六文銭記 15 戦国コメディー

文聞亭笑一

いやはや…呆れた14回目でした。先週の上田合戦が喜劇仕立てで、本格的な戦闘場面がなく、ガッカリしていたのですが、今回はまさにドタバタ喜劇でしたね。この調子でやられたら執筆する意欲を失います(笑)

まぁ、どう解釈しようと自由ですが、当時の日本の人口3000万人が命のやり取りをしていた戦国という時代を茶化すにも程がありますねぇ。明らかにやり過ぎでしょう。

今回の「15話」もその延長線上のようで、豊臣家のホームドラマになりそうなので、ドラマの筋からは離れた、当時の状況説明をします。

真田と豊臣の関係は、真田昌幸が徳川との手切れを決断した時から始まっています。

真田昌幸と豊臣秀吉は、舞台である天正14年現在、一度も対面したことはありません。

織田信長が武田家を滅亡させた天正10年、信長の軍団長の一人であった羽柴秀吉は、中国攻めの真っ最中でした。毛利を相手に備中松山まで攻め込み、かの、水攻めのための土木工事に邁進していました。家臣である三成は「土一票・米一升」と算盤片手に駆けまわっていましたし、清正も「急げ、急げ」と声をからしていました。

一方の真田昌幸は、新府城構築に邁進していました。迫りくる織田軍を迎え撃つべく、弱点となる山側の防御に空堀などを掘っていました。どちらも土木工事に大童でした。

キミマロのトークなら「あれから四十年…」なのですが、あれから・・・まだ4年です。

世の中は落ち着いていません。その上、天正大地震が近畿から東海を襲いました。その被害が甚大で、経済の立て直し、復興に秀吉政権もてんてこ舞いだったのです。近畿地方の民心も安定しておりません。

徳川との手切れ…これを決断するや、昌幸は秀吉に支援要請の手紙を書いています。

「敵の敵は味方」つまり、「家康の敵・秀吉は自分の味方である」という戦略の基本通りに、援軍要請の手紙を出します。これに対し秀吉は「了解、援軍を送る」と返事しています。秀吉にとっても、「敵の敵は味方」なのです。

小牧長久手の戦の後、秀吉は美濃、信濃方面の大名たちの調略工作を活発化させていました。家康を封じるためには、家康の新領地に揺さぶりをかけ、離反させるのが一番ですから、恩賞の安売りで攻勢をかけます。

まず、最初に狙ったのが、旧武田勢力の親戚筋である木曽義昌でした。木曽の隣、美濃までは既に秀吉の勢力圏です。その南にいる尾張の織田信雄は秀吉の煽てに乗ってすっかり秀吉に取り込まれています。木曽義昌は家康に臣従していたのですが、実に不安定な立場です。徳川と豊臣が戦端を開けば最前線に立つことになります。

悩んだでしょうね。豊臣と徳川を天秤にかけて重さを図ったと思います。大盤振る舞いのほら吹き秀吉と、ケチな家康・・・、木曽義昌は秀吉に内通します。その義昌に届いた司令は深志(松本)の小笠原長慶の調略でした。僅かな期間でしたが、木曽義昌は深志城主になっていましたから、深志城下には当時の人脈があります。しかも、小笠原は武田に攻められた折に部下を捨てて越後に逃げたという前科がありますから、住民の支持は得ていません。石高、兵力の割に内部統制ができていませんでした。木曽を通じた硬軟両様の懐柔策に内通を決めます。

そこに起きたのが上田合戦であり、石川数正の脱走事件です。

前回に書きそびれましたが、木曽も深志も徳川方の占領地管理者、軍監は石川数正です。

小笠原の嫡子、幸松丸は人質として石川数正が預かっており、数正は脱走に際し、人質も一緒に連れて逃げています。小笠原にしてみれば、徳川に出したはずの人質が豊臣の手に渡ったことになります。これで決断がつきましたね。秀吉方に寝返ります。

こういう情勢ですから、真田昌幸の秀吉へのラブコールは大歓迎で、しかも、2千の兵で徳川7千を撃退したという情報は大喝采だったのです。秀吉にとって真田は、木曽や小笠原よりも頼りになる「信濃の旗頭」と印象付けられたと思います。

前回の放送で秀吉からの上洛要求を、信幸が「大名でもないのに…」と訝しがりますが、秀吉から見たら真田は、木曽や小笠原といった大名以上に値打ちある国主級の存在であったのではないでしょうか。

上田合戦の後、秀吉から真田に来た司令は「木曽、小笠原に協力して信濃から徳川を追い払え」と言うものでした。木曽と小笠原は、当主が上田攻めの為小諸にいて不在の高遠城の保科を攻めます。が、高遠城は難攻不落の城塞です。しかも城を守っていたのは武田信玄から「槍弾正」と称えられた隠居の保科正俊でした。木曽、小笠原は返り討ちというか、大損害を出して退却します。

