六文銭記 11 広域戦争

文聞亭笑一

今週は信繁の恋と婚姻のお話が中心のようですが、それはそれとしてお楽しみいただくとして、六文銭記の方は、緊迫する大勢力の狭間で生きる「真田家」の動きを追ってみたいと思います。

徳川・北条の闇取引で北条の持ち分となった沼田城ですが、前回も述べたように「手柄次第」つまり実力で奪取するというのが戦国の常識です。ですから

「北条が沼田城を攻撃して自分の領地に組み入れても徳川は一切関与しない。領有権を認める」ということです。従って北条が沼田、岩櫃の城とその領地(吾妻郡)を手に入れるには自力で攻め取る必要があります。

信濃・佐久郡、甲斐・都留郡も同様で、徳川は自力で両地方の北条方の城を攻め、着々と自領に組み入れて行っています。その意味では徳川に沼田明け渡しを要求するのは筋違いで、北条の手抜きです。・・・が、氏康は執拗に徳川に要求を繰り返します。「真田を説得せよ」というのです。

徳川にしてみれば「われ関せず、ご随意に」と突き放したいところですが、北条と事を構える気はありません。西部戦線の羽柴秀吉の動きが気がかりで、北条にかかわり合ってはいられないのです。戦力を温存して西に備えることに重きを置いていました。

沼田城攻防戦

沼田の南に厩橋城があります。現在の前橋城址です。天正10年10月頃、この城を守っていたのは北条高広です。この人は北条の血筋は酌むのですが、従来から上杉寄りの立場を貫き、小田原・北条とは敵対してきました。

沼田城を預かった矢沢頼綱は、この北条高広と手を組みます。甥の真田昌幸は徳川と手を組んで上田城を築城中で、上杉とは敵対していますが、叔父の矢沢頼綱は北条高広・上杉と手を組んで、小田原北条に対抗します。さらに下野の宇都宮、常陸の佐竹とも連携して、北条領の周辺でゲリラ戦を展開しようとします。陽動作戦というか、あちこちで火の手を上げて、北条の戦力を分散させようという戦術です。

北条も手をこまねいていたわけではありません。氏政、氏直以下の主力を東上野に差し向け、厩橋、沼田攻撃にかかります。先ずは厩橋城の北条高広を攻めます。北条高広は上杉、宇都宮、佐竹に援軍を求めますが、肝心の上杉が越後国内の反乱に手いっぱいで動けません。9月18日厩橋城は落城します。北条が北条を討つ、というややこしい話ですが、北条も5代になると親戚、遠縁など一族が分散して敵味方に分かれることも多くなります。現代は親戚づきあいが希薄ですから5代前などとは縁を切っていますが、戦国期も似たようなものです。父の兄弟(2代)、祖父の兄弟(3代)・・・とこの辺りまでが限界で、曽祖父の兄弟、玄祖父の兄弟など全く無縁です。

ともかく、友軍の厩橋北条が落ちたことで、沼田の真田方は孤立します。北条の大軍を一手に引き受けることになりました。

一方の北条軍は、厩橋を落とした勢いで沼田の支城・森下城を落とし、次いで中山城を寝返らせて、沼田包囲網を完成させました。沼田城の命運もここまで…といったところです。

ところが、厩橋救援に間に合わなかった北関東の佐竹、宇都宮、佐野の勢力がようやく本格的な反北条の動きを活発化させ、東上野の越後寄りの国人たちを誘い込みます。南下野と沼田東方の桐生、足利方面で北条方国人の城に攻撃をかけ占領していきます。こうなると北条も沼田城を取り巻いているわけにはいきません。軍を3つに分けて沼田城包囲、東上野鎮圧、南下野鎮圧と分散対応せざるを得ません。これで沼田の危機は一旦回避されました。これが天正11年夏から秋にかけての北関東、上州方面の展開です。

この後、天正12年になると、真田昌幸は謀略を仕掛けて北条軍を吾妻郡の谷間に誘いだし、全滅させたりしています。・・・が、これは先のお話ですね。

昌幸暗殺計画

沼田が、真田が言うことを聞かないという失敗のツケを、お門違いの徳川に持ち込むというのも図々しいですが、北条は徳川の弱みに感づいていました。徳川の西が騒がしいのです。北条との同盟は維持しておきたい事情がありました。強気の要求が出せるのです。

徳川の西部戦線、近畿・東海の状況を整理しておきましょう。

賤ヶ岳の合戦で柴田勝家、滝川一益、織田信孝を討ち取った羽柴秀吉は、朝廷に奏請し「豊臣」と名を改めて、信長の後継者、つまり武門の棟梁、天下の主としての地位を固めつつあります。既に畿内一円は傘下に収め、自らが獲得した備後までの中国と、柴田勝家の勢力下にあった北陸道も能登・加賀までは勢力圏内に収めました。

秀吉の天下など、家康にしたらとんでもない話ですし、西隣の尾張・織田信雄からは救援要請というか、同盟して「猿の専横」を阻止しようという呼びかけが来ています。このまま秀吉の思うままにさせて置いたら、次なる標的は徳川になります。

