六文銭記 19 恋の季節

文聞亭笑一

♪ 忘れられないの あの人が好きよ 青いシャツ着てさ……恋の季節よ

こんな歌がありました。高度成長期真っ盛り、昭和の歌です。

今週は秀吉と茶々、信幸と小松姫、信繁ときりの三組の「男と女の関係」を書いてみようと思います。

秀吉政権の誕生と、その成長期は、まさに高度成長期に当たります。信長の覇権主義が軌道に乗り、長く続いてきた戦乱の世に安定が見え出します。政権の中心は信長から秀吉へと代替わりしましたが、基本政策は全く同じです。規模の拡張による商業経済の保護であり、旧体制の利権を排除した構造改革路線ですね。地方分権から中央集権への流れを、一つずつ、着実に進めていました。

新規技術の導入と応用技術の開発も盛んで、信長は西欧文化、西欧技術の取り込みにも積極的だったのですが、秀吉の場合は少々腰が引けていました。信長は旧権威の象徴である「朝廷」を軽視し、朝廷の権威の象徴である「位階制」を拒否しました。右大臣をはじめとする朝廷の位階贈呈をすべて拒否しています。

しかし、秀吉は「位階」という旧制度に、自らの「出世」の階段を重ねて、公卿という身分、関白という位に執着します。「関白太政大臣になった!」と大喜びした場面が前回の放送にも出てきたとおりです。

この半端さ、よく言えば器用さが政権内に派閥を作り出しました。

徳川、毛利、上杉などの大名には旧体制の位階を与え、地方分権を認めます。朝廷と公卿を重んじるべく聚楽第を作り、平安期への復古路線をとります。

一方で、信長譲りの中央集権的な構造改革路線を次々に打ち出します。検地、刀狩などはそのための布石で、大規模国勢調査、税制改革、軍事機能の中央統合を図る施策です。

この矛盾、政策的格差が政権内に二つの流れを生みました。

信長的集権路線の政策立案者が石田三成です。その周辺には、近江派と言われる一団が集まります。大谷吉嗣、増田長盛、長束などの経済官僚はじめ、蒲生氏郷、片桐且元、脇坂安治など賤ヶ岳七本槍の武闘派の面々も名を連ねます。

一方で、秀吉の足軽時代からの盟友、子飼いの者たちは石田路線に抵抗します。尾張派とも呼ばれますが、旧秩序への回帰路線に郷愁を感じる面々です。加藤清正、福島正則、加藤光泰など七本槍の子飼いや、蜂須賀小六、前田利家などに加えて黒田官兵衛など軍部を構成する面々です。

この二つの勢力をうまくなだめて、喧嘩をさせぬように抑えたのが、秀吉の「人たらしの名人」たるところで、その役割を果たしたのが弟の大和大納言・秀長と、千利休でした。「表向きの事は大納言に、内向きの事は利休に」と窓口を分けて分担させ、綻びを出さないようにしていました。矛盾する政策の同時並行処理ですから、秀吉という決裁者の手前に関所を設けて目くらましをかけるというやり方です。関所で裁ききれない難問は秀吉、秀長、利休の三者会談ですね。それが黄金の茶室での密談であったと思われます。秀長、利休亡き後に綻びが目立つようになりますが、この二人の傑物がいてこそ、聚楽第での平穏な政治が実現できたのだと思います。

こんな話と、恋の話は無縁のように聞こえますが、実はそうでもなかったかもしれません。

秀吉の場合は、寧々という傑物の女房がいます。「子が出来ぬ」という点を除いては非の打ちようのないよくできた妻です。家中をまとめ、時には外交にも自ら乗り出し、秀吉に代わって難問を片付けます。スーパーカーチャンですねぇ。有史以来、日本一のオカミサンと称号を与えた歴史家もいるほどです。子宝に恵まれなかったのが残念でしたが、側室の面倒もよく見て、奥に波風は立てていません。

ただ、秀吉にとっての不満は、寧々が尾張派の精神的支柱のような存在になっていくことではなかったでしょうか。清正、正則などは秀吉の家来というより、寧々の家来というほどに心酔しています。

表の出来事も、寧々には筒抜けです。家に帰ってまでも仕事の話をされたら疲れます。

そうなると、別宅を設けたい。奥の世界にも尾張派と近江派を作ってその上に乗っかる方が、気が休まる。…とすれば、近江派の女王は…やっぱり茶々ですね。信長の姪というより、浅井長政の娘というブランドイメージが大切になります。しかも、寧々とは正反対の気位の高い令嬢です。

矛盾の上に載って、それを仲裁しながら遊ぶ…これが秀吉的安心ではなかったか…などとも思います。

さて、今回は信幸の婚礼の話が出てきそうです。本多平八郎の娘、稲を信幸の正室にしようという動きです。本多平八郎に関しては以前にも紹介しましたが、秀吉の作と伝わる歌に

