六文銭記 04 青天の霹靂
文聞亭笑一
今回は真田家が生き延びるか、取潰されるか、のるかそるかの大博奕の場面が中心です。
上杉、北条、織田…三つの選択肢の内「織田に決めた」と決心して乗り込んだのが信長のいる諏訪の法華寺です。この寺は諏訪大社の神宮寺で、神宮寺とは神仏習合の寺を意味します。神様も仏さまも同時に祀ってしまうという、日本的宗教感覚(八百万の神)の寺ですね。信長好みというか、「なんでもあり」ということは「何もない」に通じます。信長はしばらくこの寺に本陣を置き、占領した武田支配下の行政、人事に関して指揮を執っていました。
論考行賞…太平洋戦争における東京裁判と同じで「諏訪裁判」ですよね。諏訪の神様は軍神とも言われていましたから軍事裁判、戦犯裁判という意味では、舞台装置として最適だったかもしれません。旧武田家の家臣は自ら出頭する者、召喚されて赴く者、「ヤバい」と感じて逃げ出す者、様々です。
自ら出頭する者たちは、事前に織田方に寝返った者や、武田方の秘密とされていた情報を手土産代わりに売り込む者など、勝頼政権下で反主流・非主流のものが多く、主流派だった者の足を引っ張る情報などを持ち込みます。こういうことはいつの世でもあることで、不思議でも卑怯でも何でもありません。生きるためには「なりふり構わず」なのです。
そう言う点で、真田昌幸は勝頼政権の主流派で、重役の一人で、上州郡代ですから逃げ場はありません。上杉、北条に工作していることも、信長情報網には把握されていたでしょう。また、真田を悪者にして自分は生き残ろうと画策する者たちが沢山いたでしょうね。こんなことは時代とは関係なしに、人間の醜さというか、したたかさでもあります。我々の生きてきた企業内でも、業界内でも、日常茶飯事です。
日本を悪者にして中国にすり寄ったパクちゃんが、北の水爆で頼りにしていた中国に裏切られ、今度はアメリカに媚を売るようなものです。目先のテクニックに走って筋を曲げた者は、それなりの報いを受けることになります。そんな事例は歴史の随所にありますよね。
徳川家康と真田昌幸の確執
この二人の確執が、今回の物語の底流を流れます。
家康という人は、偏執狂とも言えるほど物事に拘(こだわ)る性格だったようで、執念深かったようで、そのことがまた、250年に亙る精緻(せいち)な幕府体制を築く原動力になったのではないでしょうか。
よく使われる喩えですが「鳴かぬなら…」で始まる信長、秀吉、家康の比較があります。
信長は徹底した旧秩序の破壊者です。革命家です。富国強兵で世界制覇を目指していた??
秀吉は経済重視というか、商業者、流通業者ですね。上手くいきすぎて成金趣味になりました。
家康は保守主義というより復古主義です。歴史と伝統を重視し、古き良き時代に戻そうとしました。お手本は源頼朝の鎌倉幕府の姿です。
真田昌幸は…多分に秀吉的です。秀吉より頭が良い分、重商主義の筋が通っています。
一昨年のドラマの主人公、黒田官兵衛と似たところがありますね。同じタイプでしょう。
ですから、家康と昌幸は目指す方向が違います。性格的にも馬が合いません。いずれどこかで対決せざるを得ない宿命だったかもしれません。
ただ、諏訪での論考行賞の場では…そんなことは、互いにわかっていません。
信長と昌幸
信長と真田昌幸の対面が実際にあったのかどうか、確たる資料はないと思いますが、一度くらいはあったかもしれません。なにせ武田家の重役(郡代として方面軍を任されていた)の一人ですからね。面接もせずに許すことはないでしょう。
信長は人材発掘の名人です。面接で人の才能を見抜く名人です。映画でも小説でも信長の発言と言えば「…であるか」しか出てきませんが、相手にしゃべらせてじっと目を見る…という面接手法だったようです。三谷脚本では、信長に「良き面構えじゃ」とだけ発言させるようですが、まぁ、そんなものでしょう。「合格」の一言です。
昌幸はこの面接で何を話したのか。余り資料がありませんが、多分、「上州を返上する」と宣言したのではないかと推理します。信州・小県の本領に戻り、下知に従うと言ったのではないか?
