六文銭記41 大阪城の魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)

文聞亭笑一

先週号では信繁(幸村)の九度山脱出、大阪入城を中心に書きましたが、ちょっとフライングでした。脱出劇は今週のようですね。予告編を見る限り…「真田十勇士」の村民泥酔説をとるようです。しかしこれは明らかな虚構で、九度山村周辺、および高野山の僧兵が、名前の分かっているだけで10人は幸村の大阪入城に従っていますし、真田丸の戦で手柄を挙げた者もいます。更に・・・冬の陣の後、幸村の正室や娘たちを匿うために学(よみ)文(じ)村の庄屋・平野某は大阪城から和歌山まで護衛をしています。村を挙げて「監視役の浅野を騙した」というのが真実でしょう。

戦後、逃亡ほう助の追及を受けた時に、言い訳として「泥酔説」を唱えたわけで、村人たちが自己防衛のために口裏を合わせたようです。浅野家もそういう事実を知っていたようですが・・・深く追及していません。やはり…、どこかで豊臣贔屓の気持ちが働いていたんでしょうね。

なにせ、浅野家は秀吉の正室・寧々の妹の家ですからね。徳川より豊臣に想いが残ります。豊臣恩顧の大名は、いずれも大坂の陣では消極的戦闘参加になっていました。幸村の兄・信之は病気を理由に息子たちを参戦させています。多分、仮病でしょう。

浅野家の場合は嫌々出陣したのですが、大阪に向かう途中で豊臣方の塙(はなわ)団衛門、大野道犬に攻撃されて、しかたなし自己防衛のために戦い、団衛門を討ち取る手柄を立てました。

福島正則の場合は、大阪の蔵屋敷から大量の兵糧を大阪城に送り込んでいます。しかし、これの細工が雑で、徳川に漏れ、正則本人は江戸留守居役に回されます。その後も幕府から目の敵にされて改易の憂き目を見ています。黒田、加藤も江戸留守居です。

上杉、細川なども同類ですね。お付き合いで出陣しますが、一所懸命には戦っていません。

直参と陪臣(ばいしん)

九度山に明石全登(てるずみ)と片桐且元が迎えに出向くストーリになっていました。登場人物を減らすためか、回想シーンにリアリティーを出すための細工でしたね。二人とも九度山には出向いていません。九度山に幸村を迎えに行ったのは速水甲斐守守久です。

速水甲斐は豊臣の旗本・七手組の筆頭で、いわば秀頼の親衛隊長です。さらに、千姫の守役をしていますから、浪人・新参の明石全登や脱走者の片桐且元よりも格上です。さらに、片桐且元が出奔した後は、且元の代わりとして徳川との交渉に当たっています。後の話になりますが…、炎上する大阪城から千姫を守って脱出させたのも速水甲斐なのです。これからの物語の展開では重要人物なのですが、なぜか割愛してしまいましたね。

明石全登という人ですが、宇喜多家の家老だった人です。家老と言っても、秀吉から10万石の大名として認められていましたから、上杉家の直江兼続や、石田家の島左近同様の立場です。徳川期に書かれた文書は直参旗本の不満を解消すべく、陪臣を貶(おとし)める立場をとります。陪臣とは大名の家臣のことで、将軍の直属ではないという意味です。つまり、10万石の陪臣よりも百石の直参旗本の方が偉い…と言う価値観です。地方公務員より国家公務員の方が偉い、民間より官僚の方が偉い…という現代の価値観に通じるところもありますねぇ。

明石全登は敬虔な切支丹でした。その縁で多くの信者や、10万石大名時代の旧部下を呼び集めていましたから、大阪城の中では大勢力を持つ一人です。秀吉時代の位でいえば長曾我部盛親に次ぐ地位であったと言えます。

大阪城は寄せ集めの急造組織ですから、この辺りが難しい人事でしたね。

旧大名系でいえば、元・土佐20万石の長曾我部盛親が筆頭で、10万石の明石、2万石の毛利勝永、1,9万石の真田、1,5万石の石川康勝、1万石の後藤又兵衛といった序列です。

一方の旗本は官僚派というか、側近としての大野三兄弟(治長、治房、治胤(道犬))が淀君の虎の威を借りで采配を振るいます。さらに、秀頼の小姓達のまとめ役が木村重成です。

その一方で、速水甲斐以下の旗本親衛隊、七手組もいます。

寄せ集めの臨時組織ですから、指揮命令系統などは「ない」に等しかったでしょう。秀頼、淀君の権威を笠に、大野治房、治胤、それに木村重成などが若気の至りでかき回します。人数だけは10万人を数えますが、内部はバラバラと言うのが大阪城の実態でした。

幸村もそう言う混迷の中に入っていきますから、さぞかし大変だったでしょうね。先ずは自分の立ち位置を決めるのにあれこれと考えあぐねたと思います。先週の放映で幸村が「行くか、行かざるべきか」と大いに悩みましたが、実際は・・・大阪入城は即決したうえで、いかにして九度山を脱出するか、大阪入城後に「誰と組むか」で悩んだ方が深刻だったと思います。

この辺り、さすがは三谷脚本と感心しましたが、前回の場面は若者や女性には大変好評だったようですね。「仕事をとるか、家庭をとるか」と言う現代人の悩みに近いですから…。

大野三兄弟

大坂の陣で主導的な役割を果たすことになる三人ですが、いずれも茶々、淀君の乳母・大蔵卿局の息子です。大蔵卿局は浅井家に仕えていた時代に、茶々の乳母になりました。三男の治胤が生まれた直後ではないでしょうか。乳母の第一条件は、母乳が良く出ることです。家柄や亭主の地位、賢さなどはその次のことで、ともかく40年近く茶々と一心同体の生活を続けてきました。

