六文銭記 18 秀吉の周りで

文聞亭笑一

ここ2週間、六文銭記はNHKよりも1週間、いや2週間近く先行してしまいました。まさか信繁に「茶々のSPをやらせる」などという奇想天外な展開になろうとは思いもしませんでした。まぁ、この辺りは記録のない世界ですから…作者の自由です。

茶々、ご存知の通り浅井長政と信長の妹・お市の間に誕生した三姉妹の長女です。小谷城落城で父を失い、叔父の居城・津城で疎開生活をし、その後、母の再婚先である越前北の庄落城で、母を失います。幼少時から成人するまで…心に傷を受けるような事件の連続でした。NHKの朝ドラで「ととねぇちゃん」という番組が始まりましたが、あの長女役同様に「自分が家族を守らなければ…」という責任感が、異常なほどに大きかったと思います。

茶々…我侭で、奔放で、男好き…後には過保護ママゴン・・・こんなイメージが定着していますが、実像は果たしてどうであったのか。秀吉はなぜにあれほど茶々にこだわったのか。この辺りになると小説家の推理、推論でしかありません。「生い立ちがあって、結果がある。だからそのプロセスはこうに違いない」というストーリが幾通りも描けます。

今回のドラマでは、幸村が真田丸に立て籠もって「茶々の子・秀頼」のために獅子奮迅の活躍をする・・・というのが流れですから、幸村の献策をすべて妨害した茶々は悪党ということになります。悪党とは言わぬまでも、溺愛した息子を自由にさせず、結果として豊臣家を潰してしまった馬鹿な女という役回りですね。

秀吉が茶々を側室にしたがった理由は、幾つか挙げられています。

1、信長の姪を娶ることで、信長の正統な後継者であることを示したかった

しかし、秀吉は既に関白です。豊臣という摂関家の許しももらって、信長を権威の象徴として引き合いに出す必要はありません。たとえそうだったとしても、秀吉自らが「信長の後継者」と指名した三法師は岐阜城で織田家の正統を継いでいます。信長の弟・信雄もいれば、自分の養子にした信長の子・信勝もいます。

今更、正当性などを主張する必要もなければ、主張しても血の濃さでほかの候補に敗けます。

2、秀吉の初恋の人・お市御寮人への想いを、その娘に置き換えて果たしたかった

これもちょっと…非常識ですねぇ。母への恋慕を娘で晴らす…こんな事例は、ほかにあまり見当たりません。どこか不自然です。

それこそが天才の天才たるゆえんである。ですか・・・賛成しかねます。

3、秀吉の秘密、恥部を知っていた

  これではないか・・・と文聞亭は考えます。

秀吉は藤吉郎時代に信長の使者として何度か浅井の小谷城を訪ねています。何があったのか、秀吉は決して語りませんし、太閤記もすべて自身で検閲していますから記録も残させません。が、何かあった。それを茶々に見られた。

その上、信長の姪とは言え、茶々が可愛がっていた弟を串刺しという残虐な方法で殺した男。父も母も・・・直接手を下したのは秀吉です。小谷攻めでも、北の庄攻めでも総大将、つまり、死刑執行者です。父母の仇でもあります。

茶々の口を封ずるために…秀吉は必死に考えたと思います。一番簡単な口封じは殺してしまうことですが…功成り名を遂げた秀吉が「罪もない女を殺した」となれば、世間の信用は地に堕ちます。信長・魔王の再来と見られます。

京でも、大阪でも「太閤はん」と親しまれている政権イメージが崩壊してしまいます。秀吉が目指していたこの国の姿は「通商立国」ですから、町衆の支持は何よりも大事だったでしょう。

後に家康は「士農工商」の身分制度を作りますが、秀吉が同じ価値観を四文字で表せば、「商士工農」になった可能性もあります。堺の代表である千利休や、曽呂利新左エ門などが取巻きとして重要な政策提言をしていますよね。

さて、いかにして茶々の口を封ずるか。嫁にしてしまおう。力ずくで、男と女の関係で抑え込んでしまおう…という手に出たのだろうと思います。

信繁の担当する役割は危険です。秀吉に茶々との仲を疑われたら命取りになりかねません。

また、接近し過ぎて、秀吉の恥部など、機密を知ってしまうのも危険です。そう言う役回りに人質を使うか? ちょっとない話ですが…信繁に失策をさせて消してしまうつもりなら、あり得ます。多くの小説では石田三成が秀吉と茶々の仲を取り持ったということになっていますが、これも・・・どうだったでしょうか。大蔵卿の局に因果を含めて説得させた・・・というのが最も妥当なところではないでしょうか。息子の大野治長以下、大野三兄弟が目覚ましい抜擢を受け始めるのはこの後からです。

