六文銭記 21 後北条の事情

文聞亭笑一

想定外の展開になりました(笑) 今週はいよいよ小田原攻めか・・・と、既に#22は書き終えていたのですが、一週先延ばしですね。

さて、沼田問題で御前会議が開かれることになり、三者三様の主張を展開する場面が来るとは…、随分と現代風にしましたね。しかもイスとテーブルの席を準備したところも面白い!

イスとテーブルを導入し、南蛮風を好んだのは信長ですが、秀吉も好奇心旺盛ですからベッドなどは早くから使っていたようですが、イスとテーブルの会議までやったかどうか…まぁ、 ありうる話ではあります。田舎者を驚かせて悦に入る…というのは秀吉のスタイルでもありました。黄金の茶室の仕掛けなどがその典型例です。

しかし、この場面はちょっと変です。出席者が「代理」ばかりですよね。こういう席に秀吉自らが出席するということは考えられません。関白太政大臣になってからの秀吉は、かなり尊大になってきていて「支配者の権威」を振り回します。代理、名代になどは会わず、重要な場 合にも秀次を代理として会せるか、石田三成が名代として謁見します。その報告を聞いて・・・裁定するというパターンでしたから、テレビのような場面があったとしたら異例中の異例です。

ただ、「なかった」という記録もありませんから、あったのかもしれません。三方一両損・・・と云うのは、後の大岡政談のお話ですが、沼田裁定も同様です。この点については前回触れましたので割愛します。秀吉にとっては腹の痛まぬ話で、この裁定に三者が従うにせよ、従わぬにせよ、北条に対して和・戦両様の構えです。むしろ、家康に踏絵を踏ませる ような機会ですから決裂した方が好都合だったかもしれません。

後北条家 氏政の実像

今回の物語では、真田家が主役ですから後北条家は敵役・悪役として描かれます。まぁ…そう言うもので、物語はそうでなくては面白くありません。現存する歴史資料でも氏政は凡人、氏直は直情型の愚人として描かれたものが多いのですが、私のように神奈川県人、武蔵の国の住人として郷土史的に資料を読むと、そうではない事実がいくつか出てきます。アホ、バカ、 マヌケのままではちょっと悔しいので、弁護してみます。

小田原攻めの話は、勝った方の秀吉が太閤記で自慢しますし、さらに、北条の後に関東に入った家康が徹底的に悪く書かせています。それはそうでしょうね。前号に書いた通り初代・早雲、3代目の氏康は名君として関東では圧倒的に人気が高かったのです。我々が新しい職場を任された時もそうですが…前任者の人気が高いというのは、後任にとってやりにくくて仕方あり ません。前任者のあら捜しをしてでも、評判を落としたくなる気持ちになります。

前号で述べた通り、北条人気の最大のものは税制でした。しかし、氏政の時代になると戦争が続きます。親の氏康を越えたい…という思いが強かった氏政は、親を越える領土拡大を狙います。この点、親を越えようと無理をして滅んだ武田勝頼にも似てきます。親が偉大過ぎると、息子が無理をして…結果が悪い方に向かうというのも歴史の教訓の一つでしょうか。

氏政の功績は、東部戦線で上総、下総を完全に抑え、安房の里見を亡ぼしていますね。南総里見八犬伝に出てくる里見家です。更に、常陸の佐竹を圧迫し、霞ケ浦北岸地帯まで占領しています。北に向かっては下野(栃木県)の佐野、宇都宮を圧迫し、南半分を占拠しています。上野も沼田領を残して制覇しました。領土拡大は、先代の氏康同様に実績を挙げているのですが、 ともかく戦線が多方面に拡大しています。金が要って仕方がありません。収入増には増税路線しかありませんね。年貢の取り立て比率を上げ、運上金を要求し、借金を踏み倒し…評判は落 ちます。これはまさに滅びの方程式で、洋の東西を問わず、殆んどの権力機構が崩壊していくストーリです。

上洛要請に氏政の思惑

親北条の説によれば、氏政は秀吉からの上洛要請に「いずれは応じる」と考えていたようです。応じ方を色々と模索しました。

①上杉、徳川型臣従方式

家康からはこの方式を勧められますが、それでは仲介者の家康に借りができます。

先に臣従して秀吉と親密な関係にある上杉、佐竹、真田などの敵対勢力の目下に就けられるリスクがあります。上杉や徳川より上位でないとプライドが許しません。

なおかつ、家康上洛に際しては、秀吉が旭姫、最後は母親までも人質に出しています。それなのに、北条に対しては一切そういう働きかけがありません。家康より軽く見られた ・・・と云うのでは沽券にかかわります。

