六文銭記 16 猿と狸

文聞亭笑一

家康の豊臣臣従で局面は大きく転換しました。秀吉の天下が信長の終盤と同様に日本の中央部を抑えてしまった格好になります。こうなれば真田も豊臣につかざるを得ません。

とはいえ、一旦は「真田討伐令」を出した秀吉の本意が読めません。さらには、秀吉方についたとはいえ、家康が真田を憎んでいることは明白です。上田合戦で徳川は大恥をかかされましたからねぇ。

また、沼田城の周りには北条軍が取り巻いています。秀吉の命令に従って、うかつに昌幸が城を空ければ、北条が沼田城に総攻撃をかけることも予想されます。

一方の家康ですが、こちらも秀吉からの上洛要請に悩んでいました。「秀吉に臣従する」とはしたものの、北条との同盟は生きています。さらに上洛したところを「秀吉に暗殺される危惧」は拭えません。とりわけ古参のご意見番・本多作左衛門が上洛に猛反対しています。

今回のドラマに登場するかどうか・・・わかりませんが、本多作左衛門について触れておきます。

本多作左衛門は「鬼作左」と呼ばれた徳川家創業以来の豪勇の侍で、戦陣にあっては常に家康の傍に控えていました。今風に言えばSP、近衛師団長ですね。口の悪いのも有名で、何かにつけ家康を叱り飛ばしていたようです。家康の初代・ご意見番です。作左衛門が隠居した後のご意見番が大久保彦左衛門ですが、この頃はまだ大久保党のNo3で小諸城の守備に当たっています。

後に、本多作左衛門が国許に出した手紙が、有名な「日本一短い手紙」です。

「一筆啓上 火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」として有名になりました。

今でも作左衛門の居城だった越前・丸岡では「日本一短い手紙コンテスト」が盛んです。

余談ついでに、この手紙の意味は「住民が反乱を起こさぬよう、民政に十二分に目配りせよ。

一人息子の仙千代を文武両道で鍛えよ。いつ戦があっても出動できるように軍備を怠るな」という意味です。勿論、これは関が原戦の後に書かれた手紙です。

作左衛門は、家康の上洛に猛反対しただけでなく、家康が上洛中にその人質として秀吉が派遣した秀吉・生母のなか、そして家康の正妻になった旭姫の屋敷の周りに山のように芝や枯れ草を積み、「やったらやりかえす」と秀吉を脅迫しています。豊臣の母妹はこれが相当怖かったらしく、帰洛後に再三秀吉に、作左の処罰を要求していますね。しかし、これは実行されませんでした。秀吉もそこまでの強権は発動できなかったようで、秀吉と家康の力関係は微妙なバランスの上に成り立っていたことが想像できます。形の上では臣従ですが、実態は「同盟関係」というところでしょうか。やはり…家康の背後にいる北条との関係を警戒していたものと思われます。

「北条を倒さない限り、家康を傘下にはできない」と考えていたようです。

さて真田。 家康が上洛してしまっては秀吉の上洛命令には逆らえません。選択肢、駆け引きの材料が無くなりました。そうなれば・・・秀吉の懐に飛び込んで「愛い奴」になる道しかありません。やると決めたら、昌幸はその路線に邁進します。その折に「上田合戦で徳川に勝利した」という勲章は最大に利用したでしょうね。秀吉は小牧・長久手の戦で家康軍に実質的に敗戦していますから、徳川に圧力というか、精神的に優位に立つためにも真田には利用価値がありました。人質として大阪城にとどめている信繁を可愛がることで、徳川に勝手な行動をさせないようにと牽制しています。

信繁が重宝されたのは確かで、人質というよりは側小姓のような形で、秀吉の近くにいたことは間違いありません。

東国に対する戦略面での相談に与(あずか)ることもあったようです。

これは、急成長して人材不足の豊臣家のお家事情も関係していました。秀吉の参謀と言えば、黒田官兵衛と、実弟の秀長ですが、どちらも東日本には縁がありません。かといって、家康には心を許せません。豊臣に臣従したと上洛した後も、北条との安保条約は破棄していないのです。家康を相談相手にするのは危険と思っていましたね。

この辺り、狐と狸の化かし合いです。いや、猿関白殿下ですから、猿と狸の騙し合いです。

そこに…真田狐が絡みます。虚々実々、・・・まぁ、政治とはそんなものでしょう。

徳川の動きに、事情通として石川数正がいるのですが、こちらもイマイチ信用できません。

元々が徳川の重鎮でしたし、大阪に来てからも石田三成と上手く行っていないのです。

それというのも、秀吉が数正に約束した「10万石」をめぐり、ごたごたしていたからです。数正にあてがわれた領地は和泉国、河内国などにまたがる地域でしたが、この地域は奈良や京都の寺社領が複雑に入り組んでいて、線引きが難しいのです。新領主が赴任したからと言って、おいそれとは従いません。住民にとっては寺社領の方が好都合なのです。武士の管理となれば兵役がかけられますが、寺社領であれば、それはよほどのことがない限りありません。年貢さえ払っておけば、兵役や土木工事などへの動員が免除されます。一種の安全地帯なのです。特区ですね。ですから…土地の事情に詳しくない余所者・石川数正を誤魔化して、寺社領だと主張します。

一方、三成以下の豊臣内務担当も、大阪周辺の複雑な権利関係が良く分かっていません。この辺りでしょうね。石田三成が太閤検地を始めるきっかけは…。京都、奈良の周辺は歴史が古いだけに、権利義務の関係が輻輳していたのでしょう。

