六文銭記 31 動乱の兆し

文聞亭笑一

桐の木は、その幹が中空です。芯がありません。家具材として重宝され、桐ダンス、桐箱などは高級品の代名詞のようになっています。軽くて、防湿性があるからでしょうね。昔の田舎では女の子が生まれると桐の木を植え、花嫁道具の支度に…などと言われました。成長が早いのも、特徴の一つです。

豊臣家の家紋は五三の桐です。秀吉というカリスマ、芯があってこそ成り立っていた組織ですが、秀吉の衰え、死と共に芯がない、普通の桐の木のようになっていきます。

秀吉は死の直前に五大老、五奉行の入れ替えをしています。直接の原因は、最も信頼していた小早川隆景の死で空席になった大老職に宇喜多秀家を付けたことですが、秀吉の死後に家康が五大老の筆頭になるであろうことを予測し、前田利家の地位を上げる措置をしています。

宇喜多秀家を大老職に就かせたことがそれで、宇喜多秀家の奥方・豪姫は前田利家の娘を秀吉が養女にして輿入りさせた縁があります。前田家ともつながりのある宇喜多を加えることで、利家の地位の向上を図りました。さらに、秀頼の守役の立場を預けます。

「実力では家康だが、豊臣家の柱石は前田利家である。利家の意志が秀頼の名代である」

こんな位置づけでしょうか。前田家の地位が急浮上した形になり、相対的に毛利の地位が下がる形になりました。毛利輝元、小早川隆景の二人が一人に減り、かつ、前田の後塵を拝することになりますから面白くありませんね。しかも新任の宇喜多は前田の婿で、秀吉の養子だったということから豊臣の準一族でもあります。毛利両川と言われた小早川、吉川のうち、一方の小早川家も秀吉の養子・秀秋に乗っ取られたような形です。豊臣家との間に、隙間風が流れ込んでくる状態でした。

政権の中核である五奉行も、一枚岩ではありません。五奉行の筆頭は寧々の親戚・浅野長政ですが、これは名前だけで実務の殆どは石田三成が采配を振るいます。三成の専横を面白く思っていないもう一人が増田長盛で、秀吉がいなくなれば自分が奉行筆頭として采配を振るいたいという野心を持っていました。さらに、前田玄以も寺社担当という職域に閉じこもり、三成に協力的ではありません。三成のシンパとしては長束正家だけでした。

朝鮮撤兵

秀吉死後の最大の政治課題は朝鮮との講和、撤兵です。朝鮮との戦争にこだわっていたのは、この時期になると秀吉一人で、厭戦気分に満ち溢れていました。このことは石田三成とて同様で、やめたくて仕方がなかったのでしょう。ともかく、戦争は湯水の如くに資金を流出させ、国内経済を疲弊させます。

「やめよう」「賛成」五大老の取締役会でも、五奉行という執行役員を加えた会でも、全会一致ですね。さて、どう講和し、どう撤収するか・・・「実務は奉行衆で良きに計らえ」となります。

そうなると、戦争遂行を担当していたのは石田、増田、大谷刑部でしたが、三成が陣頭指揮するしかありません。それは戦場で軍監を務めていたのが三成の妹婿・福原直堯でしたから、現地事情に最も精通していたからです。ある意味で、このことがその後の事件を引き起こします。

長期間、大阪を空けたことも三成にはマイナスでしたね。浅野、増田などが家康の多数派工作の標的になり、五奉行の足並みの乱れを大きくしました。

それ以上に深刻だったのは朝鮮から帰国する将兵との亀裂で、秀吉に譴責処分を受けた清正、黒田長政、蜂須賀家正、浅野幸長などは三成派と言われる小西行長や、福原直堯を心底から恨んでいました。命が危険にさらされたばかりか黒田、蜂須賀は減封処分まで受けています。出迎えた三成に唾を吐きかけた武将もいたようで、博多の街は大混乱だったようです。

こういった政権内の亀裂、混乱は真田昌幸のような野心家、中小政党にとってチャンスですね。強くて安定した政治体制の下では活躍する場面がありません。昌幸同様に牙を研いでいたのが、伊達政宗であり、黒田官兵衛でした。関が原戦への布石は、既にこの辺りから始まっています。

秀吉の遺言

秀吉は死ぬ直前の8月5日に5か条の遺言を残しています。

1、大老は秀吉の遺言を遵守すること。互いに縁戚関係を取り結ぶこと

2、家康は今後3年間在京すること。所要あれば秀忠を下向させよ

3、家康は伏見の留守居役とする。五奉行のうち長束、前田ともう一人は伏見にいること

4、五奉行のうち残る二人は大阪城の留守居を務めること

5、秀頼の大阪入城後、諸大名の妻子は大阪に移ること

最後の最後まで、政権を安定させて10年後に秀頼が関白として政権に就くようにと執念を燃やします。この時の秀頼は6歳の子どもですからね。心配でたまらなかったと思います。

遺言1の具体例として秀頼と千姫の婚約を決めています。互いに親戚になることで争いを防ごうという考えです。

遺言2は家康の帰国、反乱を警戒しています。遺言3、4と合わせて、家康の動きを封じようということでしょう。長束正家、前田玄以は見張り役のようなものです。この二人以外を名指ししていませんが、それは浅野、石田を大阪・伏見双方に使いたいからでしょう。時と場合でどちらにも動ける配慮をしています。

遺言5は「人質は大阪に置く」ということですね。つまり、政治の本拠地は大阪城で、伏見ではない…と宣言しています。何事も秀頼の名を持って行え…ということでもあります。

この後の政治日程ですが、目まぐるしく動きます。

3月15日 醍醐の花見

6月 中旬 五大老・五奉行に11か条の覚書を発布

8月 5日    々    5か条の遺言

8月18日 秀吉伏見城にて死す 享年62歳

9月 3日 石田三成など五奉行が朝鮮撤兵のため博多へ

9月~11月 家康伏見の大名家を頻繁に訪問・・・多数派工作開始

福島正則、伊達政宗、蜂須賀家正と縁組を進める

11月末  朝鮮からの撤収完了 石田三成ほか大阪に戻る

1月10日 秀頼大阪城に移る

1月19日 四大老、五奉行が家康の縁組の動きを詰問  一触即発の軍事危機

2月 5日 家康が詫びを入れ一件落着 しかし婚儀は取り消されず承認

三谷脚本はこの辺りをどう描きますかねぇ。ともかく豊臣の家臣団が事あるごとに分裂し、三成派と清正派に分かれていきます。

さて、この辺りから登場人物が増えますので当時の大名配置図を掲載しておきます。そのまま関ヶ原の色分けになりますのでご参考に。(数字は石高=軍事力 記入漏れも多し)

(次号に続く)