真田には「小諸の徳川を追い払え」と指示が来ましたが、昌幸はその指示を無視します。

それが当然で、あの城は、高遠城同様に難攻不落です。攻め口が一か所しかないのですから、5倍から10倍の兵力がないと攻めきれないでしょう。それは先日の真田丸ツアーで確認してきました。千曲川方面からは、全く手出しができない構造になっていました。何れも武田信玄の軍師・山本勘助が縄張りした城です。地形の選び方が絶妙ですね。

昌幸はその代わりに、大々的な懸賞作戦を展開します。配下の国人に対し、佐久を手に入れたら、佐久平に領地を加増するという約束手形を乱発します。この辺りは秀吉流を真似ていますね。更に、甲斐まで手に入れる目論見だったようで、約束手形には甲斐の地名まで入っているものがあったようです。

もう一つ、佐助たちマタギや素っ波を使った、まことしやかな嘘を宣伝します。

「出家して上杉に匿(かくま)われていた武田信玄の孫が還俗(げんぞく)し、旧臣を集めて甲斐に帰還する」と言うものです。信濃では信玄人気が非常に高いので、信玄の血縁が復帰するとなれば、徳川勢に参加している信濃勢が動揺します。それもあって・・・小諸城の守備を任された鳥居元忠、大久保彦左衛門などは戦々恐々で、城から一歩も出られずに縮こまっていました。

ここまでが先週の番組の背景です。秀吉が信繁を「愛い奴」と歓迎した背景です。

ここから風向きが変わります。

家康が秀吉の上洛要請を受けそうな雰囲気が出てきました。

織田信雄を仲介役にして、家康懐柔策を模索していた秀吉の弟・秀長の策に、可能性が見えてきました。秀吉は手のひらを返します。敵対、攻撃路線から、懐柔、和平路線に転換します。

この辺り…権力者の気まぐれと見るか、それとも流れに応じた秀吉の柔軟性と見るか…それは歴史を見る人の勝手ですが、秀吉は家康の実力を高く買っていたのではないでしょうか。信長と家康との関係を、自分と家康との関係に持ち込みたいと切望していたのだと思われます。主従関係ではない、同盟関係にしたかったのだと思います。

顔すら見たことがなく、上洛指示を無視している真田昌幸より、信長配下で同僚として共に戦ってきた家康の方が信用できます。

さてそうなると…真田の立場は微妙です。家康と敵対ばかりしていると、秀吉の敵になってしまいます。上杉まで秀吉に付いてしまいましたから、孤立無援に陥ります。事実、秀吉は上杉景勝に「真田を支援するな」と命令しています。この間の事情を追ってみます。

2月8日 秀吉は「家康を赦免した」と全国の大名に通達 昌幸に徳川との停戦を指示

3月9日 家康は北条氏政・氏直と駿豆国境で会談、同盟を確認

4月~5月  家康と秀吉の妹・旭姫の結婚交渉 結婚

6月   上杉景勝に真田、小笠原、木曽を家康の配下とする旨通達。昌幸に上洛指示

8月3日 秀吉は家康に「真田討伐」を命令  「表裏卑怯の者」と糾弾

8月7日 秀吉は真田討伐命令を撤回

これを見ると、真田と沼田問題は秀吉、家康の政治的駆け引きの材料にされていますね。朝令暮改もいい所ですが、これには直江山城、上杉景勝の尽力も見逃せません。秀吉を、内側から揺さぶった気配が感じられます。

それというのも、家康に真田を討伐させてしまうと、上杉の領域近くまで徳川・北条の勢力が浸透してきます。真田…という緩衝地帯が無くなってしまうのは、上杉にしてみたら不安です。

もう一つ、家康が北条と示し合わせていたら東国の軍事バランスが崩れることに秀吉が不安を感じたこともあります。3月に家康が北条と会見していたことや、北条との同盟の内容などを、石川数正を通じて知ったのでしょう。家康の上洛でホッとして、「真田など討ち取ってしまえ」と有頂天だったのが、冷静に戻った結果だとも言えます。

ともかく、真田は首の皮一枚でつながりました。

今週は豊臣家の顔見せ興行。上記のようないきさつですから、豊臣家族団欒の場に真田信繁がいたとは到底考えられませんが…それも御愛嬌。主役が居なくては舞台回しができませんからね。歴史ではなく、時代小説として三谷脚本を楽しんでください。

それにしても…長澤まさみの役回りと演技、現代娘がタイムスリップしたみたいです。

(次号に続く)