六文銭記 20 沼田裁定

文聞亭笑一

信繁の初陣とされる小田原攻めを、今か、今かと待ち受けているのですが…、中々その場面になりません。ぼちぼち今週あたりは動きが出るかと、小田原・北条に関して書いてみます。

北条5代

読者の一部の方は鎌倉幕府の尼将軍・北条政子の末裔と勘違いされておられるようです。それもあって、歴史書などでは前北条、後北条と表現します。鎌倉幕府の執政であった北条家を前北条、戦国の世に入ってから北条早雲が創業した小田原北条家が後北条です。

早雲がなぜ北条を名乗ったか…。資料がありませんので推論の域を出ませんが、早雲は小田原に進出する前に駿河から伊豆に入っています。伊豆・修善寺界隈にいた関東公方の末裔を倒し、伊豆の国を乗っ取るところから創業しています。「伊豆と言えば北条のルーツ」そんなブランドイメージを引き継ごうと考えたのではないでしょうか。

創業者の北条早雲の元々の名前は伊勢新九郎です。京都・室町幕府の執政・秘書室長のような役割であった伊勢家の一族ですが、その傍流の末弟ですから政治には無縁でした。ただ、伊勢家が代々の将軍に献上する鞍造りに才能があったようで、伊勢流と呼ばれる鞍職人の匠をしていたようです。

こういう風采の上がらない人が、ひょんなことから駿河に行くことになります。

大番役(交代制京都守護)で京に来ていた駿河の大名、今川家の御曹司が、伊勢家の領地である山城の国・田原の女性を娶ることになり、国許に連れ帰ることになりました。伊勢家の養女という格付けをした手前、その番頭役が必要です。その役が、無役で遊んでいた新九郎に回ってきます。

駿河でも、奥方のおつきですから大した仕事はありません。ただ、京育ちであるだけにあらゆる面で教養があります。おのずと若い人たちが集まってきて、サロンというか一つの勢力が出来てきます。

そんな折に、当主が戦死してしまいました。家督相続の内紛がはじまります。当主の子供はまだ5歳、一方当主の弟は働き盛りです。血筋をとるか、実力をとるか…信長の場合もそうでしたが、戦国の世ではこんな争いが日常茶飯事でしたね。だからこそ…家康が幕府を開いて、真っ先に決めた法律が「長子相続」でした。

それぞれに派閥が出来て内乱になります。新九郎は幼君派のリーダ、弟派は権威づけのために関東管領に援軍を求めます。調停に乗り出してきたのが「七重八重 花は咲けどもヤマブキの…」の歌で名高い太田道灌です。道灌の裁定は「幼君成人まで弟が領主」というものでした。三十数戦して無敗、関東の軍神と言われる道灌が、軍を率いて来ての裁定ですから受けざるを得ませんね。

ところがそれから数年後に、太田道灌は主君の上杉定正に暗殺されてしまいます。暗殺の理由は「道灌が上杉家を乗っ取る準備をしている」というものでしたが、そういう風評を流したのが伊勢新九郎、後の早雲ではないかという説もあります。

ともかく、道灌がいなくなれば関東からの脅威はなくなります。今川家の家督を幼君に戻し、早雲は今川から独立して伊豆を獲りに行きます。さらに小田原にまで触手を伸ばします。

徒手空拳で京都から出てきた男が、なぜこのような快進撃が出来たのか。その理由は早雲の税制にありました。戦国期の税率は一般的に5公5民の原則より増税されて、6公4民に近かったですね。それに対して、早雲の支配地では4公6民という軽減税率を適用していました。人気が出て当然です。住民の方から「早雲に来てほしい、領主になってほしい」という要望が高まります。

なぜ、こういうことができたのか。小さな行政府だからです。いわゆる役人を設けず、村々の自治にゆだねます。軍隊も武将と呼ばれる専門軍人は指揮官だけにし、徴兵ではなく義勇兵だけで構成します。

これは、支配地が次々と拡大していきますから薄利多売で利益が出る構造です。昭和の高度成長期に中内功さんがやった方式ですね。支配地が拡大していけば、この方式が成り立ちます。

後北条の三代目、氏康の時代まではこの方式で急成長していきます。伊豆から始まって、相模、武蔵、上総、下総、安房…このあたりまでは燎原の火のごとく拡大路線が成功します。しかし、そこから先、四代目の氏政の代になってから壁に当たります。常陸の佐竹、下野の佐野、宇都宮、上野では上杉や武田と結んだ勢力が抵抗します。拡大路線が頓挫してしまいます。多方面で戦闘が続きますから軍費もかさみ、切り札の低税制が維持できません。税率上げ、役人による取立て強化、徴兵制の施行…これで、普通の大名と同じになってしまいました。

秀吉からの上洛要請(指令)が来たのは、そういう時期に当たります。三代目の氏康時代の北条人気はありません。むしろ、あちこちの小競り合いで負け戦が続いていましたから、人気は低下していましたね。そのあたりを4代氏政、5代氏直が理解していなかった節があります。氏康時代の栄光に浸っていたのかもしれません。「売り家と 唐様で書く 三代目」という古川柳がありますが、氏康から3代目に当たるのが氏直です。

