六文銭記 34 狸囃子高らかに

文聞亭笑一

徳川家康と言えば、誰でも連想する代名詞が「狸親父」ですね。狐(こ)狸(り)といえば狐と狸で、どちらも人を騙(だま)す、たぶらかすと言われてきました。狐と狸の化かし合い…などと云うのは時代を問わず日常茶飯事で、政治や商売に限らず人間社会にはつきものです。「良くない」「美しくない」と子供たちには教えますが、その実、教師たちとて清く、正しく、美しくでは生きていけないのです。程度の大小、陰陽、騙しの巧拙、そんなもので評価が決まっていきます。「悪い奴ほどよく眠る」という題名の小説、映画がありましたが、騙しの巧い者が天下をとります。

前回、豊臣VS徳川…寧々VS茶々…という二次元で五大老、五奉行、七将の立ち位置をプロットしてみましたが、二次元で説明できるほど単純ではないにしろ、三成と家康が対極にあり、それを取り巻く人々は、その直線上にいるのではないということは御理解いただけたのではないでしょうか。加藤清正の立場、考え方は決して家康の味方ではありません。お家第一、豊臣大事という点ではむしろ、家康とは対極にあります。

政権交代を狙う家康の野心には、4大老、4奉行が警戒しています。ただ一人、増田長盛だけが日和見というか、イソップ物語の蝙蝠(こうもり)のような役割を演じています。三成が秀吉の官房長官であった立場を、家康の下で取って代わろうという野心からです。三成がうかつだったのは、そのことに最後まで気が付かなかったことですね。三成方の動きは逐一、増田ルートで家康に筒抜けでした。これは関が原戦の最後まで続きます。身中の虫に気づかず、最後まで信頼してしまっていたことに、三成の失策の原因がありました。

七将の乱(三成襲撃事件)

清正以下の七将(加藤、福島、黒田、細川、浅野、蜂須賀、藤堂)が三成を襲撃したのは朝鮮役における報告、評価、処分に関する怨恨が原因です。言い換えれば現場vs本社スタッフの争いですね。良くある話です。私なども何度も経験してきました。現場にいるときは「現場を知らん本社の公家どもが…」と批判し、本社企画にいた時は「経営の意志を知らぬ現場の馬鹿どもめ」と逆のことを言っていました。何れも意思疎通の欠如で、話せばわかることなのですが、互いに徒党を組んでしまうと、話し合いの場が持ちにくくなります。経営VS労組なども同じで、変な意地が出てきて議論を膠着させます。引くに引けない変な雰囲気になって…暴力沙汰になっていきます。

小説や物語には「清正らは三成の罷免を要求した」という部分しか書きませんが、清正たちが要求したのは三成と増田長盛の二人の罷免です。清正からすれば「報告を捏造した主犯は長盛、それを確認、修正もせず秀吉に伝えた三成は共犯」と思っていますから、事件後の家康の処置には大いに不満でした。事件後も、何度も増田長盛の罷免を家康に要求しています。これを敢えて無視した家康、7将を加藤派(清正、浅野、細川)と、福島派(正則、黒田、蜂須賀、藤堂)に分断しようと手を尽くします。福島、蜂須賀には養女を嫁入りさせ、黒田、藤堂は豊臣家の重臣並みに厚遇します。そして増田には脅しをかけながら、恩を着せます。

これがあるので、清正は上杉征伐にも関が原にも参戦していません。浅野幸長はやる気なく、最後尾に陣取っています。細川だけは前線で奮戦しますが、これは愛妻・ガラシャを三成に殺された恨みを晴らすための敵討ちで、石田陣だけに向かって死闘を繰り広げました。

後の話になりますが、関が原前夜にガラシャ夫人を死に追い込んだのは石田三成の配下ではありません。細川屋敷を囲み、死ぬしかない状況に追い込んだのは増田長盛の兵でした。細川屋敷の炎上、ガラシャの死を知って三成は「なんてことを…」と天を仰いでいます。

狸の化かし その1 前田利長への威嚇

 この時点で家康の対抗馬として最大勢力だったのは前田利家の跡を継ぎ、秀頼の守役を引き継いだ前田利長でした。ともかく、家康がいかに多数派工作をしても「玉・秀頼」は利長の手中にあります。これに攻撃を仕掛ければ「賊軍」のレッテルを張られ、他の大老はもとより、諸大名から一斉攻撃を受けます。政治生命が閉ざされます。

この前田から、いかにして秀頼を取り上げるか…悪知恵というか…、謀略を仕掛けます。

先ずは、5月29日に利長の家督相続披露宴がありますが、招待を受け、受諾し乍ら欠席し、代理の本多平八郎を出席させます。そして宴席で「家康を暗殺する者がいるというので、わしが来た」などと演技させます。その後の「利長による家康暗殺未遂事件」への布石でしたね。これも増田長盛から情報を仕入れていたからでもあります。増田は「前田がいなくなれば守役は増田だ」などと鼻薬を利かされていたようです。

その後、家康からの度重なる薦めで、利長は金沢に帰国します。これは、五大老の先輩である上杉景勝が帰国したので大阪に残るのは前田と徳川だけになり、不安になったためかもしれません。ただ、このことは父・利家の遺言違反で、家中からも非難されますし、裏切りも出ます。

