六文銭記 24 小田原万博

文聞亭笑一

北条氏政がしぶとく粘っています。先週あたりで一件落着・・・かと思っていましたが、まだ降参しません。それはそうでしょうね、関東各地にある北条方の城はそれぞれに善戦しています。  十倍近い敵に包囲されながらも、簡単に明け渡した城はありません。松井田城、鉢形城、八王子城、その他の小城も善戦しています。

ましてや忍城(埼玉県行田市)などは、いまだに抗戦中です。しかも、いずれの城も・・・城主は小田原に詰めていて留守番部隊だけなのに、籠城したまま落ちていません。それを見捨てて降参とは言い難かったでしょうね。早雲以来の北条家の伝統は愛民、領民たちとの共同体なのです。

小田原評定…結論の出ない、下手くそな会議の代表にされていますが、実を言えば会議のメンバはいずれも地元で家族や、親類縁者が玉砕しているのです。最後まで降伏に反対した北条氏照の八王子城では、落城の際に氏照の正室はじめ家族全員、奥の女たちは自決し、自決しきれない者たちは滝つぼに飛び込んで死んでいます。三日三晩、多摩川が血の色に染まったなどとの伝承も残ります。私の家の近くの矢上城、ここの城主・中田加賀も小田原に詰めていましたが、家族らのことは分かっていません。

部下たちが多大な犠牲を払っているのに、自分たちが生き残る・・・これは、できない相談でしょうね。ともかく、小田原城内には家族を失った城主や、代官たちが、決死の覚悟で氏政の決断を見守っていたのです。

「日本の一番長い日」という映画がありました。沖縄が陥落し、広島、長崎に原爆が投下され、戦争は明らかに負けです。にもかかわらず「降参」と言えないのです。

小田原評定を馬鹿にしたのは・・・勝った方の秀吉と、後の徳川幕府ですが、「降参すらできなかった氏政」の心情を想うと、暗澹とした気分になります。

忍城水攻め

忍城攻略軍の総司令官に任命されたのは、何と…石田三成でした。大抜擢です。

小田原包囲軍には日本全国の有力大名が総て参陣しています。<全日本vs小田原>です。

そして、数ある関東の城の中で最後に残ったのが忍城でした。北条一門の城ではありません。北条家与力の成田氏の留守番部隊2000人が守る城です。城主の成田氏親は主力部隊を率いて小田原に籠城しています。

数年前に、野村萬斎が主役で「のぼうの城」という映画がありました。その舞台になったのが忍城です。ついでに、「のぼう」とは木偶の棒(デクノボウ)のことで、出来の悪い奴、無能という意味ですよね。城主や主力部隊が小田原に行き、留守番部隊をまとめていた兄が死に、代わりが居ないからしょうがなしに大将になったという男が主役でした。

ところが…石田三成が2万の軍勢で取り囲み、水攻めにしても落ちません。兵力は攻撃軍当初2万、最大5万で、一方の守備隊は2千です。これを以て「石田三成には軍事的才能がない」「大軍を率いる人徳がない」とするのが通説ですが、どうも…関が原戦を美化するための徳川の宣伝臭が強いですね。今回もその通説の範囲で物語が進みます。

忍城を水攻めしようと企画したのは石田三成だったのでしょうか?

水攻めの案は三成の発想ではありません。

・・・と、結論から先に言います。

発案者は秀吉、水攻めにするから・・・三成を総大将にした…というのが筋でしょう。

攻撃側の陣立てを見てみます。

主将、石田三成

副官、大谷吉嗣、長束正家、浅野長政

与力、真田昌幸、真田信繁、直江兼続、佐竹義宣、宇都宮国綱・・・他

この顔触れを見てください。後の関ヶ原戦での、西軍の主力メンバが勢ぞろいしています。しかも、後の五奉行のメンバが揃っていますね。

秀吉は戦ではなく、事務官僚による万博パビリオン運営を任せたのではないでしょうか。

他・・・の部分に、榊原康正、本多平八郎など徳川家臣団が入っていますが、言ってみれば見物客ですね。豊臣の財力、物量作戦を、ケチな家康家臣団に見せつける演出です。

秀吉は小田原の戦を、豊臣家の実力を天下に示す「博覧会」として計画していました。かつての大阪万博と全く同じ発想です。大阪万博もバブル経済の真っ最中でしたが、小田原の戦も秀吉バブルの絶頂期です。

