六文銭記 06 五里霧中

文聞亭笑一

先々週の放映で「光秀折檻」の場面がありました。その時の光秀の衣装が公家風だったのを、不思議に思われた読者の方から質問がありましたので回答しておきます。私はそこまで気が付きませんでしたが、よく見ていましたねぇ。多分、同道していた関白・近衛前久の接待をするために、光秀は公家衣装を着ていた可能性があります。古式、礼式に合わせて「殿上人」として尊んでいたのでしょう。これも「宮廷など糞くらえ。我こそが天下の第一人者である」と考えている信長にはカチンと来ていたでしょうね。

武家の位階、例えば従五位の下・・・などというのは天皇から賜るという建前になっていましたが、信長にしてみれば「俺が決めているのだ」と考えています。事実、位階の認定は、信長の思うが侭に決定されていました。天皇や関白はその儀式を行うだけの祭司・神主に過ぎません。

かつて「俺がルールブックだ」と叫んだアンパイアがいましたが、まさに信長がそれです。

現代風に言えば「価値観の差」でしょうね。宮廷の序列など、信長の念頭にはありません。

信長の衣装を見てもわかります。革靴にマントですからね。

さて、今週ですが、織田軍の地方遠征部隊は敵中に取り残されてしまいました。織田の軍勢は6つの方面軍に分かれています。柴田勝家の北陸軍、滝川一益の関東軍、徳川家康の東海軍、羽柴秀吉の中国軍、丹羽長秀の四国軍、そして明智光秀の畿内軍です。どこかの戦線で不都合が生じたら応援に駆け付ける畿内軍(旗本軍、親衛隊)が反乱を起してしまいましたから、本社からの応援は期待できません。それぞれの部隊(事業部)が孤軍になってしまいました。安全なのは家康の東海軍だけで、その他は孤立無援と言ってもいいでしょう。

滝川一益の場合

軍の大半は上州の沼田城、岩櫃城に居ます。上州、北武蔵の地侍たちは滝川に忠誠を誓っていましたが、信長の死を知るや次々と北条や上杉に寝返ります。「強い方に付く」「勝馬に乗る」のが戦国を生き延びる方便ですから当然の結果です。滝川一益は旧真田の地域を残して、周りの総てを敵に取り囲まれた形になりました。絶好のチャンス…と、北条は当主・氏直が自ら出馬し、上州から信州へと旧武田領の奪取に向けて進撃していきます。

川中島・海津城には友軍の森長可がいたのですが、越後に遠征中でしたから、地侍たちの寝返りで城に戻れなくなっていました。森軍には元・海津城主の高坂信達が従軍していたのですが、この高坂が裏で反乱を煽っていたのです。森を追いだせば労せずして海津城は手に戻りますからね。仕方なく、森長可は本領の美濃に逃げ帰りますが、反乱軍に追い打ちをかけられてかなりの犠牲者を出しています。このことが、後に高坂(春日)家断絶に繋がります。

徳川家康の場合

大阪の堺から伊賀越えをし、伊勢の白子浜から船で三河に渡り、命からがら逃げかえりましたが、上方の情勢がよく分かりません。動くに動けずと言った状態でした。

後に隠密を駆使して密告政治、大警察国家を作る家康ですが、この時点では逃げ帰るのに精いっぱいで、服部半蔵以下の諜報部隊も、家康を無事帰国させることにかかりきりでした。上方の情報までは手が回りません。それに、家康の立場は織田家の家臣ではありません。同盟国です。

ですから信長がいなくなって、後継者が決定していない今こそフリーハンドで自分の立場を強化できます。織田家の後継者争いに首を突っ込んで怪我をするより、自分の足元を固めて、織田から独立するチャンスです。「織田軍団の弱い所を衝いて、自国の領土を広げる」とすれば…・・・狙いは甲州、信州の旧武田領です。すでに、両国とも反乱・混乱が始まっていました。

柴田勝家の不思議

越中にあって魚津城を落とした柴田勝家が、この時期になぜか?動きを見せていません。

上方に引き返しても後ろから追い打ちをかけられる心配はなく、万一そうなったにしても佐々成政の越中軍を殿(しんがり)に置いておけば、上杉の反撃は防げます。後顧の憂いはないはずです。

なぜ「弔い合戦」と上方に向かわなかったのか……戦国武将らしくありません。

想定される理由はただ一つ、「信長死す」の情報を信じなかったことでしょう。「そんな馬鹿なことがあるはずがない」と、頭から情報を拒否してしまったのではないでしょうか。越中・魚津から調査員を派遣して確認したとすれば、どうしても4,5日かかります。

明智光秀の戦略と失敗

光秀は襲撃のことは誰にも知らさず、明智軍だけの単独犯行で成功させました。これは当然で、「敵を欺くには先ず味方を欺け」味方すら老の坂で「敵は本能寺にあり」と初めて聞いたのです。信長を倒してしまえば…あとは意のままになると確信していたと思います。

