六文銭記 33 風雲渦巻く

文聞亭笑一

先週あたりから家康が天下取りに動き始めました。戦争という暴力的手段ではなく、政治的駆け引きで多数の支持者を集め、政敵を次々に葬っていく…という外交手段です。実に平和的手法ですから現代人からは拍手喝采と思いきや・・・そうではなく「汚い」「狸親父」などと嫌われていますから、世間の評価というものは様々な価値観が渦巻くものですね。この辺りの家康の動きを評価し、正当化しているのは山岡荘八の「徳川家康」くらいなもので、殆んどの作家は否定的、ないし好意的ではありません。最終的には関が原の合戦という大戦争に繋がってしまったからかもしれませんし、大坂の陣で豊臣秀頼を追いこんでいくプロセスのいやらしさ、小汚さが家康のイメージとして定着してしまっているからでしょうね。

秀吉の死後、多くの政治家(大名・武将)が家康の下に結集していきます。石田三成やその他の大老たちの所に集まる者がいない…と錯覚し、「石田三成には人徳がないからだ」とする見方が一般的ですが、人徳…などという意味不明なものではなく財力、兵力などの裏付けのなさが、三成の致命傷だったのではないか…と思っています。

豊臣政権下での序列

秀吉の存命中から五大老、五奉行という仕組みは機能していました。が、決定権は秀吉にあって、五大老は諮問機関、五奉行は執行機関としての位置づけです。

これが、合議制に代わります。ただ、一人一票という現代感覚とは違いますね。一票の重さが違います。石高がそれで、家康の発言には256万石の重さがあります。それに対して石田三成は19万石の重さしかありません。ちなみにこの物語の主人公・六文銭の真田は僅か8万石で、しかも、その半分の4万石は信幸ですから、発言権など「ない」に等しい存在です。

石田三成は五奉行のリーダであるように描かれますが、実は五奉行の中でも序列は下から二番目でした。五奉行の筆頭は寧々の親戚筋の浅野長政で甲斐30万石、二番手が前田玄以です。前田玄以は石高こそ5万石ですが、豊臣政権下では寺社奉行や、朝廷とのパイプ役を担当しており、石高とは別次元の権威を持っていました。敵に回すと厄介な存在です。三番手が増田長盛で大和郡山20万石と三成と同格ですが、豊臣家の経理担当役員、つまり金庫番です。大阪城の蔵に眠る大量の金塊、これの管理者ですから三成よりも重みがあります。従って三成は4番手、下から数えて二番目です。これは「人徳」とは違うと思いますねぇ。

財力、兵力のほかにも権威という序列があります。

秀吉亡きあとの政権で最も位階が高いのは…寧々、北政所です。従二位ですからね。これを忘れてはいけません。この権威の元に加藤清正(25)、福島正則(20)、浅野幸長(16)、黒田長政(18)などの荒小姓上がりの面々が集います。さらには小早川秀秋(35)、宇喜多秀家 (57)なども寧々を母親同然に慕います。( )の中を単純計算すれば171万石の大勢力です。従って寧々の意向というのは隠然たる力を持っており、前田家(102)なども利家の妻・お松のルートで、寧々とは親密な関係にありました。その意味で、家康に対抗できる勢力は…寧々であったと言えます。

石田三成の失策はこの寧々の勢力、政治力を無視、ないし敵に回してしまったことでしょう。前回の放送で、博多での引き揚げ兵慰労会を中座する場面がありましたが、あの場面は決定的でしたね。寧々のシンパを完全に敵に回してしまいました。

あの場面は、秀頼大切、「秀頼を頼む」という秀吉の遺言を盾に、徹夜も辞さず無制限一本勝負で徹底して武将たちの説得に当たるべきでした。そうしなければ大阪を留守にして博多まで出迎えに行った意味がありません。武将たちの集中砲火から逃げた…これが、その後の七将の乱を招きます。三成が準備したせっかくの慰労会が、反三成派結成大会になってしまいましたから、敵に塩を贈る結果になりました。

