六文銭記 14 徳川に激震

文聞亭笑一

徳川軍の第一波の攻撃は撃退しましたが、徳川軍は小諸城に引き上げ体勢を立て直し、第二波の準備に入っています。小諸城は中仙道、北国街道を睨む交通の要衝に建つ堅固な城です。武田信玄の時代に山本勘助が縄張り(設計)したというだけあって、千曲川の河岸段丘に面した方角からは攻め口が全くありません。城内の空堀も深く、石垣に囲まれた迷路のような作りです。

従って、真田が勝った勢いで追い討ちをかけられるような城ではありません。

徳川軍はすぐにも体勢を立て直して再攻撃にかかれたのですが、これがなかなか難航します。それというのも敗軍の責任を追及する内部抗争というか、3人の大将格の意思統一が上手く行きません。大久保彦左衛門などは「俺が…、俺が…」と自己主張がきつい方ですし、鳥居党、平岩党にも同様なタイプがいて、陣立てというか・・・、作戦が決まらないのです。

軍隊組織というものは、指揮系統が一貫していなくては烏合の衆です。こういうところが家康の誤算で、本来・大将に指名した鳥居元忠が指揮権を発動すべきでしたが、鳥居は格上の大久保忠世に遠慮します。後の天下のご意見番・大久保彦左衛門も上田攻めの頃は、功名心に逸(はや)った只の暴れん坊でしたね。組織を掻きまわすだけの厄介者だったようです。

この状況は右派がいて、左派がいて、理屈屋がいて混迷する、現在の民主党そっくりです。

そうこうしている間に、徳川家の本拠地・岡崎城で大事件が発生します。

徳川家のNo2とも言うべき石川数正が突如・・・豊臣方に寝返り、出奔してしまいます。

この理由は謎ですが、今回は真田信尹がそそのかした・・・という新説(珍説)を採りましたねぇ。こういう説を唱えた人は過去にいませんので、三谷幸喜の新説ですね。ただ、信尹の立場でそれができたかどうかは…無理があるように思います。ともあれ・・・今回は真田が主体の物語です。信尹にも仕事をさせなくてはなりませんからねぇ。(笑)

従来、言われてきた説は

1、秀吉からの法外な恩賞に目がくらんだという「秀吉買収説」

2、徳川家の新旧内訌説 旧・岡崎政権と新・浜松政権との内輪もめ、「新旧主導権争い説」

3、家康の二方面外交に、まじめな数正が付いていけなかった。「秀吉との板挟み説」

4、上記を含めて、家康に対する不信感が溜まりに貯まって、「堪忍袋の緒が切れた説」

4は私の説です。この説に基づき処女作では石川数正をモデルにした「煩悩の城」という小説を書きました。故郷の松本城を建てた男ですからねぇ。少々、思い入れがあります。

こういう徳川家の内部事情がありますから、上田攻めの軍勢も内輪もめをしやすい環境でした。ともかく、家康が側近の本多正信の意見を採用し過ぎることに、全員が「面白くない」と思っていたようです。殆どの重臣たちが、本多正信を「鷹匠上がりめ!」と嫌っていました。

出奔前に石川数正が秀吉と煮詰めた案では

1、家康と秀吉は和睦する。相互不戦条約

2、家康は秀吉の別格大名、つまり補佐役(副総理)として豊臣政権に入閣する

信長と家康の関係(弟分)と同様に、秀吉の弟分として優遇する・・・親族扱いする

3、駿遠三甲信の5か国は安堵し、北条・以北の動静によれば、さらに加増する

4、数正には、家康にあてがう他に10万石以上の領地を用意する

これは上杉景勝とは別に、直江兼続に30万石与えたのと同じやり方です。

当時の常識としては破格の待遇です。数正にとっては「これ以上ない」というところまで豊臣の譲歩を勝ち取ったと思っていたはずです。

ところが、家康・正信組は、さらに腹黒く、条件の追加を目論んでいたものと思われます。

それは北条と手を組んで、日本を東西に二分するという複合政権ではなかったかと思われます。

要するに、秀吉政権は短命と見て、すぐにでも取って代わる位置を占めていたかったのでしょう。

このスタイル…室町幕府の政治体制に似ています。室町幕府は東日本(信濃、甲斐、伊豆より東)を関東公方、関東管領に全権委任という体制でした。

奇しくもフォッサマグナ(糸魚川・富士構造線)での日本分断案ですねぇ。

この延長線でしょうか。現代の電力はこのラインで周波数が50㎐、60㎐に分かれています。

いずれにせよ、数正にとっては自分の努力を反故(ほご)にする態度の家康に愛想をつかしたのでしょう。 「バカバカしくて、やっちゃぁゐられねぇ」と言ったところでしょうね。

この事件で、徳川は真田と戦争しているゆとりはなくなりました。

数正の態度いかんでは、徳川の政治機密、軍事機密、経済機密の総てが秀吉側にバレてしまいます。丸裸にされます。それほど・・・石川数正は重要ポストにいたのです。政権No2の筆頭家老ですからね。更には今川人質時代からの兄貴分というか、指導責任者・保護者でもあります。

