六文銭記 10 兄弟仁義

文聞亭笑一

先週は北条と徳川の和睦が成立したというところで終わりました。

この和睦の背景は、まず

北条にとって、兵站(へいたん)の補給路が確保できなくなったこと

徳川にとって、西の秀吉の動きが気がかりなこと

によります。

家康の本拠地は三河・遠江・駿河の三国で拠点は浜松城です。その西、尾張には信長の遺児・次男の織田信(のぶ)雄(かつ)がいて、美濃には三男の信孝がいます。そのさらに西には山﨑の合戦で明智光秀を討ち、清須会議で後継者・三法師の名代となって、破竹の勢いの秀吉がいます。

戦力を東に偏らせていたら、秀吉が奇襲攻撃を掛けて来た時に対応できません。北条との決着は早くつけたかったのです。そこに、北条からの和平提案、停戦協定の提案ですから渡りに舟ですね。和解の条件は3つでした。

① 北条は占領していた甲斐・都留郡(つるぐん)と信濃・佐久郡を徳川にひきわたす。

② 徳川は上野を北条の領地と認め、真田が占拠している沼田と吾妻郡(あがつまぐん)を引き渡す。

③ 北条氏直の正室に家康の長女・督姫(とくひめ)を輿入れさせ(人質を出す)、攻守同盟を結ぶ。

どうみても徳川が有利の条件ですが、北条としても長く伸びた戦線を維持するのに体力、財力の限界だったのでしょう。それに・・・常陸の佐竹、下野の宇都宮や佐野といった勢力が、北関東の北条圏を蚕食し始めています。信濃を奪う前に尻に火が付いた状況が発生しました。甲斐でにらみ合いをしている場合ではないのです。

それはそうでしょうね。2万もの軍隊を動員していたら治安部隊は手薄になります。2万人の中に含まれるのかどうかわかりませんが、戦闘員が2万人とすれば、補給や工事人足などの支援部隊が1万人くらいは必要になります。

沼田、岩櫃を北条に引き渡す代わりに、家康が真田昌幸に提示したのは、諏訪郡の領有と甲斐の内で2千貫分の領地でした。これなら釣り合っておつりがくるのですが、和睦が成立し、北条の脅威が消えると…約束した領地が惜しくなります。戦争中に発行した約束手形を、空手形に変えたくなります。 まぁ、こんなものですよ、世の中は。

折しも、アメリカの大統領選挙・予備選が行われていますが、国務長官時代に「TPPを実現するのだ」と声高に叫んでいたクリントン・オバサンが、「票のためなら仁義はいらぬ」とばかりに「TPP反対」に鞍替えしています。要するに「釣り上げた魚に餌はいらぬ」と約束を反故(ほご)にするのが戦中・戦後の常套(じょうとう)手段ですねぇ。通信のプロバイダーも、営業の謳い文句と、契約してからのサービスは違いますしね。

家康が強気になったもう一つの理由は、真田と徳川の契約の証人・保証人の依田信蕃(よだのぶしげ)がいなくなったこともあります。真田への恩賞の約束はすべて依田信蕃が仲介していました。とりわけ諏訪郡については「家康から依田に渡す」それを、「依田がそっくり真田に渡す」という契約でした。

依田は死んだから渡さない。だから真田が文句を言う筋合いはない…こういう理屈です。

そればかりではなく、諏訪氏にも「寝返れば本領安堵」の手形を発行していましたしね。戦時中の約束事はおおむねそんなもので、領土が二倍、三倍に膨れ上がります。後の大坂夏の陣で、家康は真田幸村に「信濃で10万石」の手形を切りますが、これも同じことです。

上田築城

真田昌幸は家康の「沼田・岩櫃を引き渡せ」という要求を無視します。

戦国時代の約束事は「手柄次第」というのが常識でした。つまり、領土として認めるから実力で勝ち取れという意味です。沼田城、岩櫃城の場合は「北条が実力で真田から奪いに来るのに、徳川は真田に援軍を出さない」という意味です。都留郡の場合も同じで「北条は協力しないから徳川が勝手にやれ」という意味です。ですから、真田が家康の要求を無視して交戦しても、家康が真田を罰することはしません。

家康も多少は心に咎(とが)めるところがあったのでしょうか。「上杉勢の脅威に対抗すべく上田城を作りたい」という昌幸の要望には、支援の兵と人足を出してきます。領地を取り上げたお詫びに工事人足程度は支援しよう…という感じでしょうね。

上田城の位置は千曲川がかつて蛇行、分流していた時代に土を削り取った崖、河岸段丘の上に位置します。武田の新府城同様に削り取られた崖が石垣代わりになります。この地は尼が淵と呼ばれ、海人淵とも書きます。ともかく、一方は天然の要害に守られています。ここに真田昌幸が山本勘助から指導された築城技術で、城を作ります。

