六文銭記 13 上田合戦

文聞亭笑一

今回は、この物語の前半で最大の見せ場・合戦シーンです。最近のNHK大河はコスト削減で手抜きが多く、エキストラを大量に使う場面を省略しますが迫力が出ませんよね。両軍合わせて1万人が、武器を持って命がけで上田という狭い町の中で戦うのですから、CGなどの画像で誤魔化してほしくないところです。まぁ、今回は「最新のCGを駆使して…」というのがNHKの謳い文句ですから、お手並み拝見でもあります。

真田昌幸は考えられるすべての方策を使って、罠(わな)を仕掛けます。小が大に勝つには万全の準備をして相手を罠に導くしかありません。そのためには徹底した情報管制が必要です。罠のありかが敵に知られたら万事休すで、罠を破壊され数の力に圧倒されてしまいます。

情報管制…言うは易く、これほど難しいものはありません。敵を欺くには先ず味方を欺け・・・と、孫子の兵法以下、兵学・戦略書は伝えますが、味方の中でも中枢の者たちは情報を共通していなくてはならないのです。どこまでの、誰が…中枢なのか。これは組織論ではありません。

組織内の人間関係というか、個々人の性格(口の固さ)というか、トップと部隊リーダの信頼関係が試される場面でもあります。

上田合戦で真田昌幸が立てた作戦は実に複雑、複雑怪奇でした。敵の動き方、時間軸、天候、その他、外部条件が変われば即座にフォーメーションを変えて、順番の変更、部隊の配置を変えなくてはなりません。胃が痛くなるような、繊細な指揮が必要になります。

こういう場面、これに似た場面、つまり会社や組織の危機は、現代の企業活動でも往々にして出てくる場面ですから、読者の皆様は多かれ少なかれ体験していると思いますが、誰に、どこまで情報を開示しておくかは実に微妙ですね。開示し過ぎれば「内部告発」などで騒ぎになりますし、秘密が多すぎれば作戦が遅れ遅れになり、時機を逸します。「腹心」「刎頚之(ふんけいの)友(とも)」などと言う人脈がどれだけあるか・・・に、成否がかかります。

真田の強みは、組織が小さいことでした。主だった者たちは皆、気心の知れた者たちです。

死なば諸共・・・という心意気の人材が多数いたことでしょうね。チームワークが良かったのです。そうなったのも、一つは昌幸のカリスマ性であり、もう一つは信幸、信繁兄弟が広く領民たちと交流していたからだと思います。それに加えて祖父・真田幸隆の善政が寄与していたのでしょう。さもないと、農兵は指示通り集まりませんし、動きません。

徳川軍の陣立

徳川家康は鳥居元忠を総大将に大久保忠世、平岩親吉などの宿老格を中心にした7千の軍勢を上田に差し向けます。この顔触れの中に、徳川四天王と言われた酒井、本多、榊原、井伊などの名は見えません。戦上手の精鋭部隊ではない、古参の重役が中心の編成です。

鳥居元忠

・・・家康が駿河の今川に人質になっていた時代からの、家康にとっての兄貴分です。ここらで一つ、手柄を立てさせてやりたい・・・といった心遣いでしょうか。

大久保忠世

・・・家康にとっては煙たい存在です。人質時代に徳川家が生き残ったのは大久保党の忠節があったからで、徳川創業期の初期の戦闘では獅子奮迅(ししふんじん)の働きをしています。忠世の弟・忠(ただ)佐(すけ)、彦左衛門も従軍し、彦左衛門の書いた「三河物語」が上田軍記のネタ本になっています。他に記録がない・・・とも言えます。

平岩親吉

・・・鳥居元忠同様に駿府人質時代からの腹心、弟分です。家康にとっては最も気を許せる部下ですが、好人物に過ぎて政治も軍事もイマイチの人ですね。

3人が3人、駿府時代・岡崎城時代の功臣であり、四天王や本多正信を中核とする浜松城での政権スタッフではありません。「元・大臣」「長老」の顔ぶれです。

これが油断であったのか? 真田を甘く見過ぎていたのか?

そうではないと思いますね。「真田は取り巻いて、ジワジワ圧力をかければ自滅する」と踏んで血気盛んな者たちを外したのだと思います。ですから、家康の思惑通りに行けば、上田合戦の戦闘は起こらなかったのです。真田の罠には掛からなかったのです。