犯行声明とも言うべき光秀の使者は、味方を募る形で丹後の細川、大和の筒井に飛びます。

また秀吉を足止めさせるべく毛利へ、滝川を足止めさせるべく北条へ、柴田を足止めすべく上杉へ、更に四国に向かう丹羽長秀を動けないようにと長宗我部や紀州の雑賀党に走ったでしょう。

これがうまく伝わっていれば、明智光秀のクーデターは成功するはずだったのですが、最大の蹉跌(さてつ)は細川幽(ゆう)斎(さい)が動かなかったことでしょうね。このことが光秀をそそのかした近衛前(このえさき)久(ひさ)を弱気にさせて、朝廷から征夷大将軍の辞令が出ませんでした。官軍の錦の御旗が出なかったのです。

細川幽斎は天皇の歌道の師匠です。天皇からは絶大な信頼を受けていました。

次に、毛利への使者が捕捉されて情報が遅れたことでしょう。足止めするはずの秀吉が想定外の速さで畿内に舞い戻り、丹羽長秀の四国遠征軍と合流してしまったのです。丹羽軍には信長の3男・信孝という御曹司(おんぞうし)がいましたから「弔(とむら)い合戦」という大義名分を与えてしまいました。

北条氏政・氏直の行動

北条には滝川一益よりも早く情報が届いていたようですね。乱後の動きが早いのです。

明智の使者が東海道を走ったのでしょう。徳川家康は帰国していませんし、穴山梅雪は既に殺害されてこの世にいません。岐阜の織田信孝も大阪に出陣して不在です。誰も妨げる者がいませんから、明智の使者は最短距離で走れました。

北条としては千載(せんざい)一遇(いちぐう)のチャンスです。上州どころか北武蔵まで織田に寝返ってしまい倒産の危機であったものが、一転してチャンス到来です。一旦織田方に寝返った者たちに情報を伝え、再度味方するように説得すれば、失った旧領は次々と手に入ります。残るは滝川が本陣を置いている沼田、岩櫃の旧真田領だけです。真田とて、条件次第で味方になる可能性が高いですから、滝川本隊だけ潰してしまえば上州どころか信州まで、あわよくば甲州も手に入ります。そうなれば、明智と手を組んで東は北条、西は明智と天下を二分することもできます。一旦は裏切った者たちにも「手柄を立てれば許す」と手形を切れば、続々と兵は集まってきます。

イケイケドンドン…北上を開始します。

真田の選択肢

真田は信長軍団の一員ではありますが、独立勢力ではありません。滝川一益の属将、つまり、部下です。家族を人質として沼田城内に置いていますから滝川と手を切るわけにはいきません。

下の図は、第7話か8話の頃の動きですが、今回はその前夜です。

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徳川はまだ動いていません。

上杉も動いていません。

北条が北関東に向けて失地回復の動きを始めたところです。

この図を敢えて持って来たのは、真田の勢力圏がどの程度かを見ていただくためです。

長野県の小県郡(中心は上田市)

群馬県の吾妻郡(中心は岩櫃城)と利根郡(中心は沼田城)

僅かこの3郡でしかありません。地図では大きく見えますが、大半が山岳地帯で耕作地と言えば上田界隈(かいわい)と沼田界隈で、あとは谷合(たにあい)の小さな村がある程度ですね。経済規模としては…5万石ほどもなかったでしょう。弱小勢力に過ぎません。

甲信争奪戦は先ず北条が動き、次に徳川が動き、遅れて上杉が参入するという順番ですね。

真田にとっての第一関門は、滝川一益とどう付き合うかです。一益が単独で北条、上杉、更に南から来る家康に揉まれて生き残る保証はありません。それは一益の本拠地が伊勢、伊賀方面なのです。上州、信州は占領地であって、生活の根拠地ではありません。いずれ本国に引き上げるであろうことは目に見えていますが、かと言って反旗を翻せば人質になっている者たちの命はありません。面従腹背でチャンスを待つしかありませんね。

・・・と、ここまで書いてから第5話の放送を見ました。三谷脚本らしい喜劇仕立てですが・・・、あながち間違いとは言えません。日本全国が皆、うろたえていましたねぇ。

この先どうなるのか……先読みの出来る者などいません。

それにしても、真田昌幸役の草刈正雄・・・良い役者になりましたねぇ。前回の大河では草刈が幸村で、昌幸役は丹波哲郎でした。「いぶし銀」の雰囲気が出てきました。目下の主役です。

安土の繁栄した都市映像と信州の大自然・・・この対比も面白いと思いました。これを「格差だ」と騒ぐのも一理、「どちらも豊かだ」と思うのも一理。観方の問題です。

     次号に続く