そのくらいな思い切ったことを言わないと、信長は満足しなかったはずです。事実、沼田城、岩櫃城には滝川一益の軍隊が入り、北条向けの前線基地になっていますからね。そういう欲のなさを信長は好みました。逆に、言い訳を最も嫌いました。言い訳をしたり、ゴマをすったりした者は処刑、または追放されています。そのあたりも昌幸の情報網は把握していたと思います。
光秀折檻
諏訪で、後の本能寺の引き金になるような事件が起きました。有名な「光秀折檻(せっかん)事件」です。
光秀の「ここまで来るのに我々の努力が実って…」という一言が信長の逆鱗(げきりん)に触れます。
なぜ信長が激怒して、公衆の面前で光秀を打擲(ちょうちゃく)したのか。歴史作家の推理の出番として実に面白い所で、多種多様な解釈があります。どれも…もっともらしいのですが、信長にとって信玄以来の武田は最大のライバルであったことは疑う余地もありません。武田打倒のために、信長配下の武将たちは随分と苦労してきました。明智光秀も直接の担当ではありませんが、努力してきたことに間違いはありません。それなのに…なぜ…?
信長が最も苦労した相手は3人います。甲斐の武田、越後の上杉、そして大阪の本願寺です。この三つを結び付けて信長包囲網を画策・構成した真犯人は誰か。 前将軍・足利義昭です。
足利義昭は、現代の朝日新聞社のようなもので…情報をばらまいて信長を悪人に仕立て上げ、連合軍を編成させたり、上洛を促したりとペンの力(手紙作戦)で信長を悩ませました。慰安婦問題、南京大虐殺、靖国問題と同じような、喉に刺さった小骨です。
この「義昭を何とかせよ(つまり殺せ)」という信長の意志を知りながら、京から逃がし、毛利に亡命させた光秀は、努力どころか命令軽視、裏切り行為ではないか…その光秀がしたり顔で「我々の努力が…」などと部下を代表するように発言したのに堪忍袋の緒が切れたのでしょう。
<お前のせいで全国制覇が遅れたというのに、何を偉そうに…>と、感情が爆発したのだと思います。そのことは光秀と信長だけにわかる感情のもつれではなかったのではないでしょうか。だから居並ぶ武将たちも、公家も、あっけにとられたと思いますね。わけが分からない。
この後、信長は光秀に帰京を命じています。さらに、近衛前久など公家にも甲斐から駿河への凱旋行軍の随行を許さず、追い返しています。義昭問題では同罪である・・・との意味があったかもしれません。これに…光秀以上に恐れ戦(おのの)いたのが公家衆でしょうね。天皇の安土遷都、退位して信長寄りの皇太子を即位させることなど、宮廷への要求も厳しさを増していましたからね。
次はわが身か…恐怖におののきます。そうすれば…光秀を焚き付けるしかありませんねぇ。
上州明け渡しから、本能寺の変までこの辺りの展開が、今回は実に早いですね。まあ、真田にとっては雌伏の時ですから目立った活躍はありません。真田昌幸は潔さと、その能力が滝川一益にも気に入られて、東信濃国人衆の元締め的な役割、更には対北条の道案内役を任されます。
滝川が沼田に織田軍の本拠を構えると、上州の旧武田遺臣団は雪崩を打って織田方に寝返ってきます。旧武田ばかりでなく、元から北条方や上杉方についていた武蔵松山の上田、忍城の成田、深谷の上杉、上越国境の長尾までもが滝川一益に寝返ってきます。上州全域、それに北武蔵までもが織田軍団に飲み込まれていきます。順風満帆…滝川一益の関東攻略は兵力を使わずに進んで行きます。真田の出る幕はありません。
本能寺の変を起すまでの光秀の心の動きは歴史小説家の格好の餌食で、多くの小説家が自説を展開します。どれもこれももっともらしく、面白くて、新説が出るたびに読みますが、信長が無防備であった点についてはあまり触れられていません。自信過剰とか、光秀の性格を誤解していた、といった程度ですね。