両軍の配置

適当な古地図、合戦図が見当たりませんでしたので現代地図を持ちだしました。

千曲川、神川とも現在は治水され、川幅が狭くなっていますが、当時は現在の2倍以上の河川敷を有していたと思われますし、かなり蛇行していた可能性もあります。

徳川軍

それに、上田城の足元を洗っていた「尼が淵」という千曲川の分流は消えています。多分、現在JRの鉄道が走るあたりではなかったか・・・と水色に塗ってみました。

南から千曲川を越えて攻撃するのは大河がありますから得策ではありません。東から攻めることになります。

牧野隊のフライング≪青田刈り≫

戦争は、先ず砥石城攻めから始まります。ここには真田方の真田信之が詰めています。かつて武田信玄ですら落とせなかった山城ですから、徳川方も総攻め(総攻撃)は仕掛けません。取り巻いて、動きを封じます。これを抑えておかないと、後ろから攻撃される恐れがあるからです。その意味で砥石城は絶妙の位置にありますね。

そして、攻撃軍の本隊は神川の手前に陣を敷き、上田城を圧迫します。先遣隊が川を渡って大物見(威力偵察)に出ます。牧野隊がその役割を担当します。

閏8月(現在の9月下旬)です。稲穂が実る時期です。「青田刈り」というのは田を荒らして城内の兵を怒らせ、戦場におびき出す戦国期の常套手段ですが、これは遠征軍にとっては兵糧が確保できるため、一石二鳥の戦術です。敵が出てくれば叩く、出て来なければ食料を十分に手に入れることができます。

真田は出てきました。・・・といっても堀田佐久兵衛たち農民兵です。

牧野隊は、本来は逃げなくてはいけません。おびき寄せて一気に叩き、敵が応援に駆け付けるのを大軍で囲み、城に逃げ帰るのを追いかけて、そのまま城門になだれ込む・・・というのが戦の定石です。

ところが、敵兵は武装もお粗末、武器も旧式な物ばかり・・・これなら追い払えると攻撃を仕掛けてしまいました。農民兵は逃げてはまた引き返し、石つぶてや弓矢で攻撃してきます。

牧野隊はこれに怒って突撃を始めてしまいました。すると今度は山に隠れていた真田の伏兵が出てきて、横から攻撃を加えますから堪りません。牧野隊は全滅の危機に陥ってしまいました。「見捨てるわけにはいかぬ」鳥居隊、平岩隊といった主力が一斉に神川を渡って総攻撃に入りました。農民兵は山に逃げ込みます。真田の騎馬兵は城下に逃げます。それを徳川軍が追う。

真田昌幸が仕掛けた罠に、まんまとはまりました。

狭い城下に、大量の兵士たちが押し合いへし合い充満します。そこを見計らって昌幸率いる本隊が総攻撃を仕掛けますから徳川軍は大混乱に陥ります。

一旦、本陣まで引き上げて体勢を立て直そうと、神川を越えようとしたところに、突然の大洪水が襲います。これは、出浦の率いる乱破部隊が、貯めてあった堰を切ったために起こした人工的洪水で、川に人が充満したところを狙って堰を切りますから命中率が非常に高い。それも一度だけではありません。水が退いた・・・と渡ろうとするとまた襲ってきます。前は水、後ろは真田の騎馬兵、徳川軍は千人近い犠牲者を出します。

本陣に戻ってホッとしている所に、今度は砥石城から真田信幸の軍勢が襲い掛かります。

徳川軍は小諸城目指してチリジリになって退却するしかありませんでした。

この辺りをどう映像化しますかねぇ。楽しみです。

余談になりますが、この戦いで大失策を演じた牧野家はその責任を咎(とが)められ、部隊長クラスの地位から降格処分になります。しかし、関が原、大坂の陣などで手柄を重ねて大名家に復活し、老中などを務めています。幕末の維新戦争では長岡藩10万石が幕府軍として官軍と戦います。小諸藩二万石も牧野家でしたね。

また、この戦に参加した大久保彦左衛門は「三河物語」の中で鳥居、平岩などの指揮のまずさを徹底的にこきおろしています。上田合戦の記録は、この三河物語の記述がベースで、池波正太郎も、その他の作家も、その殆どがその記録に倣います。

戦のありさまを克明に記録できたということは・・・彦左衛門をはじめとする大久保隊は高みの見物をしていたということで、戦闘にほとんど参加しなかったということでもあります。

3千近い主力の一つが参加していなければ地の利のある真田3000vs徳川4000の戦です。まぁ、敗けて当然でしょうね。

彦左衛門は「味方を救出し、殿(しんがり)を務めて無事小諸に退却できたのは、大久保党の手柄だ」と威張っていますが、真田兵は海野宿までしか追い討ちをかけていません。殿(しんがり)の必要がなかったのです。ともかくこの時の徳川軍は「逃げろや、逃げろ」の敗残兵でした。1000人近い戦死者の殆どが「洪水による溺死」ですから、その恐怖感もわかります。

昌幸、信幸、信繁の活躍はTVでお楽しみいただくとして、私などは徳川遠征軍の編成のまずさの方に興味が引かれます。現代でも良くあることで、意思疎通を欠いた集団が「ビジネス」とか、「選挙」とかいう戦いをします。こういう集団では勝てませんよね。

(次号に続く)