徳川に 過ぎたるものが二つあり 唐の兜に本多平八

というものがあります。小牧・長久手の戦で秀吉も直接戦っていますし、連戦無敗の噂は京・大阪にまで鳴り響いていました。石川数正を寝返らせたように、次の寝返り工作の標的として狙っていた節があります。ライバルの中核的人材をヘッドハンティングして引き抜き、敵の力を弱めようというのは  秀吉の得意技です。が、これは不発に終わりました。平八郎には全く脈がなかったようです。

真田信幸が与力大名として家康のもとに出仕したのはいつからか、諸説あってわかりませんが、今回のドラマでは天正15年ころ、つまり秀吉の命令で真田が徳川の与力大名になった後です。このころから信幸は駿府に住むようになります。

一方の稲…家康の養女になってからの名は小松姫…は父親譲りのじゃじゃ馬娘だったようで、面白い逸話の持ち主です。政略結婚の道具にされるのが気に入らぬと家康に直訴し、家康が考える結婚相手を広間に呼び集めさせ、首実検をしたという話です。

真田信幸を含めて、十数人が広間に呼び集められます。そのほとんどは与力大名の子弟であり、主要家臣の子弟だったといいますが、家康隣席の集団見合いというか、面接のようなものですから緊張し、平伏しています。

「顔が見えぬではありませぬか」

言うなり小松姫は若者たちの前に進み、髷をつかんで顔を改めていったといいます。髷をつかまれた者たちは驚きましたが、事前に「相当なじゃじゃ馬だ」といううわさを聞いていましたし、家康の面前ですから遠慮して、なされるがままにしていたようです。「気に入られぬ方がいい」といった雰囲気でしょうか。男勝りのうるさい女は願い下げ…といった感じでしょう。

何人か目に信幸の番になりました。小松姫が髷をつかもうとした手を、扇でピシリと打ち据えます。

「無礼者」と言ったかどうかは逸話にありませんが、髷をつかまれるのを拒否して小松姫を睨み付けます。これで小松姫は胸キュンになり、信幸を選んだという話です。

講談、浪花節の世界の話だと思いますが、二人の出会いの場面としては面白いですね。

一方、「本多平八郎の娘を信幸の正室に」と話を持ち出したのは家康だという話もあります。しかし、真田昌幸はそれを拒否し、「家康の娘ならいざ知らず、家臣の娘などいらぬ」と断り、「ならば、家康の養女として」ということで婚約が成立したという話もあります。

いずれにせよ、家康としては沼田問題を片付けるために、真田の譲歩が必要でした。家康は信長時代から「律義者」というのが評判で、北条との約束を反故にしたくなかったのです。それに…、北条というカードを持っていることが秀吉に対する圧力にもなります。秀吉から無理難題を要求されたときに、北条と手を組んで対決する…という選択肢をキープしておきたかったのです。 ただ、この結婚…政治向きとは違う問題があります。信幸には妻、正室がいます。病弱で頼りなげな妻…という役回りで、テレビにも何度も出てきていますよね。小松姫を正室にするには、この正妻を離縁するか、側室に格下げしなくてはなりません。

信幸の最初の妻は、父・昌幸の兄の娘です。

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真田昌幸には兄が二人いましたから、本来の後継者は長兄の信綱でした。事実、父・幸隆が引退した後は真田家当主の座についています。三男坊の昌幸は、武田信玄の意向で甲斐の旧家・武藤家に養子に出て武藤喜兵衛と名乗っています。薫という妻もその時代に京都から迎えました。

ところが、武田勝頼が織田徳川の連合軍と戦った長篠の戦で兄二人が戦死してしまいました。このままでは真田家の名跡を継ぐ者がなくなる…信州に帰って真田家を継いだのが昌幸です。

地元に帰って名跡を継いだのですが、近隣の国人衆は真田の正統な後継者と認めない雰囲気がありました。とりわけ民衆たちが白い目で見ます。

「勝頼のそばについていながら、兄二人を戦死させるような戦争をした悪い奴」

といった感じの風評すら立ちます。それだけ兄の信綱が住民たちに慕われていたということでもありますし、その指揮のもとで戦死した住民が多かったということでもあります。この悪評を漱ぐために、昌幸は兄の忘れ形見の娘を長男・信幸の嫁に迎えます。つまりは、いとこ同士ですよね。お互いがまだ10歳のころから形の上では夫婦として生活してきましたから10年以上の関係ですね。

その絆を断ち切るわけにはいきません。小松姫を正妻として迎えますが、古女房もそのまま、ただし、形としては側室ということにします。こういうところも現代感覚では理解できませんが、それが通る時代だったともいえます。

小松姫との結婚後、大名の正室は人質として大阪にとどめ置かれますから、大阪屋敷の正妻は小松姫、上田や沼田の正妻は信綱の娘…こういう役割分担で、たがいに波風は立てなかったようです。

テレビではどう描きますかねぇ。ドタバタと家庭争議など起こして面白おかしく描くかもしれませんね。

信繁ときりの方も、展開は全く読めません。果たしてどうなりますやら。

(次号に続く)