②長曾我部、島津型方式

この二つの勢力も最終的には秀吉に臣従していますが、戦った後の臣従です。能力、実力を見せた上での臣従ですから、武家・武人の名誉は保てます。

①の方式で上洛した場合、相模、武蔵は確保できてもそれ以外の領土は召し上げられる恐れがあります。氏政自身が拡大させた領域(上野、下野、常陸、安房など)は間違いなく取り上げら れそうです。真田、佐竹や宇都宮が、早くから秀吉に提訴し、係争地になっていますから…条件的に不利です。②の方式でいっても相模、伊豆、武蔵の三国は保持できるのではないか・・・こ んな読みをしていたように思います。

いずれにせよ、先ずは家康同等の条件を勝ち取った上での上洛、さらには室町風の関東管領のような立場を獲得したかったのだと思います。沼田問題はその小手調べのようなものでした 。

氏政の兄弟たち

氏政には多くの弟がいます。氏照、氏邦、氏規…いずれも父・氏康の薫陶よろしきを得て優秀でした。氏照は武蔵鉢形城にあって、上州から信越方面を担当します。

氏邦は八王子城にあって南武蔵と甲斐方面を睨みます。そして氏規が韮山城にあって伊豆から駿河を睨みます。これに氏政の息子・氏直が加わって5人の集団指導体制のような形態です。

小田原の北条と言えば「小田原評定」が有名で、答えのでない会議を延々と続けることを揶揄する言葉になり、現代にまで伝わっていますが、合議制は後北条家の伝統です。重要事項は 弟たちに相談して決める、ある意味で民主的な政権運営です。

小田原評定を言うのに現代では「降伏時の会議」を言うと定義されているのですが、それ以前から使われていた言葉でもありました。全会一致を旨とした会議ですから、お互いが納得す るまで延々と続きます。通達のための会議、報告だけの会議、シャンシャン総会とは違います 。だから…どうしても時間が掛かります。

それはさておき、豊臣臣従問題では兄弟の意見が分かれます。徹底抗戦派の氏照がいて、恭順派の氏規がいて、他の3人は中間派。落としどころが難しい会議ですねぇ。

恭順派だった氏規は、戦後・氏直と共に高野山に流罪になりますが、氏直の死後に、許されて 河内の国・狭山で大名として復活します。狭山藩1,1万石として復帰し、明治まで家名が残り ました。伊豆韮山が持ち城ですから、家康や秀吉との交流があっての措置でしょうね。

小田原にこだわった氏政

ところで、関八州に覇を残した北条ですが、なぜか最後まで関東平野の西の端、小田原から動きませんでした。信長は清州から岐阜、そして安土へと拠点を移していきました。秀吉も長 浜から姫路、そして大阪からさらに聚楽第へと移ります。そして家康も岡崎から浜松、駿府、さらに江戸へと拠点を動かします。政治、政策の中心へと拠点は動かすのが普通なのですが、 後北条は百年近い間小田原に固執します。

これは、成功体験のなせる業でしたね。戦国最強と謳われた武田信玄、上杉謙信の両雄から攻められても撃退した小田原の地形と城の縄張りへの自信と愛着がそうさせたのでしょう。

ただ、一度だけ、氏政は江戸への移転を考えた時期がありました。信長が倒れた直後、西からの脅威が無くなって佐竹や宇都宮を攻めようと考えた時です。ただ、この時は家康の信州侵 攻があって、そちらに気を取られている間に立ち消えになりました。結局、小田原から動くこ となく領国の端から指令を出す形になりました。進取の精神には欠けていたのかもしれませんね。

鎌倉街道 (小田原は地図の左下隅)

この図は鎌倉時代に「いざ!鎌倉」と東国武士たちが鎌倉に駆けつけた頃の「高速道路」地図です。戦国時代も関東の主要軍事道路であったであろうと思われます。北条方の主要な軍事拠 点はこの鎌倉街道に沿って配置されています。

上道…上信越道

中道・・・東北道

下道・・・常磐道 と言ったところでしょうか。

実は、この下道(下つ道)が私の住む町を通り抜けています。青線が多摩川の手前で曲がっている あたりです。やはり、軍事拠点ですね。北条方の中田加賀守が守る矢上城という城がありまし た。現在は城の痕跡は跡形もなく、慶応大学の工学部校舎や矢上小学校が建っています。そし て道の反対側には加瀬山という小高い丘が控えていて、谷間を通り抜ける形ですから平野を駆 け抜けてきた軍勢が関所で止められるような地形ですね。加瀬山の上には北条が建立した天照 皇大神宮と熊野神社がありますが、これは兵士たちを控えさせるための軍事基地です。双方で 数千の兵を置くことができそうです。

ただ、北条征伐では、それが城として機能した痕跡はありません。

(次号に続く)