利家の遺言は

1、断固として秀頼の元を離れるな

2、3年間、帰国してはならぬ

3、前田の大阪屋敷には8千の兵を、金沢には8千の兵を用意し、緊急出動態勢をとれ

と言うものでした。戦国を生き抜いた創業者の勘というか、知恵でしたね。3年以内に家康が必ず動く、と読んでいました。利長の帰国は二代目の甘さでしょうか。企業でも良くある話です。

利長の帰国は8月28日です。利長が金沢に帰ったのを見計らったように、9月9日に家康暗殺事件が発生したと、でっち上げをします。重陽の節句に出向いた家康を襲う計画が発覚した…というもので、実行犯は茶々の側近・大野治長と土方雄久、指揮したのが浅野長政、黒幕が前田利長と言うものです。要するに秀頼の側にいたものを一掃してしまおうという謀略です。

これは根も葉もないうわさではなく、実際に茶々の周りで話題になっていたようで大野、土方が座興で話した計画が、そのまま家康に利用されてしまいました。この話を家康にリークしたのは織田有楽斎(茶々の叔父)か、増田長盛だろうと言われています。家康の多数派工作は、茶々のすぐそばまで及んでいましたし、寧々も取り込まれていたようですね。

大野・土方は即刻逮捕され江戸に送られます。

浅野長政は無実を訴えますが、領国である甲斐で謹慎、蟄居

そして、前田征伐が布告されます。これが10月3日。大老で大阪にいるのは家康一人、奉行も浅野が被告人ですから、残るは長束正家と前田玄以、それに仕掛け人の増田長盛…まさに家康劇場ですねぇ。これに驚いて、前田利長は全面降伏、母親を江戸に人質に送ります。

狸の化かし その2 毛利輝元への揺さぶり

毛利輝元は「バカ殿」のように書かれることが多いのですが、馬鹿ではありません。叔父二人、小早川隆景、吉川元春が偉大過ぎて、目立たなかったにすぎません。

豊臣政権が全盛期のころ、毛利家はNo2の立場でした。五大老のうちの二人は輝元と隆景で、小早川隆景が五大老筆頭です。豊臣政権の主流中の主流です。輝元と隆景は大阪で秀吉政権の中核をなし、国許は吉川が管理するという…毛利元就の遺訓通りの「三本の矢」が機能していました。が、まず吉川元春が他界します。次に小早川隆景が他界します。責任は輝元一人に掛かってきたうえに、秀吉は毛利に代わって徳川家康と前田利家を政権の中核に指名しますから、輝元はNo3の地位に落とされます。…こうなると、焦りますよね。

秀吉が死んで、世間の注目は家康、利家に移ります。輝元としては、何としてでもこの二人に伍して「毛利ここにあり」と政権争いに名乗りを上げなくてはなりません。そこで選んだのが、五奉行を牛耳る石田三成への接近です。安国寺恵瓊を間に立てて、この関係は上手く行きました。石田三成がアンチ家康の旗手として、毛利の名代の役を果たします。

総理大臣・石田三成、 官房長官・安国寺恵瓊、 政権与党総裁・毛利輝元

これが輝元の夢見た政権構想でした。が、これは祖父・元就の遺訓「天下に覇を夢見るべからず」に反します。吉川、小早川はじめ、老臣たちの反発を招きます。不協和音が出てきます。

毛利家の弱みは、豊臣家同様に子宝に恵まれなかったことで、輝元に子がいません。小早川にも養子の秀秋を迎えています。そこで一族の中から養子・秀元を立てますが、毛利、小早川、吉川三家の領地分担で揉め事が起きます。秀元は毛利3兄弟の弟(元就の4男)の子でしたから、三家による調和を崩してしまいました。秀吉、三成による調停が上手く行かず揉めていたところに、五大老筆頭となった家康が仲裁に入ります。仲裁というよりは内政干渉で、火種を大きくする役割を買って出ましたね。毛利の結束を弱体化させます。

狸の化かし その3 宇喜多家の内紛に放火

宇喜多秀家は信長による毛利攻め以来、秀吉の養子として秀吉、寧々に大変可愛がられてきました。妻は前田利家の長女・豪姫です。鶴松、秀頼が生まれなければ…豊臣二代目社長になっておかしくない生い立ちです。

ただ、大阪育ちの大阪暮らし、国許は「よきに計らえ」という放任になります。宇喜多家は、下剋上で成り上がった家です。国人たちの連合で出来た組織ですから、統率ができていません。

秀家は石田三成、長束正家の力を借りて領国改革を始めました。当然、旧勢力を排除した集権体制、官僚機構の経営方針になります。大阪詰のエリートを送り込み改革に掛かりましたが・・・上手く行きません。利権を主張する旧勢力の抵抗に遭い、それを強権で排除しようとしましたから謀反騒ぎになります。現代でいう労使紛争、団交、デモ、ストライキですね。

これに、チャンスとばかりに家康が介入してきます。内政干渉でもありますが、国家の要である大老の会社が揉めていては諸大名に示しがつかぬ…という名目ですねぇ。反乱者は国外退去としますが…江戸に送って家康が召し抱えてしまいます。

人事権にまで介入されて、秀家は面目丸つぶれ。家康憎しに凝り固まります。

…狸の化かしは、島津、長曾我部などなど多方面にわたります。凄い情報力です。

今回は増田長盛を徹底的に悪く書きました(笑) こういうタイプの人って多いのです。小才が利いて、器用で、定見がなく、ゴマすり名人・・・必ず出世します。が…こう言う人がはびこると会社は潰れます。豊臣家を潰したのは三成ではなく、増田長盛だったと思っています。

(次号に続く)