機密の一番は、各種の暗号でしょうね。ついで金銭や火薬の置き場でしょうか。更には徳川家中の人事機密、外交機密でしょうね。歴史書は「軍政を武田信玄風に改めた」と書きますが、 これは主として暗号や兵站に関することだと思います。更には、石川数正が担っていた職務を誰が担当するかです。体育会系が多く、外交の出来る人材がいません。

家康は、ある意味で「チャンス」ととらえて、大幅な人事刷新、若返りをやったのでしょう。 古参は頼りにならぬと、新進気鋭の若手の登用を進めます。人事刷新・リストラです。

三河以来の門閥を、次々と重要ポストから外していきます。これが…後に活きてきますね。関が原以後の徳川将軍家の礎を築きます。

小諸にいた徳川軍の大将格・鳥居、大久保、平岩などは直ちに召喚されます。軍勢も引き上げます。小諸に残ったのは大久保彦左衛門などの好戦派の小人数と信濃衆だけでした。これでは、小諸を守るのが精一杯で、真田に攻めかかることなどできません。

石川数正のお陰で、真田は危機を脱しました。当分、徳川は攻撃してきません。

秀吉は関白の位を得て、天皇の代理として全国の大名に上洛を促します。・・・言ってみれば諸大名に対する踏絵です。

上洛すれば、相応の保証をする。攻められたら援軍を出して守ってやる。上洛しなければ、反逆者として成敗する。

という単純な図式です。YesかNoか…二者択一です。

この呼びかけに応じたのは、近畿圏の大名や中小豪族たちです。それに、毛利が加わります。尾張の織田信雄がしぶしぶと応じ、越中の佐々成政も頭を丸めて出頭します。

さて問題は東国の徳川、北条、上杉、そして伊達。西国では長宗我部、島津と言ったところですね。いずれも反抗の姿勢を取ります。中でも九州の島津は隣国への侵略を強化していきます。

秀吉にとって大きな政治的成果は上杉景勝の上洛でした。ネームバリューがあります。上杉は、何度も書きましたように、下越の新発田勢の反乱を鎮圧できずに苦労しています。 更に北条、徳川に近隣の領地を狙われています。新興・伊達政宗が隣国の会津で暴れまわり、新発田と手を組んで南進してくる恐れもあります。

もう一つ言えば、謙信の時代の財源であった佐渡金山からの上納が減っています。佐渡の本間家も、景勝の上杉と新発田を天秤にかけ、様子を伺っています。

苦境を打破するには、・・・秀吉と組んで、まず越後内部を固めるのが一番・・・、と云う直江兼続の提案を受け入れるしかありません。上洛を決断します。秀吉の傘下に入る、部下になるということですから、謙信以来の誇り高き家柄を捨てることでもあります。

今回のドラマは、この辺りの景勝の苦悩を、信繁との絡みで描くようです。その辺は三谷脚本にお任せしましょう。信繁が景勝に同行したかどうか…記録は全くありません。ありませんが・・・、この辺りは三谷脚本が面白そうなので、そちらのストーリに乗ってください。

真田にも秀吉からの召喚状、出頭命令が来ます。

この当時の真田の石高はどの程度だったのか?

大名と呼べる地位にあったのかは疑問ですが、秀吉からは「大名」と認められていたことになります。敵の敵は味方・・・と云う戦略論から行けば、徳川と戦っている真田は「秀吉の味方」ということになりますね。一種のラブコールでしょう。

これに昌幸は飛びつきません。秀吉を計りかねていたものと思います。もう一つ…上田を空けるわけにはいかなかったからでしょう。真田にとって大事な沼田城では北条と戦闘が継続中です。北条が総攻めを仕掛けてきたら、即座に援軍を引き連れて沼田に駆けつけなくてはなりません。それは、経験の浅い信幸には荷の重い仕事です。

秀吉からは、これを「真田は表裏卑怯」と見られますが、沼田をめぐって北条、徳川と戦っている真田にとっては「秀吉の道楽」に付き合っている暇はないのですから、仕方がありません。

しかも、頼りにしていた上杉は、秀吉への臣従を決断して大阪に行ってしまっています。いざという時に援軍を出す決断をする人が、上杉にはいません。孤立無援の状態なのです。

「秀吉もわかっちゃいねぇなぁ」 というのが、昌幸の苦笑いでしょう。

(先週号の補足)

先週号の上田攻めの中で、「千鳥掛け柵とは?」との質問がありました。下図がそれです。下から攻める敵がすんなり入れて・・・出るときには引っ掛ります。魚を獲る網のようですね。徳川勢は秀忠の第二次合戦でもこれに掛かっています。 学習効果がない!?

今週のTVは、上杉に同道した信繁が豊臣家の面々と出会う場面が随所にあります。真田丸・第二幕に向けての顔見せ興行でしょう。石田三成、大谷刑部、加藤清正、寧々、茶々、利休などが初登場します。

勿論、秀吉との絡みもあって、この先の舞台が大阪城に代わる予告編でしょう。 

挿絵

(次号に続く)