これは・・・人徳の一部かもしれませんが三成の覚悟のなさでしょう。

「豊臣」という政権の本質が分かっていなかったからでしょう。

「秀頼・茶々」という人質を掌中にしている…という奢りでしょう。

前田利家の立場

前田利家は信長時代からの秀吉の盟友です。というより、先輩ですね。

信長は利家のことを、その幼名・犬千代にちなんで「犬」と呼び、秀吉はその容貌から「猿」と呼んでいました。犬と猿では仲の悪い代名詞のようなものですが…、家族ぐるみの付き合いで、とりわけ女房同士が親友でした。子のない寧々が最初にもらい受けた養子「豪姫」は利家とお松の長女です。この豪姫を嫁に出した先が、同じく養子にしていた宇喜多秀家です。そういう点では二重三重に閨閥を作り、政権の安定を図っていました。

その利家が、秀頼が大阪城に戻ってからの守役になります。戦略用語に「玉を握る」という言葉がありますが、玉(大義)を握ったのは利家です。いわば摂政ですね。

ただ、この時すでに利家は末期癌に侵されていたようです。大量吐血して死んだとありますから胃癌、ないし食道癌、さもなくば、大酒飲みでしたから食道静脈瘤破裂でしょうか。

ともかく1月10日に着任して、閏3月3日に死去していますから、僅か3か月の守役でした。

この間に家康への詰問状事件があります。清正らによる三成襲撃未遂事件があります。テレビでは息子の利長が大老会議に代理出席していますが、大事件の折には自ら参加してリーダシップを発揮したとみる方がよさそうです。

「わしの目の黒いうちは家康に勝手な真似はさせぬ」と、各種の調停に乗り出しますが、体力の限界でしたね。利家の死で政局は大きく動きます。

前田、徳川の相互訪問

 詰問状事件など、一触即発の軍事危機を回避するために、利家は病身を顧みず伏見の家康の元を訪ねます。この時、利家は家康と刺し違えるつもりであった…などと書く歴史小説が多いのですが、気持ちはそうであったとしても、体力的には不可能だったでしょう。大阪から伏見まで、船旅をしただけでも相当な体力の消耗です。

ともかく、利家の伏見訪問、答礼として家康の大阪訪問で一旦は事が収まります。

が、この事件を契機に家康が反石田の7将に分断工作を仕掛けます。家康としては、寧々派が結束することは好ましくないわけで、豊臣勢力はできるだけ分解してしまいたいという策を弄します。

まず、家康が警戒したのは加藤清正です。秀吉子飼いの大名の中では、政治的、軍事的に最も実力があり、しかも豊臣第一で家康派には引きこみにくい代表ですね。清正を中心に7人の結束が固くなっては後々面倒になります。

そこで打った手が接待に差を付ける…という子供だましのような差別化でした。徳川・前田会談の護衛を7将が自主的に分担したのですが前田利家の護衛をした加藤清正、浅野幸長、細川忠興の三人は奥に入れず、家康の護衛を担当した福島正則、黒田長政、藤堂高虎、蜂須賀家政を奥に招じて大接待をします。ミエミエの嫌がらせですねぇ。

これが、後々の関ヶ原合戦にまで尾を引いていきます。

加藤清正は関が原に参戦しません。黒田官兵衛と九州での第三勢力化を狙います。

浅野幸長は関が原では最後尾に回されます。

細川忠興の場合は、関が原前夜に石田方に妻(ガラシャ)を殺され、家康派に就きます。

つまり、前田派とみられた3人は一歩引いた形で関が原を迎えます。

それに引きかえ、接待された方は家康の手先になっていきます。福島、蜂須賀はともに家康の養女を嫁に迎えましたから当然かもしれませんが、黒田長政は「石田憎し」の急先鋒となり、家康の外交官的な役割を担います。毛利、小早川を始め、関が原で寝返った者たちの殆どは黒田の調略の成果だったようです。

また、藤堂高虎はもっと積極的に家康に近づきます。高虎は他の6人とは違って寧々の薫陶を受けていません。寧々派ではないのです。高虎は元々、秀吉の弟・秀長の家老です。秀長の没後、身内を粛清していく秀吉に嫌気がさして浪人したのですが、家康のとりなしなどもあって大名に復活しています。

今週、7将による三成の襲撃、三成が家康邸に逃げ込み、そして隠居…という所まで行くのかどうか。見当がつきませんが、テレビの方でお楽しみください。

sya

(次号に続く)