六文銭記 1 瘋憐禍惨

文聞亭笑一

いよいよNHK大河ドラマ「真田丸」が始まります。

放映を待ち切れず年末からワクワクしているのは信州人の血が騒ぐからでしょうか。それとも、子供の頃に漫画や講談で知った「真田十勇士」の活躍が鮮やかに甦ってくるからでしょうか。

脚本家・三谷幸喜氏が選んだ題名は大阪城の出丸・「真田丸」ですが、そのクライマックスに至る以前のストーリ、真田一族とそれを支えた集団を語るにはやはり六文銭の旗印でしょう。

幸村(真田信繁)が背負ったこの旗印は、祖父・真田幸隆(幸綱)が創業と同時に掲げたものです。真田の名乗りと六文銭の旗印・・・、この旗と共に物語は展開していきます。物語では主役を一貫して「信繁」で呼ぶようですが、文聞亭は慣れ親しんだ「幸村」で行きます。

第一話から漢字検定のようなタイトルを付けました。読めた方は相当の漢字通だと思います。「ふうりんかざん(風林火山)」のつもりです。どうやら第一話は武田家滅亡と、その混乱の中で真田昌幸一家がいかにして生き延びるか、という重大な危機状態から始まります。甲斐の武田・・・と言えば武田信玄、風林火山の旗印を思い浮かべます。その旗印が…消えていきます。

…という字は瘋癲(ふうてん)と入力しないと出てきません。そうです、フーテンの寅さんの瘋癲です。字の意味は<頭が痛い、あれこれと気が散って答えが出せない>などの意で、精神錯乱などの精神病状態を指します。…は<あわれ>です。<わざわい>、<みじめ>と続けると「迷い悩めど憐(あわれ)なり、禍(わざわい)惨たり」などと読める(?)のではないでしょうか。

父・信玄が作り上げた「風林火山」の軍団と武田王国が、勝頼の代でもろくも「瘋憐禍惨(ふうりんかざん)」に崩れ去ります。そんな武田家滅亡のシーンから始まります。

織田軍侵攻の引き金

天正10年(1582)という年は、日本史上で重要な転機になる年です。大事件続発・・・と云う忙しい年になります。武田家の崩壊が3月、6月には本能寺の変が起きます。パワーバランスと言う点では、大震災級の大揺れが起きます。

それはさておき、織田の武田攻略は、織田と領域を接する木曽義昌の寝返りから始まります。

木曽義昌は武田一門の親類筋で旭将軍・木曽義仲の系譜を引き継ぐ源氏の名門です。にもかかわらず・・・信玄、勝頼から与えられた知行地は木曽谷だけで、1万石ほどしかありません。その他の親族や主要家臣は10万石以上を知行しているのに比べて不満でした。しかも木曽兵は山岳戦にめっぽう強く、戦の度に狩り出されます。財政が立ちいきません。

木曽の財政を潤すのは檜に代表される木曽五木と言われる森林資源ですが、これを金に替えるためには木曽川の水運を使う道しかありません。美濃から尾張へ…この方面にしか販路がないのですが、そこは敵地、織田の支配地です。

寝返りは…経済的理由ですね。いわば必然的に起きたもので、それへの配慮が勝頼政権に欠けていたと言えます。戦争や政変の殆どは、経済的事由から起きるのが人類の歴史です。

木曽義昌だけではありません。駿河を任されていた穴山梅雪が徳川に内通していました。

梅雪は信玄の死後、勝頼と武田の家督を争った仲ですから、武田家中での政権交代を虎視眈々と狙っていました。そのためには…織田・徳川の力を借りようと画策していました。面従腹背、勝頼排除のためなら、なりふり構わず…という政治姿勢です。そうですねぇ、「政権交代」を謳い文句にした選挙で、民主党政権を誕生させた蝦蟇親父のような動きです。

王国崩壊

信玄時代は鉄壁の団結と、孫子の兵法の権化のような戦略で作り上げてきた武田王国でしたが、信玄というカリスマがいなくなると脆さを露呈します。

木曽谷の入り口にあった岩村城は織田の大軍と寝返った木曽勢に囲まれて城を明け渡します。木曽から峠を越えてなだれ込んできた織田軍を見て、飯田城を守っていた武田逍遥軒(信玄の弟)を筆頭に、伊那勢は逃げ出します。唯一抵抗したのが高遠城の仁科信盛(盛信)で、1千の兵で高遠城に籠り、3万の織田信忠(信長の長男)の軍勢に立ち向かいます。

高遠城は切り立った崖の上に築かれた険阻な城ですが、30倍の敵では敵いません。全員玉砕で抵抗しましたが陥落します。この時点で、武田王国は崩壊したとみていいでしょう。高遠城は現在、桜の名所です。赤味が強い高遠小彼岸桜は「仁科勢の血の色だ」とも言い伝えられます。勝頼の実弟・仁科信盛だけが織田に抵抗し、他の親族、家臣は皆、城を捨てて逃げました。

