六文銭記 09 信濃の国人

文聞亭笑一

上杉、北条、徳川・・・三つ巴の信濃争奪戦と、その狭間で生き残りを策す真田昌幸。虚々実々の駆け引きですねぇ、面白くなってきました。狐と狸の化かし合いなどと云いますが、後に狸親父と異名を取った家康も、真田の動きには翻弄されます。家康が狸親父ぶりを発揮するのは秀吉と対決してからで、この頃はマジメというか…正攻法が多かったようです。外交や多数派工作よりも、実力主義の戦を好んだようで、それを必死に止めていたのが本多正信でした。

真田に化かされ、秀吉に化かされ、幾多の失敗体験の中から「化かし方」を学んだ・・・というのが家康の成長の過程だと思います。

ところで・・・、前回の放送で、上杉景勝が怒りのあまり春日信達を磔にした場面がありました。

結果論ではありますが、これは失策でしたね。裏切り者はこうなる・・・と云う見せしめですが、信濃の国人たちにとっては「上杉の峻厳(しゅんげん)さは怖い」という恐怖心を植え付けました。一度足を踏み入れたら抜けられなくなる・・・そう、ヤクザの世界のような、陰湿な恐怖を感じ取りました。

その典型が、上杉の支援で深志城に復帰した小笠原貞種です。上杉への恩義よりも保身に走ります。会田の岩下、筑北の青柳などの中信濃の国人たちも、元々が真田同様の滋野一族であることもあって、気持ちが上杉から離れてしまいました。「見せしめ」をすることによって、彼らが北条、徳川、真田などの誘いに乗りやすい環境を作ってしまったことになります。

それに、もう一つ大きな損失は「武田信玄の遺産」とも言うべき甲陽軍鑑をわざわざ徳川の手に追いやってしまったことです。甲陽軍鑑は信玄の哲学、政治思想、兵学など戦国期の国家論を記した貴重な教科書です。信玄が口述したものを高坂弾正(信達の父)が記録し、弾正自身の考察も付け加えたもので、後に徳川軍団の治世の中核に置かれました。さらに江戸時代に入ってからは幕府の「綱領」とも言うべき基本方針になっていきます。

その遺稿を持ち、編集作業をしていた小幡官兵衛は上杉の苛烈さに恐れをなして逃げ出してしまいました。結果的には家康の所に逃げ込みましたから、敵に塩を送ったことになります。父の謙信は敵の信玄に塩を贈り、息子の景勝は敵の家康に「書」を贈りました。無欲、清廉、スポーツマンシップと言えばカッコいいですが、経営という点では、特許権の無償解放みたいなもので自社の経営を苦しくしてしまいました。トロンの特許を取らず技術解放した東大教授と同様に、崇高な、立派な行為なのかもしれません。ただ、それを応用してボロ儲けをする者が現れますので「立派」だけでは済まないのが、現代のビジネス環境に似た戦国の世です。

さて、その上杉ですが、越後の内乱は再度勢いを盛り返していました。新発田重家・・・謙信時代の軍団長の一人でしたが、謙信の跡目相続で争った「御舘の乱」で景虎派につきました。景虎は北条氏政の弟です。新発田は信長の死で大人しくしていましたが、「北条が出てきたのなら…チャンス」とばかり攻勢をかけます。北条が上杉の追撃を気にせず甲斐に向かえたのは、そのあたりの情報が飛び交っていたからでしょう。北条にも「風魔」という忍者集団がいます。

氏名(うじなお)をも 流しに(に)ける(げる)な筑摩川 瀬よりも早く落つる北条

上杉景勝の参謀・直江兼続が持ちだした狂歌です。その他にもあります。

臆病の 氏名(うじな)を(お)流すあほう(ほう)ぜう(じょう) 逃げてその身の 品(しな)の(信濃)悪さよ

浮名(うじな)を(お)も 流して恥をさらしな(更級)の 月かげかつ(景勝)の色に勝れる

ともかくも、北条軍は甲州に向けて「転進」します。小田原からすれば甲州の方が近いですから、川中島地方より甲斐の方が重要でしょう。当然と言えば当然です。八王子から小仏峠を越えれば大月に近いですし、相模から三増峠を越えればこれまた至近距離です。

不思議なのは北条軍がこの二つのルートから攻め込まなかったことです。佐久から氏直の本隊が南下し、武蔵口、相模口から小田原部隊が北上して攻め込めば徳川軍は袋の鼠、富士川沿いを駿河に逃げ帰るしかなかったと思いますが…なぜか別動隊が機能していません。勢力の大半を、氏直本隊が使ってしまっていたのでしょうか。それとも家康を甘く見ていたのか。

何となく…後者でしょうね。家康は三方が原の戦でも信玄に甘く見られて生き延びていますが、今回も北条に舐められて、甲斐、信濃を手に入れることになります。

新府城での対決

第一話ででてきた韮崎の新府城が、今度は家康の拠点として再登場します。家康にとっては、信長が進軍した際につぶさに点検してあった城ですから、勝手知ったる他人の家です。しかも、この城は名軍師・山本勘助が目を着け、真田昌幸が縄張り・奉行した城ですから、山側の欠点を補強すれば難攻不落の要塞です。いかに大軍をもって攻め寄せても容易に落ちる城ではありません。持久戦に持ち込まれれば、大軍である北条の補給路が長い分だけ不利になります。それに・・・なぜか大月ルートの援軍がないのです。一方の家康軍は、富士川ルートの補給路はありますし、もし北条が大月に進出すれば、その隙に御殿場から足柄越えで小田原を急襲できます。