真田との沼田問題…ちいせぇ、ちいせぇ・・・というところでしょう。

現に、北関東で佐竹、宇都宮などが蠢動を始めたのは、秀吉からの働きかけがあったからです。秀吉の右大臣就任のニュースは、既に全国各地に伝えられていました。

小さな問題ですから、家康も熟慮をせず、信長流を採用したのでしょう。

「言うことを聞かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」といった感覚でしょう。

「よきに計らえ」と言われた本多正信が、室賀正武を使った小細工をします。

室賀正武が上田城の竣工祝賀の席で昌幸を殺すという段取りを立てます。

ところがこの計画、事前に真田方にバレバレでした。というのも、真田方は何事にも煩い室賀を封じるために、室賀の家来衆を味方に引き入れていたのです。それも一人や二人でなく、ほぼ全員を真田方に寝返らせていました。室賀に人望がなかったからでしょう。

それとは知らずに上田城に乗り込んだ室賀は、待ち受けた真田の兵に暗殺されてしまいます。ミイラ取りがミイラになった…という形ですが、室賀の一族は城を捨てて甲斐から家康のもとに逃げます。余談ですが室賀家は後に徳川家の旗本となって生き延びます。ただ、この一件を境に信濃、小県の国人としての地位を失い、家臣の総ては真田の家臣として吸収されています。

真田信繁(幸村)の妻

今回のドラマでは婚儀の席で室賀を切ったという設定になっています。築城祝い化、婚儀か…いずれも軍記物(江戸期の娯楽小説)の記事ですから真偽のほどはわかりません。ただ、事件があったのは真実で、室賀正武の息子が、父を裏切った元家臣の仇討ちをやっていますね。

さて、信繁は最初の妻を迎えます。身分の差を考慮したか、将来の政略結婚を意識した昌幸の策か、お梅の立場は側室とします。

多分・・・昌幸の深慮遠謀でしょうね。どこかの大名との縁組を狙っていたでしょう。

信繁は生涯に4人の妻を持ちます。

正妻は大谷吉嗣(おおやよしつぐ)の娘で、出家した後の名前が竹林院です。父の吉嗣に似た才媛(さいえん)だったようで、四女・あぐり(蒲生郷喜の妻)、長男・大助、六女・お菖蒲(片倉定広の妻)、七女・おかね(石川定清の妻)、次男・大八(片倉守信)と5人の子宝に恵まれます。

側室は三人いて、最初の妻となったのが梅です。

梅は堀田佐久兵衛の妹とも、娘とも言われますが、真田の地侍の娘です。

長女のすえ(石合十蔵の妻)を産みました。生涯、真田の地元に残ります。

二人目が家臣の高梨内記の娘で、今回の物語では「きり」と呼んでいます。

二女のお市(九度山で早世)、三女のお梅(片倉重綱の後妻)を産みました。

三人目が豊臣秀次の娘で法名が隆清院、三男の幸信(後の三好左次郎)、五女のなお(岩城宣隆の妻)を設けています。

妻4人で三男七女・・・頑張りましたねぇ。しかも信濃にいる間に作った子供は一人だけで、残りはすべて九度山に移ってからです。九度山では監禁の身ですから、妻三人が同じ屋根の下にいたのでしょう。それほど大きな屋敷ではなかったはずですから、女の争いを起さず9人を出産させるとは…よほど女の扱いが上手だったのでしょう。まぁ、正妻ができた人物でないと、とてもこうはいきませんね。感心するばかりです。

それと、子供たちの嫁ぎ先、養子の先が仙台藩の片倉家になっています。幸村と伊達政宗の名参謀・片倉小十郎重綱との親交の程度がうかがい知れます。

小牧・長久手の合戦

今回のドラマでは真田家が蚊帳の外でしたから、ほとんど取り上げられませんが、戦国末期としては天下分け目の大戦となる小牧、長久手の合戦が展開されていました。

畿内から北陸を制した豊臣秀吉が10万の軍勢を引き連れて美濃から、伊賀から織田信雄の領地に攻め込みます。これに対して家康が「織田信雄に加勢する」という名目で、全軍を率いて小牧山に布陣します。織田、徳川両軍合わせて5万と言われていますが、両軍とも実数はわかっていません。ですが、ともに有史以来の人数の激突であることは確かです。

両者がにらみ合いになって、なかなか戦闘を仕掛けないのは、人数が多い秀吉側に後方不安があるからでした。家康からの工作で紀伊の雑賀党、四国の長曾我部、中国の毛利、越中の佐々などに不穏な動きがあったからです。

秀吉は「官軍」という朝廷の権威を盾にしますが、家康は「織田家乗っ取りの陰謀」と宣伝します。この大戦ではいろいろな物語がありますね。

佐々成政が家康の救援を要請するために雪の立山越えをします。

紀州の雑賀孫市の活躍物語は、司馬遼太郎の「尻くらえ孫市」が面白い。

豊臣秀次が家康の留守を突こうと三河岡崎城に進軍して、逆に家康に痛い目に遭います。

一方、秀吉は信濃に手を回し、家康についていた木曽義昌、深志の小笠原長慶を味方に引き入れ、家康方の高遠・保科を攻撃させます。戦争の規模が全国区に拡大してきました。

さらに秀吉陣営では、黒田官兵衛が暗躍し、家康の同盟者・織田信雄を脅し透かして和平交渉を締結してしまいます。これでは家康が戦う名目が無くなってしまいました。

戦闘では徳川が勝ちましたが、戦略では秀吉の勝です。

(次号に続く)