余談になりますが、太閤記の作者、大村幽古は秀吉の伝記を追ううち、秀吉の書いてほしくないことまで取材して、書きました。秀吉にとっては恥部ですが、幽古からみたら手柄話のような話もいくつかあります。当然、検閲している秀吉から書き直し命令が出て書き直し。これを数回繰り返したようですね。あまりの嘘の多さと、恥部に触れた時の秀吉の反応に、身の危険を感じた幽古は逃げ出しました。逐電してしまいます。

困った秀吉が、代わりに使ったのが「信長公記」を書かせた太田牛一です。こちらは手なれていますから、秀吉が喜ぶように、ある事ないこと書き加えてゴマを摺ります。それが太閤記です。

ともかく信繁、疑われないようにと「既婚者」になり済ますしかありません。ここで二番目の妻・きりさんの出番ですね。京の公家・宇田邸にいたはずですが…細かい詮索はやめておきましょう。大勢に影響はありません。

上田城は梯郭式縄張りの城

先週までは上洛に応じず、徳川の攻撃に備えていた真田昌幸ですが、自らが縄張りした上田城は梯郭式と言われる構造をしています。平地につきだした山の稜線を巧みに利用した形です。下の図は上田城とは全く関係のない京都府・木津の鹿脊山城の鳥瞰図ですが、「梯郭式」を理解していただくために引用してみました。

山の形を生かして、その尾根を階段状に削り、二の丸、三の丸などを配置します。それぞれの周辺には土塁や塀を配しますから、攻撃側は窪地に誘い込まれるようになります。それに両側から弓矢、鉄砲を射かけるという形です。

この図にある木津川市の城山は、古代から鎌倉期にかけて使われていたらしく、土木工具に乏しい時期ですから整地が不十分で何層にもわかれていますが、上田城の場合は二の丸、三の丸、それに馬出の郭から成り立っていました。その配置が実に巧妙ですから神出鬼没の兵の出し入れが可能になります。

このノーハウを、昌幸からしっかりと受け継いだのが信繁(幸村)で、その集大成が大阪城の出丸、真田丸です。ただ、この形式の城は籠城の際の水の手がないことが欠点で、水の供給路を絶たれると落城に繋がります。上田城は南を千曲川の分流である尼が淵が通りますから、井戸さえ掘れば飲料水を確保できたようです。現在の城址、真田神社の脇には「抜け穴かも…?」と言われる深い井戸があります。

切支丹

今週は、ストーリは前号に任せて周辺情報だけに徹します。

人々を動かすものは政治だけではなく、思想、宗教もあります。NHKはその性格上、宗教の問題には極力触れないような演出に徹していますが、時代を読む上では宗教は避けて通れません。

日本古来の神道は、天皇家、公家といった保護者が無力化したことで、勢いを失っています。村の鎮守様、鎮守の森…のような地方の社も、軍の陣地に転用されることが多く、宗教行事も廃れています。住民に鎮守様を盛り立てていくような経済力が枯渇していたと言った方が良いでしょう。勿論、戦国武将の中には上杉謙信、北条氏康のような神を祀ることに熱心だった人もいますが、秀吉政権は信長の「神も仏も要らぬ」という無神論的伝統を引き継いでいます。利用はするが保護はしない…という態度でしょうね。

仏教界は、もっと委縮した状態にありました。信長に徹底的の逆らった一向宗、本願寺が信長に徹底的に嫌われましたし、比叡山も焼き討ちに遭って再建のメドも立っていません。高野山も敗軍の将の駆け込み寺と言おうか、刑務所、留置所的な位置づけです。

唯一、息を吹き返しつつあるのが禅宗で、千利休、安国寺恵瓊などのとりなしで活動を開始し始めていました。

そんな中で、元気だったのが切支丹、バテレンたちです。新しいもの好きの信長に取り入り、新技術の提供と交換に布教活動に邁進しています。西日本中心に急激な広がりを見せていました。とりわけ海路の玄関口である九州中心に、燎原の火の如く信者が拡大していました。

これは、訳の分からぬ経文を唱えたり、過激に走った仏教への反動で、論理性が高くわかりやすいキリスト教に心の拠り所を求めた結果でしょう。信用できるものがない…という精神状態には耐えられないのです。

九州では大友宗麟以下の戦国大名もこぞって洗礼を受け、信者に加わり、領民にも推奨していましたから「切支丹こそ公認宗教」と言った感じです。スペイン、ポルトガルの、植民地政策の常套手段に巻き込まれていました。秀吉の周辺でも高山右近を筆頭に、黒田官兵衛、小西幸長などが熱心な信者になりつつありました。

(次号に続く)