これでしょうかね。北条軍が大月、つまり都留(つる)郡に進出できなかったのは…。空き巣狙いをやられるのが怖くて…、挟み撃ち作戦ができなかったのかもしれません。

徳川とのつなぎ・依田信蕃(よだのぶしげ)

今回は登場しないかもしれませんが…、徳川と真田の間に立って仲介をするのが佐久の国人・依田信蕃です。この人は武田時代から真田とは同僚であり、ライバルでもありました。南佐久を根拠にし、信玄、勝頼の軍旅には常に一方の将として参加しています。有名なのは武田勝頼が、織田鉄砲隊に惨敗した長篠の戦で、彼は武田の前進基地・二股(ふたまた)城を守っていました。勝頼の本隊が撤退した後も、敵中に孤立しながら頑として開城せず、徳川をてこずらせます。その後、勝頼、家康の交渉が成立し、一兵も損なわず駿府・田中城に引き上げています。

信長が武田を滅亡させた時も、最後まで田中城に立て籠もり、徳川に寝返った穴山梅雪の説得で、ようやく佐久の本拠地・春日城に引き上げるという硬骨漢です。

ですから徳川家とは敵同士という形で親交がありました。家康や徳川の重臣たちとは互いに認め合う良きライバル関係にありました。ですから北条が佐久に侵攻してきても尻尾を振りません。蓼科山麓の三沢小屋に逃げ込んで、反北条の立場を貫きます。これを徳川が見逃すはずはなく、兵糧の支援を始め、信濃勢調略の足掛かりにします。かなり重要な役回りをする人物なのですが…今回のドラマでは取り上げていませんね。出浦、室賀というところに信濃国人を代表させていますが、天正壬午の乱では依田こそが徳川の大功労者です。

それもあって、徳川が信濃平定に成功すると、関東との交通の要衝小諸城の城主になります。

が、佐久平定戦の最中に戦死、その子の信幸も戦死し、孫の竹福丸が松平家に引き取られ成人します。成人後は松平泰国と名乗り、徳川親藩の一つとして上州・藤岡の城主になります。

今回は家康と昌幸のつなぎを真田信尹(のぶただ)がやったことにしていますが、信尹よりも依田信蕃の活躍の方が光ります。ただ、すぐに死んで歴史から消えてしまいますので、物語的に言うとチョイ役ですねぇ。紛らわしさを避けるのと、ギャラを惜しんだのかもしれません(笑)

昌幸は徳川につくにあたり、依田信蕃の立籠もる三沢小屋を訪ねて密談しています。

東京オリンピックで活躍した陸上・短距離の依田郁子さん、この一族だと思われます。

碓氷峠封鎖

孫子は「兵は行軍なり」とも言い、兵站(へいたん)、すなわちロジスティックスの重要性を随所で述べています。13章ある孫子の兵法の中に行軍篇という項目を設け、武器・弾薬・兵糧の補給には、十二分な支度をせよと繰り返し述べています。

太平洋戦争の負け戦などはまさにその反面教師で、「勝った、勝った、又勝った」と言いつつも補給路は伸びに延び、この生命線とも言うべき制海権を失ったミッドウエー海戦以後は、敗けるべくして敗けた戦いでした。

北条も全く同じです。すぐ近くの甲斐を攻めるのに、小田原から相模、武蔵、上州、信濃を遠回りして補給路を作るのですから、戦略知らずのそしりを受けても仕方がありません。

やはり、成り行きのままに戦争に入ると手詰まりになりますねぇ。

真田にしても、徳川に寝返るにあたっては手土産が要ります。最も華々しいのは小諸城、内山城などの北条方の城を落としてしまうことですが、城攻めには敵の5倍ほどの人数と犠牲を覚悟しなくてはなりません。せっかく落城させても、味方の被害が大きく、体力を消耗していれば、土産が豪華でも報酬は足元を見られてしまいます。義理、人情など通用しないのが戦国で、現代のビジネス環境と変わりありません。

最少投資で最大効果・・・ROIのMaximizesを狙うのなら碓氷峠封鎖は最適です。とりわけ兵糧などの重量物の輸送隊は一石二鳥です。殆どが兵士ではなく、近在から徴用された百姓です。更に、分捕った兵糧は自分らの兵糧になります。急坂でしかも狭い登り道…守りようがありませんねぇ。山の中から矢を射かけ、鉄砲を打ち込めば百姓たちは蜘蛛の子を散らして逃げ出します。守備兵も…山を駆け下って逃げるしかないでしょう。

北条軍は2万の大軍です。さらに信濃の兵が1万いますから3万人、一人米1合にしても3千升=3百斗、米俵一俵が4斗ですから70俵は一日で食いつぶします。「腹が空いては戦もできぬ」という通りです。現地調達にしても甲斐の国は元々から米が取れない上に、武田倒産以来、重税に次ぐ重税で疲弊しきっています。住民ですら食う米に窮しています。

まぁ、お手上げですね。和睦するしかないでしょう。

徳川にしても、3万の大軍をせん滅するだけの戦力も兵站もありません。

渡りに船…上州は北条、甲信は徳川、単純明快な区分けで合意に達します。これが…この物語をより面白く、劇的にしてしまうきっかけの事件です。家康にしてみれば、岩櫃、沼田の城、つまり上州吾妻郡、利根郡などは不毛の地と思っていたでしょう。代わりに諏訪郡を与えれば真田も文句は言うまい、ついでに川中島地方を「上杉から切り取り勝手」とすれば大喜びするであろう…といった感覚だったでしょう。・・・・・・というより、「文句を言うなら潰してしまえ」といった高揚感があったと思います。北条と一戦も交えずに甲斐、信濃の大半が手に入ったことに自信を強めていたと思われます。

喉に刺さった真田の小骨・・・家康は生涯、この扱いに苦しめられます。

(次号に続く)