六文銭記 12 窮鳥懐に…

文聞亭笑一

先日、面白い本を手に入れました。徳川方から見た「真田軍記」です。

歴史とは小さな真実を織り交ぜた大きな嘘であるという定義の通り、わずかな真実を素に歴史作者が推理、推論、自己主張をします。

「歴史認識」が日中韓の「のどに刺さった小骨」ですが、慰安婦も、南京大虐殺も、互いの立場を有利に導こうと嘘で固められつつあります。嘘を固めるために、アメリカでのロビー活動や銅像建設に頑張り、国民の反日活動を盛り上げ、中国に接近したお隣のオバサンは、身近な親戚というか、兄弟の水爆・ミサイルでそれどころではなくなりました。

真田物語はネタ本とされるのは真田軍記で、これを書いたのはアンチ徳川、判官びいきの関西人です。歴史家が大事にしているのは沼田藩士が書いた「加沢記」で、真田家の資料と言う物は少ないのです。これは文聞亭の推測に過ぎませんが、真田家を継いだ信之は記録を消したのではないかと思っています。真田の活躍や、徳川を翻弄した記録が残れば、お家取潰しの格好の証拠になります。そんなヤバい物は残すはずがありません。

手に入れた本は、田安徳川家の後継者の方が書いた本で「家康と昌幸は共謀していたのではないか」という仮説を提起しています。読みながら・・・ありうる話だ…などとも思います。

歴史家や、小説家は「記録だ」と、信長公記、太閤記などを「真実」として物語を展開しますが、かなりの大嘘ですね。信長公記の作者・太田牛一は信長付の従軍記者です。秘書です。信長にとって都合の悪いことは一切書きません。太閤記の作者・大村幽古は、秀吉からの執拗な書き直し要求に腹を立てて途中で逐電しています。自慢話や、虚構の多さに嫌気がさしたようです。困った秀吉は御用作家・太田牛一を呼び出して、続きを書かせたようです。

世の中はおおむねそんなもので、仮に私が「自分史」を書いたら、都合の悪いことはすべて消し去り、格好いい所だけ書くでしょうね。「私の履歴書」を始め、「一代記」などは割引して読まなくてはいけませんが、その中にも成功のKey wordや失敗の原因分析など、参考になることが多いので、軽んじてはいけません。何を読み取るかが大切です。

さて本論。徳川が秀吉との対陣に全精力を使っている小牧・長久手の戦の期間は、真田にとっては平穏でした。北条が徳川に要求を出しても、家康はそれどころではありません。

徳川は生きるか死ぬか、天下分け目の戦いをしています。

北条も、独力で沼田を獲りに行きたいのですが、秀吉から手が回った佐竹、宇都宮、佐野などのゲリラ作戦に手を焼き、沼田にまで手が回りません。戦線が広すぎます。日本一の大河・利根川の上流から下流までが戦場になってしまっています。こういうところが秀吉・黒田官兵衛コンビが戦略的に巧妙なところです。北条の勢力は分散させられてしまっています。

小牧・長久手の戦は、戦闘では徳川が勝ったのですが、秀吉・官兵衛の交渉力が勝り、家康にとっては敗北的和議が成立してしまいました。織田信雄の勝手な和議成立で、「織田信雄を助ける」という大義名分が消えてしまいましたから、戦う理由が無くなりました。

撤退するしかありません。

そこへ、北条からの再三再四の「沼田城明け渡し」の要求です。

秀吉と敵対する…という立場を貫くには、北条と事を構えるわけにはいきません。北・徳安保条約は維持しなくてはなりません。真田の説得にかかります。

家康は沼田の代替え地に伊那郡・箕輪を提案します。しかしそこは家康から秀吉に寝返った小笠原、木曽などの占領地です。仮に真田がもらい受けたとしても、自力で小笠原、木曽と戦って奪わなくてはなりません。つまりは空手形です。

真田としては、「はい、わかりました」などという取引ではありません。伊那に進軍するには、佐久、諏訪という他人の領地を通って軍を進めなくてはなりませんから、できるはずのない提案です。上田―岩櫃―沼田は「線」でつながっていますが、上田―伊那は点と点です。飛び地です。しかも、美ヶ原、霧ヶ峰、蓼科という2000m級の山を越え、諏訪湖という大きな障害を越えた先です。そこへの進軍などは航空隊と落下傘部隊でもなければ、できる相談ではありません。

昌幸は拒否します。まぁ、当然でしょうね。  手切れです。 徳川も敵に回します。

さてそうなると提携する相手は誰か? 残るカードは上杉しかありません。しかしその上杉には不義理の繰り返しで、今更頭を下げても「どの面(つら)下げて来たんじゃ!」と門前払いが良い所でしょう。それを敢えて「へー、この面(つら)でんねん」と、ノコノコ出かけて行くところが真田の凄さです。したたかさです。なかなかできませんよ、これは…。