それに・・・測量する「モノサシ」も統一されていませんでした。それを統一したのは三成の功績ですが、長さの単位を古代尺よりも5%ほど短く決めました。1間=190cm強だったものを182cmにしています。長さの単位が5%短くなれば、面積は10%ほど狭くなります。

三成と秀吉が共謀した錬金術ですねぇ。間接的増税です。日本の国土が一割増える勘定です。(笑)農民にとってはとんだ増税ですねぇ。

信繁が秀吉のそば近くにいた頃、付き合いの多くは内務官僚たちでした。加藤清正や福島正則といった荒小姓は、それぞれ独立して軍団長に出世しています。豊臣親衛隊の軍人ですから政治にはあまり参画させてもらえません。黒田官兵衛すら遠ざけられる傾向にあって、千利休や石田三成が官房長官の役割をしています。

それもあって、信繁の付き合いは石田治部、大谷刑部、小西幸長などの官僚たちが中心です。このメンバーは秀吉が家康を別格扱いしていることに不満で、その反動として、上田合戦で徳川に勝利した真田信繁をヒーロー扱いします。自分らの仲間として特別に扱われたのでしょう。

さて、秀吉の仲裁で徳川と真田は和睦します。懸案の沼田問題は棚上げですね。秀吉は「沼田は真田と北条の問題であって、徳川は関係ない」という立場を取ります。その上で真田を、改めて徳川の与力大名にします。つまり、組織上は家康の部下ということになります。昌幸にとっては不満だったでしょうが「しばらく様子見だ」という感じでしょうか。

この間にも秀吉は近畿周辺での軍事行動を続けています。紀州・和歌山以南で抵抗していた雑賀孫市を棟梁とする反乱軍を追い立てます。秀吉軍の圧倒的な軍事力に、雑賀勢は紀伊の山奥に逃げ込んで逼塞するしかありませんでした。

四国では、黒田官兵衛の戦略のもとに、淡路島から仙石権兵衛を中心にした秀長軍、秀次軍が攻め込みます。阿波、讃岐を占領し、伊予での戦いが決戦になりました。長曾我部軍も良く戦いましたが、人数と、火力に勝る豊臣軍にじわじわと追い込まれ、ついには「土佐国・一国安堵」の条件で和睦します。実質的には降参でした。

土佐軍は実に精悍で、個人技に長けていましたが、戦力差の最大のものは「馬」でした。土佐馬は日本原産種に近い馬で、足が短く、その分だけ鞍の位置が低く、騎馬戦では相手側に上から攻撃されてしまうのです。鞍の高さが50㎝ほど低かったようですね。馬は、奈良朝の遣唐使の頃からアラブ種が輸入され、信濃、陸奥などの牧で増産されていました。混血種を含めて本州から九州まで馬格が向上していたのですが、土佐にまでは届いていなかったようです。

余談になりますが、四国攻めで活躍した仙石権兵衛は後に小諸城主になります。そして真田信幸が松代に移封になると、その後の上田城主になります。更に、但馬の出石に移封になるのですが、権兵衛もその子孫も信州の蕎麦が気に入って、蕎麦職人を大量に出石に移住させています。出石蕎麦と信州蕎麦、・・・ルーツが同じです。同様のことは保科正之が会津に移封の時に、高遠の蕎麦職人を連れて行っています。大名の転勤で、各地の生活文化が新しい土地に根付くというのも面白いものです。江戸期の俳人・小林一茶が

信濃では 月と仏と おらが蕎麦

と、ふるさと自慢をしましたが、姥捨ての田毎の月、善光寺と並んで蕎麦が出てくるというのも面白いですねぇ。自然、文化、風俗とそれぞれを並べたところが、俳人・一茶の真骨頂かもしれません。

今週は余談ばかりですが(笑)信州蕎麦と一口に言っても、地域によって味が違います。戸隠、善光寺などは濃い味の出汁に漬けて食べます。典型は「やぶ蕎麦」

松本、安曇などは薄味のたれになります。所によっては温かな汁につけて、汁ごと食べますね。山菜などを薬味として入れて食べるのも南信州系の食べ方でしょう。盛岡方面の「わんこそば」にも似ていますかね。まぁ、信州に旅したら、あちこち食べ歩いてみてください。

今週は大阪における信繁の人脈作りがテーマの一つでしょう。とりわけ大谷刑部との付き合いが密接になっていくと思われます。後に、信繁の正室になる竹林院との出会いがあるかもしれません。竹林院は出家してからの名前ですが、俗名は何といったか記録がありません。記録のないものに勝手に名を付けるのは作家の勝手です。何と名を付けるか?

当然、信濃からついてきたきりとの確執があります。きりが二番目の妻(側室)ですから揉めるでしょうね。そういう人間関係を書かせたら三谷脚本は超一流、得意とする所でしょう。

現代娘が戦国にワープしたようなきりさんですから、痴話喧嘩を含めてドタバタでしょうねぇ。これに「日本一のおかみさん」と形容される秀吉の正室・寧々さんが絡み、田舎の婆さん、秀吉生母のなかさんも絡むでしょう。かつての大河ドラマ「女太閤記」の再現かもしれません。

信繁が茶々を口説いて、秀吉の側室にする役回りを仰せつかる、そんな展開があるかもしれませんが、まぁ見てのお楽しみです。 

(次号に続く)