それに異を唱えるつもりはありませんが、「方針の説明不足」であったことは事実でしょう。光秀は秀吉への援軍として中国出陣、山陰への国替えを「左遷」と受け取った…と小説家は書きますが、信長にしてみればずっと以前に内示済みのこと、と思っていたはずです。
明智光秀には惟(これ)任(とう)日向守、羽柴秀吉には惟(これ)住(ずみ)筑前守と九州の名門の名跡を継がせています。 これは二人して九州を制圧し、その暁には九州の仕置きを二人に与える…という内示でした。
そのために、秀吉は瀬戸内ルートを攻めよ、明智は日本海ルートから攻めよ…ということで、左遷ではありません。むしろ、明智光秀の方がおいしい役割で、山陰の出雲、石見、長門から、九州の筑前、筑後、肥前、肥後、さらに薩摩までが守備範囲になります。一方の秀吉は瀬戸内の管理をする役割から、北四国、安芸、周防、豊前、豊後、日向などの担当になります。
信長の世界制覇の夢が実行段階に移されると、遠征の軍船は瀬戸内ルートと日本海ルートを並行して使うことになります。そうなった時には日本海側にいる方が重要な役割を担います。中国九州の国名を挙げるとき、島国を忘れましたが隠岐、壱岐、対馬が加わります。数で行けば11か国の太守ですよ。秀吉の7か国よりも上です。栄転です。
まぁ、現代でも良くある話で栄転か、左遷か、命令を伝える側と受ける側で思いが反対になります。栄転のつもりで命令した信長に、左遷されたと光秀が恨む…親の心子知らず…などとも言いますね。
不肖文聞亭、信長の立場も、光秀の立場も、共に経験させていただきました。いずれにせよ、転勤というのは古今東西を問わず一家の大事件です。当人だけでなく家族全員の天地がひっくり返ります。仇やおろそかにできません。伝える方も、受け取る方も、勝手に解釈せず確認作業が要りますねぇ。…と口では簡単に言いますが…これがまた難しい。読者の皆さん方も、多かれ少なかれ体験してきたことだと思いますので、余計な講釈は無用ですね。
とにもかくにも本能寺。統一に向かっていた機運が分裂に反転します。天正壬午の乱です。
織田家中はバラバラの思惑に揺れますし、織田勢力に押し込まれて専守防衛に徹していた上杉、北条、長曾我部、毛利、大友、島津などが息を吹き返します。本願寺も勢力復活を狙います。
光秀がそれを読んでいなかったとすれば…衝動的短慮と言われても仕方ありません。
真田丸余話(2) 真田家系図
文聞亭笑一
NHK大河の真田丸を見るうえで、その家族関係を知らないとまごつきます。現代では「家系」などは何の役にも立たず、「家系より家計」の方が大切ですが、その後の・・・徳川幕府250年は 「家系こそ我が命」の時代でもありました。氏素性で人生が左右される時代が来ます。
その名残は現代にも生きていて、憲法第一条に規定される天皇陛下御一家は、氏素性で人生が決定づけられています。これを「羨ましい」ととるか、「気の毒」ととるかはカラスの勝手です。そういう感情論を別にして、私などは現天皇、美智子皇后には感服している一人です。
凄い! とても真似できぬ 降参… という感じですねぇ。
皇室は憲法以下、皇室典範で家系を規定されていますが、現代でも家系の伝統は色濃く残っています。都市部では消えつつありますが、郷土史などで調査にまわると、いまだに本家、分家、そのまた分家と「格式」の差のような雰囲気を味わいます。私の町、町内会は1000世帯ですが、昭和20年には17世帯しかなかったところです。しかも同姓の人が多く、それを区分けするために屋号が定着していました。家系にこだわる雰囲気は…今も肌で感じます。
信州の真田…何者でしょうか? SANADA Who? 実はよく分かっていません。