長男の治長・・・秀頼が秀吉の子でないとすれば治長ではないか…奴は茶々の待男(まおとこ)に違いない、などと言われるほどに茶々に近侍してきました。当然、秀吉や三成とも近い関係で、それなりの政治的、官僚的才能があったと思われます。茶々との間に何かあったとしたら、勘の鋭い秀吉や洞察力の優れた三成が見逃すはずがありません。そう考えれば茶々の待男であった可能性は低いですねぇ。この話も、茶々が「ふしだらで好色な女であった」と貶めるための、江戸期のでっち上げの匂いがします。

治長は関ヶ原の戦では東軍の立場で参加しています。家康の馬廻りとして控えていました。

このとき、島津が敵中突破で家康の本陣を攻撃しますが、真っ先に逃げたなどという話もあります。どうも武芸は苦手だったようで、それも女(おんな)誑し(たらし)のイメージに繋がったのでしょう。

次男の治房はパッとしませんが、周辺の話、けしかけに乗りやすいタイプだったようで、片桐且元の暗殺計画、兄の治長の暗殺未遂などに手を貸したという話が残ります。

三男の治胤(道犬)は、色々な人の小説を読む限り共通するのは「目立ちたがり屋」だったようです。「俺が、俺が…」で、大阪城は俺で持っている・・・くらいな気でいたようです。結局、大坂方はこの男の勝手な軍事行動で、戦略、戦術の齟齬(そご)をきたすことになります。幸村にとっては実に邪魔な存在ではなかったかと、同情すら湧きますねぇ。浪人衆の中でも後藤又兵衛や塙団衛門と言った豪傑タイプも、それに似ていました。目立ちたがり屋です。

大野三兄弟の最大の失敗は、茶々の2人の叔父(織田常信、有楽斎)や、小幡勘(か)解(げ)由(ゆ)のような徳川のスパイを見抜けなかったことでしょう。冬の陣の講和の後、彼らは一斉に大阪城から逐電しますが、逃げられてから大騒ぎをしています。秀頼、茶々に近侍しているものが手もなく騙されていますから、大阪城の機密は100%家康に漏れていましたね。

優柔不断な長男、誰かに使嗾(しそう)されたらすぐやる鳩山さんみたいな次男、目立ちたがり屋の三男、こういう感じなのが・・・大野三兄弟だったと思われます。

そう考えると、徳川から求められていた「淀君を江戸に人質に出す」と言う提案を飲むべきでしたねぇ。淀、大蔵卿、大野三兄弟がいなければ、大坂の陣はなかったか、それとももっと面白くなったような気がしますが・・・歴史にIFはありません。

ちなみに、先週の番組で片桐且元が「徳川の3条件はすべて自分で考えた」と自白したのは、嘘だと思います。本多正純が示唆し、それを隠すために片桐が泥をかぶったというのが正しいようで、大坂の陣の後に片桐家は本多正純の推挙で加増されています。

大阪城に集まった浪人たち

大坂方の呼びかけに、瞬く間に10万人が集まったという話ですが、本当でしょうか。

幕府軍は20万人が動員されています。それに対して大坂方は贔屓目に見ても1万程度の正規軍しかいません。七手組と言うのが旗本部隊ですが、約7000人です。勝ち目がないのは明白で、死に出かけるようなものです。ISなどのように宗教心に凝り固まってしまえば、死を怖れなくなるのでしょうが、集まった浪人たちは豊臣恩顧、秀吉信者ばかりではありません。ならば、一攫千金の賭博師か?・・・どうやら、その傾向が強かったようですね。

関が原以降、多くの大名家が取潰しになりました。大久保長安事件で改易になった家もたくさんあります。多くの武士が失業し、浪人となって都市部に流れ込んでいました。とりわけ、京、大阪には多くの失業者がその日暮しの生活をしています。事実、土佐20万石の大名だった長曾我部盛親ですら、私塾を開いて子供に手習いを教え、生計を賄っていましたし、後藤又兵衛などは乞食同然の物乞いをしていたと言います。大名クラスですらこのありさまでしたから、一般職と言うかヒラ侍は喰うにすら困っていたでしょうね。借金地獄にあえいでいたと思います。

そこへ、大阪から就職情報が入ります。しかも破格の高給・好条件です。

大名クラスの幸村には金2百枚、銀30貫です。金一枚は慶長大判でしょうから現在の20万円から50万円でしょうか。5千万円から1億円ほどになりますね。そうなれば、侍クラスでも1~2千万、足軽でも500万円が「先払い」で貰えます。こんなおいしい話はありません。

借金を返して、身なりを整えて、勇躍大阪城の門をくぐります。彼らにはそれまでの戦の経験があります。<負けそうになったら、逃げる>と言うのが戦場の知恵です。案外、気楽に集まったのではないでしょうか。ただ、籠城戦の経験者は少なかったと思いますね。籠城となれば逃げるチャンスはありません。集まった者たちは、野戦を期待したと思います。籠城では勝はない、当然、大坂方は野戦をするだろうと考えていたでしょう。中には、「戦う前に逃げてやろう」と考えていた者もいたでしょうね。

話は飛びますが、戦後の残党狩りは熾烈を極めたと言います。もしかすると、治安対策よりも残党の持つ「金が目当て」の捜索だったかもしれません。いつの世も世知辛いですからね。

(次号に続く)