もう一つ、後北条の民衆対策を紹介しておくとすれば、寺社への寄進が多かったことも人気の一つであったと思われます。関八州と言われる範囲にまで及んだかどうかは知りませんが、相模から南武蔵にかけては各村の鎮守様の社の集約と建設に積極的でした。これは軍事上の野戦陣地の構築を兼ねます。城や砦を築くのではなく、社や寺を戦略拠点に配置し、いざとなれば軍事基地にしようという一石二鳥の打ち手だったと思われます。

民衆から見れば、朽ちかかったお社を立派に再建してくれますから「ありがたや、ありがたや」となりますね。このあたりも早雲、氏康の時代の功績でしょう。

沼田裁定

「北条が度重なる上洛要請に応じないのは、沼田問題が決着していないからだ」と言い出したのは、たぶん家康でしょうね。家康は上洛後、秀吉との対決姿勢から忍従作戦に切り替えています。この態度は信長政権の時も同様でしたから、それほど苦になることではありません。元に戻っただけです。

その態度をとるにあたっては、信長時代からの「家康は律義者」 つまり、約束を守る男だ…という評価を確立しておく必要があります。その意味からいうと、北条と約束した「上州は北条に…」という約束が果たせていません。この実現を契機に、北条を上洛させて、豊臣政権下での家康派閥を構築しようと考えていたのではないでしょうか。手組する相手は織田信雄、徳川家康、北条氏直という組み合わせでしょう。関東から東海にかけての14か国に及ぶ大勢力です。秀吉に対する圧力団体としては十分すぎるほどです。

こういう政治構図…秀吉が察知しないはずがありません。ましてや自分に世継ぎの子が生まれたら、政権の永続を考え始めます。ライバルの意図は、育たぬうちに摘み取るのが当たり前ですから、家康と北条との間の懸案事項に細工をします。

三方一両損…というのが秀吉の沼田裁定でした。真田の上州領のうち、沼田を含む利根郡の南部を北条領と認める。しかし、吾妻郡と利根郡の一部・名胡桃城は真田領とする…というものです。

真田にとっては、上杉・北条・徳川の大勢力のはざまの中で守り抜いてきた沼田を明け渡すことは断腸の思いです。とりわけ、北条の執拗な攻撃に耐え抜いてきた矢沢頼綱にとってつらい決定です。

ただ、真田家という単位でみれば、信州・伊那の箕輪領を代替え地にもらえば損はしません。

北条家にとっては、上州すべて貰うはずが…一郡貰い損ねます。吾妻郡は山ばかりで実入りの大きな土地ではありませんが、日本海側との交通にとっては重要な位置です。そして、目障りな名胡桃城が、利根川上流から沼田をにらんでいます。

徳川にとっても、伊那の領地1万4千石を真田に渡すことになります。しかも、北条から「家康は約束を守った律義者である」とは認められません。それどころか「約束が違う。秀吉に再交渉してくれ」という抗議の催促が頻繁に入ります。かえって事態がややこしくなってしまいました。

この裁定をした段階で、秀吉に北条つぶし、小田原攻めの意思があったのかどうか…実に微妙ですね。

北条は氏政、氏直こそ上洛していませんが、代理を上洛させ、秀吉政権に従うという意思表示だけはしていました。条約は締結したが批准していないという状態です。

北条と徳川がもめている…これは、秀吉にとって悪いことではありません。できればどちらかが喧嘩を仕掛けて、秀吉が発布した不戦命令・総無事令に違反してくれたら、これ幸いと戦争に及び、片付けてしまうことができます。

名胡桃(なぐるみ)城乗っ取り事件

事件のいきさつに関する記録はありません。が、主将・鈴木主水の留守中に、北条の猪俣能登が名胡桃城を乗っ取ってしまった…というのは事実です。

この事件は、鈴木主水の娘婿が「城主にしてやる」と北条から誘惑されて起したという説があります。一方、秀吉の近習であった真田信繁が仕組んだという説もあります。紹介してみます。

秀吉は近習の若者を集めて政策談義をするのが好きだった。あるとき、北条が上洛しないのに腹を立てた秀吉が「どうしてくれようか」と若者たちに尋ねた。征伐、懐柔などいろいろ意見が出たが、これと言った名案も出なかった。

その時、真田信繁が「私にお任せくだされば戦のきっかけを作ってご覧に入れます」と提案

それが名胡桃城事件のきっかけで、真田方の「やらせ」だったというのです。

乗っ取りの顛末をたどれば…

名胡桃の守将・鈴木主水に上田の真田昌幸から呼び出し状が届きます。「折り入って相談したいことがあるから上田まで来い」という内容です。主水は「一時も城を空けるな」と言われていたのに「???」と思いながらも、娘婿の中山九郎兵衛に後を託して鳥居峠に向かいます。

しかし途中で、気になったので岩櫃に寄り、矢沢頼綱に相談します。「そんなはずはない」と一喝され、慌てて城に引き返すと、城には既に北条の旗が林立していました。乗っ取られてしまっていて、城からは主水一行を銃撃してきます。さらに進もうとすると、城の塀の上に抵抗して殺された部下の生首が並べられます。「もはやここまで」と、主水は責任を取って切腹して果てた、ということになっています。

問題は誰が主水への「呼び出し状」を書いたかです。鈴木主水は真田昌幸の古参の部下ですから筆跡を見間違えることはないように思います。昌幸自身が、この計画に一枚加わっていたとすれば…かなり悪質な陰謀です。乗せられてしまった猪俣能登守への工作は、誰がしたのでしょうか。

(次号に続く)