信州の地は、比較的早くから日本海文化圏として開発されました。諏訪神社を筆頭にする出雲系、大国主命の勢力が縄文期から開拓に入り、海人系の安曇族や、帰化系の秦氏など人々が多く移住した土地柄ではなかったかと…勝手に仮説を立てております。シナノは平安期から「信濃」という字を当てていますが、奈良朝頃は「科野」ではなかったかと思います。地名や、名門と言われる家系に「科」の字が多いのです。仁科、保科、更科、埴科、蓼科、明科、倉科……こういう地名は他の地域には目にすることが少ないのです。「科」シナは「支那=China」に似ています。大陸系の移民がこの地の開拓に回されたのではないか…などと古代ロマンを広げます(笑)
古代文化の中心は出雲、奈良・吉備・大阪・九州であったことは間違いないと思います。
卑弥呼の邪馬台国論争が九州か、近畿かで長年争われていますが私にとってはどちらでも良い西の方の話です。東の方は白山神社系、諏訪神社系、そして三内丸山遺跡などの勢力が、無人の地というか、狩猟民族である日本原人を追いだしながら開拓していたのではないかと思います。三内丸山などは、後の平泉に繋がったのではないか…などと思っています。
1、佐久(さく)は柵(さく)
古代の奈良朝時代、日本国は西日本だけを「日(ひ)出国(いずるくに)」と言っていました。関東、東北は蝦夷の国で、日本ではなかったのです。攘夷…というのは明治維新前後に出てきた言葉ではなく、聖徳太子の頃からの奈良朝の掛け声だったと思います。当時は朝鮮半島からの脅威が迫り、東に手が回らなかったと思いますが、越後―信濃―甲斐―駿河を東の国境線と考えていたようです。
佐久の峠道には大柵を設けて蝦夷の侵入を防いでいたようで、国境の最前線の位置づけです。滋野一族は、その蝦夷防衛軍、大和自衛隊の国境警備に当たる役割ではなかったかと思います。諏訪には鏃の材料になる黒曜石が産出します。滋野一族は広大な草原を使って馬を育て調教します。弓の材料である梓(梓弓)、弓弦になる藤・アケビなども上質な物が手に入ります。
現代の沖縄ですかねぇ。防衛最前線です。帰化人が多いこともあって、理系・技術の知的レベルでは大和地方を越えていたでしょう。各種の工夫がなされ、とりわけ武器や、戦術に関しては先進的であったと思われます。必要は発明の母ですからねぇ。
その伝統を保った一族が海野、根津、望月と3系統に分かれ、佐久の牧を中心に勢力を張っていました。これが滋野(しげの)一族です。
2、滋野一族、海野家の退潮と復活と・・・滅亡
奈良から平安、そして鎌倉から室町へと時代が移ります。千年の時を経て米作の生産量が上がり、経済の中心は米や貨幣になってきます。牧場を営むよりも田畑を開墾し、米・麦といった高カロリーの農産物に転換してきます。さらに、かつて蝦夷と言われていた関東や東北は日本武尊(やまとたけるのみこと)を筆頭に度重なる征服軍の派遣で、既に統一されて、馬の産地も最前線の陸奥・南部方面に移ります。源平物語に義経を世に出した金売り吉次などは、金ばかりでなく東北産の馬商人でもありました。その品質に押されて信州の牧畜業は斜陽になりました。
ところが戦国の世になりました。再度、馬の価値が上がってきました。駿馬一頭は百兵に勝るという通り、佐久の牧が注目されます。滋野一族への注目度が上がります。
・・・ということは、大勢力から「勢力下に置きたい」と狙われます。
滋野牧場は武田、村上、諏訪の連合軍に襲われ、佐久から追い出されて上杉管領家を頼ります
真田幸村の曽祖父・海野棟綱、幸綱(幸隆・祖父)は本領を失い、上州で浪人します。
3、真田の名乗りと六文銭旗
真田幸隆の本名(前名)は海野小次郎です。父に従い上杉管領勢力圏に逃げますが、逃げた先の上杉は斜陽であり、成長株は甲斐の武田でした。父親の信虎を追いだし、家督を奪取した晴信(のちの信玄)の斬新な経営手法に魅力を感じます。幸隆(幸綱)は善光寺の馬商人の手代に化けて諏訪、村上、武田の実力を調査し、武田を選んで就職します。
