北条に譲るという契約でした。しかし、上州には真田の沼田城があります。これを勝手に北条に譲るという契約に昌幸は徳川臣従をやめ、上杉と組んで敵対します。

神川の合戦ですね。徳川軍はまたしても惨敗し、退却しています。この辺りは「TVドラマ本番の見せ場」の一つでしょう。

3回目は関が原の前夜、中仙道を進む徳川秀忠の軍勢が上田城に足止めされて関ヶ原の合戦に遅刻してしまったという第二次上田合戦です。これまた昌幸・幸村親子の大活躍のシーンです。

そして4回目、大阪城の真田丸に押し寄せた3万を超える徳川軍が、完膚なきまでに叩きのめされ、夏冬の大阪の陣では最大の犠牲者を出してしまいました。さらには、夏の陣で家康の本陣まで攻め込まれて旗印を倒され、命からがら逃げだすという醜態を演じさせられました。

これだけやられたら…憎いでしょうねぇ。嫌いになって当然です。取潰したくなりますよ。

しかし、それをさせなかったのが本多作左衛門、大久保彦左衛門という強面(こわもて)の側近と、本多平八郎です。家康を天狗にさせてはいけない。ましてやその子息たちが権力に奢ってはいけないという配慮で、真田を温存したことが「常在戦場」の緊張感を保持し、260年の長期政権を維持した一つの要因になりました。

本多作左衛門・・・一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ・・・の鬼作左です。

大久保彦左衛門・・・一心太助を子分に、江戸の町衆に好かれた「天下のご意見番」です。

本多平八郎忠勝・・・徳川四天王の一人で、真田信之の義父です。

この3人には家康も無理強いできない弱みがあったようで、それが、真田が明治まで生き残る助けになりました。実戦派、現場派から見れば、真田は良きライバルなのです。

勿論、真田家の江戸期を通じての緊張感は幕府以上です。幕府に言いがかり、イチャモンをつけられないための努力は涙ぐましいほどです。現在の医者や官僚各位がマスコミや野党、それにイチャモンキーという猿に狙われないようにビクビクしているのと同じでしょう。それもあって、戦国期の記録は真田家には残っていません。子孫が、先祖の自慢をすることを警戒したんでしょうね。それだけに・・・、江戸期の偽作家、現代の小説家には、格好の創作テーマでもあります。