仁科信盛、名は知られていませんが信濃・安曇郡の名門・仁科家に養子に入り、安曇勢をまとめる立場でした。県民歌「信濃の国」には5番で信濃の偉人の一人として出てきます。

新府城

諏訪まで出張ってきていた武田勝頼ですが、木曽、伊那と崩壊していく前線の状況を見ながら野戦を諦め、籠城戦に切り替えます。信玄は「人は石垣、人は城」のポリシーで城は作らなかったのですが、勝頼は真田昌幸に命じて甲信国境に近い韮崎に新府城を築きます。・・・・・・しかし、これはまだ、未完成でした。勢いに乗った織田軍、そして籠城が長引けば駿河経由で侵攻してくる徳川の軍を相手にするには欠点が多すぎました。城の山手側の防衛線が不十分だったのです。

そうなれば…滅亡を避けるには逃げるしかありません。

真田昌幸は自分の城である上州・岩櫃城を提案します。

一方、小山田信茂は甲斐国内・大月の岩殿城を提案します。

岩櫃城(いわびつじょう)

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作者が用意した地図では判読できなかったので、別の地図をネットの【埋もれた古城 岩櫃城】のサイトから引用させていただきます。

真田昌幸が提案した岩櫃城は群馬県 西北部、草津温泉などに近い場所にあります。利根川の源流地方です。

後々、この物語の舞台になる沼田城、名胡桃城なども近くにあります。

真田昌幸がこの地を逃亡先に選んだのは、戦略的に見て、最も自由度が高いからです。

①織田政権から最も遠隔地に当たる

②武田、上杉、北条の交差点、係争地

ここから同盟関係にある上杉、北条に支援を求め、かつ、逃げ散った信濃勢を糾合し再起を計ろうと言うもので、たとえそれが失敗しても越後、会津方面に逃げ出し、新興勢力の伊達政宗と結 ぶことまで視野に入れていたと思われます。信玄孫子学の一番弟子らしい不屈の戦略です。

岩殿城

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こちらは甲斐の国、大月です。

右図、相模、武蔵など北条勢力圏に隣接し、駿河・江尻城には 穴山梅雪が控えています。甲府にも近く「逃げた」という 悪評は受けずに済みます。

ただし、北条が必ず支援に来る…というのが絶対条件で、しかも穴山梅雪の駿河勢が西の守りを固めるというのも条件になります。この条件が崩れたら…まさに袋の鼠、逃げ場がありません。背水の陣とも言えます。

新府城での軍議では、一旦、岩櫃(上州)退却案が決定されました。真田昌幸は受け入れ準備のために先発します。

その留守に…穴山梅雪、小山田信茂などが真田批判を展開し、「新参者の浅知恵を取るか、我ら譜代の言を取るか」と 勝頼に迫ります。

企業経営でも良くある話ですねぇ。新参者やコンサルの斬新的提案を採るか、古参社員の伝統的提案を採るか…、この決断で会社の運命が変わります。この決断は経営者にしかできません。経営者とは…決断をするための人ですからねぇ。

勝頼と 名乗る武田の甲斐なくて 戦に敗けて品のわるさよ

梅雪が徳川に寝返っていることも知らず、決断の失敗で、笹子峠の途中・天目山の露と消えた勝頼を皮肉った江戸時代の狂歌です。次々と家臣に裏切られて滅んでいった勝頼を、あざ笑った江戸の民衆の雰囲気が伝わります。この歌ができた当時は江戸幕府ができて、家康礼賛ムードで一色でしたから勝頼には少々気の毒です。

勝頼を「戦って勝つより逃げた」と嗤い、甲斐の国も失った甲斐性なしと嗤います。

名乗る武田・・・には、風林火山、信玄の後継者を名乗るわりには・・・という皮肉も混じります。

品のわるさは「品の」をしなの・信濃と読み、戦わず逃げ散った信州方面の家臣団のだらしなさを嗤います。信州人としては嬉しくありませんが(笑)、まぁ、よくできた歌ですねぇ。

ちょっと悔しいので、真田三代をたたえた川柳も載せておきます。

三代は どれもいっとく 才智なり

真田三代(幸隆、昌幸、幸村・信幸)を褒めた江戸川柳です。三代のどれも才智という一徳があると褒めていますね。ちなみに、初代幸隆の隠居後の号が「一徳斎」です。

ドラマは真田一族が山梨県の韮崎から、群馬県の吾妻地方に向かっての必死の逃避行から始まります。「逃げろや、逃げろ」…運動量が多そうで、面白そうです。この間、直線でも200km近いのではないでしょうか。山また山の悪路です。女子供を連れて逃げ回る信幸、幸村・・・

猿飛佐助的マタギ、青海入道的・修験者など、プロの山岳ガイドの協力が不可欠です。いわゆる忍者、マタギ筋に信用がなくては逃げきれません。