石見銀山、生野銀山、更に佐渡金山から金銀が無尽蔵に採掘されます。さらに、西欧からアマルガム精錬法が入り、それまでとは桁違いの金銀が大阪城に運び込まれます。西日本では戦争がなくなった余禄で、米穀の生産量は、戦国時代の倍近くまで上昇しています。しかも・・・、検地によって税収が、税率が高くなっていますから、豊臣家の金蔵、穀蔵には物量が溢れています。

大阪万博のパビリオン、月の石・・・これこそが小田原攻めなのです。

小田原の西、笠懸山(石垣山)に築いた一夜城、「パビリオンその1」です。この当時、関東に石垣づくりの城はありませんでした。天守閣という構造物もありません。それを、隠密裏に作り上げ、突然、北条方に見せつける…憎いばかりの演出です。太陽の塔、みたいな物でしょう。

その第二弾、「パビリオンその2」が忍城水攻めです。

忍城は低地にある…というのは、だれかが秀吉に吹き込んだ誤情報で、忍城は湿地帯にありますが低地ではありません。むしろ標高は周りより1,2m高いくらいです。

忍城のある行田市はじめ、北関東と言われる地域は殆ど高低差がありません。ノベタンと言おうか、マッ平らな地形なのです。所どころに小高い丘がありますが、その殆どは古墳です。

この辺りは、日本武尊時代の「まつろわぬもの」達、蝦夷族の根拠地だったのです。稲荷山古墳などは考古学の世界では有名な古墳の一つです。

秀吉の命令で、三成は水攻めを始めます。備中松山で成功したノーハウを駆使します。土俵一俵に銭○文・・・金の力で周辺から10万人を集め、4日間で総延長28kmの堤防を築きます。写真は、現在にも残る「石田堤」です。

これは…大イベントですねぇ。将に万博的事業です。

利根川の水を引きこみ、瞬く間に忍城は水に浮かぶ孤城になりました。

が、そこまでです。

図が四日後の忍城です。城の周りは三成の計算通り低湿地ですから、城だけが孤立します。

が…水没することはありません。籠城側にとっては

「敵も攻められない」という「堀を強化してもらった」という効果でしかありません。しかも、夜陰に紛れて堤の一部を破壊すれば、モグラたたきゲームのような面白さもあります。

ただでさえ湿地帯で攻めにくい城を、更に攻めにくくしてもらったわけですから大喜びですね。

映画、「のぼうの城」では、野村萬斎が石田方の陣所の前で能狂言などをして攻め手をからかいますが、さもありなんと思いますねぇ。何の効果もないのですから…。

今回のドラマでは、三成が自分の失敗を認め、昌幸に教えを乞うという筋書きのようですが、事実はそうではありませんね。

忍城が開城、降参したのは昌幸が策を弄して説得したからではありません。小田原が落城して、城主の成田氏親から「もう終わった、よくやった」と手紙が届いたからです。これでは物語として面白くありませんから、三谷幸喜は真田を活躍させます。

もう一度、忍城攻めの主力メンバを見てください。

主将、石田三成

副官、大谷吉嗣、長束正家、(浅野長政)

与力、真田昌幸、真田信繁、直江兼続、佐竹義宣、(宇都宮国綱)・・・他

浅野と宇都宮を除き、これが、一つの派閥として、その後の秀吉政権を支えていくメンバです。

石垣山の一夜城についても触れておきます。

石垣山は、笠懸山と言われていましたが、壮大な石垣の城が一夜にして現れたという驚きから、石垣山として有名になりました。麓からは急斜面です。現在は斜面全体がミカン山になっていてシーズンには観光とミカン狩りが楽しめます。

頂上からの景色は、まさに小田原が一望にできます。ビューポイントは幾つかあって、どこがツレションの場所かは特定しがたいのですが、本丸や本丸御殿のあった近くではないでしょうね。本丸御殿からちょっと離れた所に曲輪跡がありますが、ここなら密談ができたかもしれないと思ったりもしました。

しかし、秀吉が常駐したのは石垣山ではないように思います。早雲寺の近くでしょうね。

石垣山では不便に過ぎます。せっかく温泉に行っていて、茶々まで呼んでいるのですから湯本温泉が近くなくてはいけません。石垣山はパビリオンで、秀吉は麓にいたのでしょう。

このあたりに、芭蕉の句碑がある寺など、隠れた観光地が沢山あります。火山活動も小康状態のようですから、小田原城見学から箱根観光もお勧めです。

山路来て なにやらゆかし すみれ草 (芭蕉)

(次号に続く)