現代人は、城と言えば「天守閣を中心とした建物」を想定してしまいますが、城とは軍事要塞ですから建物よりは石垣や堀、土塁といった土木構造物の方が重要です。抜け穴、塹壕といった城内の通行路こそ重要で、敵の目に触れぬように戦力の移動ができる構造が必要なのです。この設計を「縄張り」と言い、名城と言われる大阪城は黒田官兵衛が縄張りし、その唯一の欠点であった天王寺方面に、真田幸村が「真田丸」を築いて、鉄壁の城を完成させました。

上田城も、大阪城ほどではありませんが、軍事要塞としての機能は十二分に備えた城でした。城としての必要条件はすべて満たした形で「徳川の城」を作りました。それはそうです。作業に当たるのは徳川の者たちですから、徳川にはバレバレです。その城で徳川を相手に戦って完璧な勝利を挙げるのですから、後に大改造を加えたのは容易に想定されます。

この時の上田城は常識的な縄張りの、普通の城だったと思います。むしろ、山本勘助の手法ではなく、徳川的な手法で設計されたのかもしれません。第一次、第二次上田合戦で、徳川勢が真田の、思うが侭に操られたのは、<上田城は俺たちが作った城、隅々まで知っている>という思い込みが、昌幸、幸村に利用されたのではないでしょうか。天正壬午の乱の時点で、徳川の支援で作った上田城と、後の上田城は、その内部構造が似ても似つかぬ構造であったと思います。

現在の上田城、真田時代の戦略性を消し去った構造になっています。徳川の世になってから、「憎っくき真田」の痕跡を消すべく大改修が行われています。大阪城同様に「反徳川」のシンボルのような構造物ですからねぇ。消したかったでしょう。

矢沢頼綱の奮戦

この当時、沼田城を守っていたのは昌幸の叔父、矢沢頼綱でした。

この人は兄・真田幸綱に協力し、武田軍団の一員として真田の上州攻略の先頭に立ち血のにじむ苦労をしてきた人です。沼田城には甥の昌幸以上の思い入れがあります。「この城を北条に譲るようなことがあったら兄・幸綱に申し訳が立たぬ。死んでも死に切れぬ」というほどの執着があります。その点では昌幸以上のこだわりがありました。

真田丸余話(2)で紹介しましたが、真田家の家系図を見てください。

家系図

この硬骨漢の叔父が、断固として沼田城の北条への明け渡しを拒否します。

北条は徳川との和睦条件を楯に開城を要求しますが、頑として拒否します。そうなれば当然、戦争ですねぇ。北条は西上野の勢力を束ねて沼田城を包囲します。

包囲しますが、一斉攻撃には掛かれません。真田も攻略に苦労しましたが、難攻不落の地形に建つ山城なのです。総攻めを指示して上州の部下たちに犠牲を強いると、その反動も心配になります。それというのも、北条勢力圏の周辺では今回の北条氏直の「敗北的和睦」に「北条衰えたり」と見る勢力が蠢動(しゅんどう)しつつありました。常陸の佐竹氏がその筆頭で、霞が浦周辺で北条の領地を犯し始めています。下野の宇都宮氏も佐竹の動きと連動し、南下を始めました。

北条としては吾妻、沼田を獲ることより、既存領土の守備に勢力が必要になりました。従って、沼田城を囲んだものの、うかつには動けないのです。ただ、手をこまねいていたわけではありません。上田―真田―岩櫃―沼田という真田の生命線を斬る活動を活発にし、岩櫃・沼田間の中山城を攻略しました。これで補給路と連絡路が途絶えます。兵糧攻め、持久戦になれば、耐えきれません。ましてや徳川の援軍は望めないのです。徳川は上州に手を出さないと約束しています。

情報合戦

情報というと、通信網を使った近代的なイメージを思い起こしがちですが、噂、嘘、デマも、情報です。むしろ、一般大衆にはその種の情報の方が早く、確実に、広範囲に広がります。

前掲の真田系図を見てください。海野一族には根津、望月などという白山神社系の一族がいます。根津には「ののう」と呼ばれる歩き巫女の組織があり、彼女らは全国を布教に歩きながら情報の伝達役を務めます。真田物の小説には必ず彼女らが「謎の女」として登場しますが、歌舞伎の原型と言われる出雲(いずもの)阿国(おくに)と似た行動をしていた集団です。噂、デマを触れまわるには格好の役者ですねぇ。真田がこの情報網を使ったのは間違いないでしょう。

気が付いた人がいるかもしれませんが、真田屋敷の囲炉裏端で昌幸が戦略の相談をしている時、その後ろの床の間に「白山大権現」の掛け軸が掛かっています。これは滋野一族の守り神です。後に徳川幕府は白山信仰を冷遇しますが、それも「真田憎し」の表れかもしれませんねぇ。

ともかく、上杉を使い、佐竹や宇都宮を使い、北条を噂で脅します。沼田城に総攻めをさせず時を稼ぎます。昌幸が仕掛けたか、頼綱が仕掛けたか…。いずれにしても強(したた)かな一族です。

(次号に続く)