海野小次郎・・・負け戦の中にあってもひときわ目立って活躍していたことは甲斐の武将たちに認められていました。信玄の方からヘッドハンティングが掛かります。
一方、上杉管領の上州代官である長野業(ながのなり)政(まさ)も幸隆の才能にほれ込んでいました。娘の鶴姫の婿にし、身内に取り込む工作をします。敵対する双方からラブコールを受けるなど、実に羨ましいのですが、それだけの実力があったのでしょう。
ここで幸隆は斜陽の大企業・上杉を蹴って新興企業・武田を選びます。父とは敵味方になります。
海野の名乗りでは、父が属する上杉との関係が紛らわしいと…生まれ在所の真田を名乗ります。更に、旗印も新たに創作します。それが…六文銭旗。
六文銭は三途の川の渡し賃・・・、死ぬ覚悟を表します。
こういう話をしていたら、同級生から「当時の6文は今の値打ちでいくらか」という質問が来ました。渡し賃=バス代、落語の時蕎麦などから一文が30円から80円と仮説を立てましたが、これをI-netで確認してくれた同級生がいます。幅が縮まって30-50円/1文のようです。そうなると200円から300円ですね。はした金です。現代でいえば50円玉を六つ並べた旗印でしょう。要するに、「死ぬ覚悟」を旗印にしたのです。
こういうところに武田信玄が惚れこみました。絶大の信頼です。
武田家は古い家系で、支配層は皆親戚という保守本流のような家柄ですが、信玄は大胆に新規採用をします。原美濃、山本勘助などがそれで、真田幸隆もその一人です。
4、矢沢頼綱
真田幸隆(幸村の祖父)の弟です。この人が陰に日向に真田本家を支えます。
海野家から、同族の矢沢家に養子に入り、海野が敗北した時は寝返って諏訪家に仕官します。
既にこの頃から兄弟が敵味方になるということをしていますね。
兄が真田を名乗り、武田に身を寄せてからは、唯ひたすらに兄の行動をサポートします。甥である昌幸をサポートします。絆の強さというか、兄弟愛というか、矢沢頼綱あっての真田本家というほどの活躍をします。その息子の三十郎がまた、幸村付として活躍しますが、関が原以降は幸村とたもとを分かち、信之について真田本家を守ります。どうやら矢沢家の基本方針は「本家第一」に徹していたようですね。
こういう縁の下の力持ちがいて…スターが生まれます。
最近は「絆」と言う言葉が色褪せてきましが…これこそ日本の伝統文化ではないでしょうか。少なくとも・・・家族、兄弟姉妹の間では大切にしたいですし、子供たちや、孫たちにまで伝えたい文化ですねぇ。しかし、現代は本家相続の伝統と、相続税法とのGapで兄弟喧嘩が続発しています。金の切れ目が縁の切れ目…それが核家族、孤独老人、オレオレ詐欺などの問題を引き起こしています。
「人間とは人の間と書く」 言い古された言葉ですが、役目柄とはいえ孤独老人の面倒を見ているとやるせない気分になりますねぇ。「自ら招いた不幸」にのたうち回る高齢者のなんと多いことか。70歳を過ぎてからでは取り返しがつきません。他人の善意にすがるしかないのですが…手が回りかねます。「身から出た錆ですよ」と言いたいところを喉元で堪(こら)えて、「仲間の所に出ておいで、歌でも歌って気晴らしをしましょうよ」としかアドバイスがありません。それ以上に立ち入ると個人情報保護法に抵触します。この法律・・・天下の悪法ですねぇ。制定目的とは全然違う運用がなされ、多くの孤独老人を生んでいます。早急の改正が必要なのですが…ゴマメの歯ぎしりでしかありません。お役人さまの自己防衛の手段と化していますから、ますますおかしな運用になりそうです。ISのテロでも起きない限り、改正の機運にはならないでしょうね。
オッと…どこか、別口の「たわごと&笑詩千万」の論調になってしまいました。
信濃なる 千曲の川の さざれ石も 君し踏みては 玉と拾わむ(万葉集・詠み人知らず)
古代の恋歌ですが、人が人を想う気持ちを大切にしたいものです。