この役割を任されたのが幸村(信繁)です。

幸村に求められる役割は、

①吉本興業の芸人的厚かましさ

②菅官房長官的 無感情、論理性

③塚原卜伝(ぼくでん)的 捨て身の覚悟   です。

塚原卜伝的が・・・が分かりにくいですね。剣の極意を示した卜伝の歌があります。

「斬り結ぶ 刃(やいば)の下こそ誠なり 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」という心構えです。

要するに、捨て身。無我の境地でしょうか。現代サラリーマン風に言えば

「懐に辞表を忍ばせて交渉に臨む」ということでしょうね。

この辺りは、テレビドラマの中で主役の堺雅人がいかに演じるか。楽しみでもあります。

今回のドラマ前半の、クライマックスかもしれませんね。見てのお楽しみです。

今回は幸村(信繁)と上杉景勝、直江兼続の3人の人間模様が中心なので、脚本家・三谷幸喜のストーリをお楽しみいただくとして…紙面が余りました。周辺情報を加えておきます。

脇役で出てくる徳川家臣団の紹介です。

本多平八郎忠勝

徳川に 過ぎたるものが二つあり 唐(から)の兜(かぶと)と本多平八

これは小牧長久手戦の後、秀吉が詠んだと伝えられる一首です。本多平八郎の目覚ましい活躍を羨み、徳川を裏切って豊臣に鞍替えさせようと流した宣伝文句だとも言われます。 意味は、ケチな徳川にいてはもったいないぞ、俺の所に来れば10万石、20万石の大名に取りたてる…といった感じのリクルート・コピーですね。

唐の兜というのは、兜にヤクの毛を付けた信長好みの派手な兜のことです。徳川の軍団長クラス、徳川四天王と言われた榊原康正、酒井忠次、井伊直正などがこの兜を愛用していました。

平八郎の娘・小松姫は後に真田昌幸の正室となり、ドラマの準主役で登場します。

本多正信

家康の戦略参謀です。徳川にはこの種の人材がほとんどおらず、現場の部隊長ばかりでしたから戦いには強くても、政治で負けるということの繰り返しでした。「泣くまで待とうホトトギス」は、徳川会社が政治力、営業力がつくまで「待つしかなかった」からだと思います。

正信は元々からの家臣でしたが、一向衆の熱烈な信者で、家康を苦しめた三河一向一揆の首謀者の一人です。家康と戦い、平定されてからは諸国を浪人し、後に許されて参謀になるという経歴ですから情報網が広いですね。服部半蔵など忍者部隊を管轄下に置きます。

長男の正純は大御所となってからの家康の側近で、大坂の陣では徳川方の中心人物になります

次男は加賀前田家に家老という職分で監視役に入り、大坂の陣で真田丸に前田勢を突撃させます。無謀とも言える突撃は、前田を弱らせるための策略ではなかったか、などとも言われます。

鳥居元忠

家康が今川の人質時代からの側近で、徳川軍団の中核の一人です。

次号では第一次上田合戦の場面になりますが、その徳川勢の総指揮官です。

関が原の前夜、伏見城を守り2千の兵で4万の敵を相手に討ち死にしました。

大久保忠世

徳川家の弱小時代からの家臣で、今川からの独立をはじめ、主だった戦闘では常に先陣を切ります。徳川軍団の最強部隊・大久保党を率います。

2代秀忠の大老となる大久保忠隣は息子、天下のご意見番・大久保彦左衛門は弟です。

大久保彦左衛門が書いた「三河物語」では、徳川を天下人にしたのは大久保党である…と書いていますね。確かに、その通りの活躍をしていますが、政略、スキャンダルに弱いタイプで、内部抗争に敗けて幕府の重役からコケ落ちています。

小田原10万石が大久保党の最終資産でした。

石川数正

この人をテーマに長編の小説を書きましたから、書きたいことはいっぱいありますが…(笑)

鳥居、大久保同様、何代も前からの徳川(松平)家臣です。しかも、家老職として三河のNo2でした。家康が今川の人質時代は人質付の責任者、そして、家康が独立した後、その妻・築山殿と息子・信康を奪い返す交渉もやっています。秀吉との交渉事も一手に受け持ちます。徳川家の外務大臣といった役割を担当していましたね

上田合戦の最中に徳川を裏切って秀吉方へと逃亡します。

裏切りの原因は謎が多いのですが、自らが育てた家康の長男・信康と、憧れのマドンナであった鶴姫(築山殿)を、信長の命令で殺してしまった家康との間に隙間風が吹いていたのだろうと思います。そこを巧みに利用した秀吉の手に載った…というのが私の説です。

現存する国宝松本城は、後に秀吉から深志10万石を与えられたとき数正が築城した城です。

今週はストーリの解説が少ないですが、三谷脚本の筋書きが面白く、新説が多いので、敢えて解説しない方が良かろうと自粛しました。映像をお楽しみください。

来週は上田合戦。2千の真田が7千の徳川を翻弄します。

(次号に続く)