六文銭記 32 派閥と政局

文聞亭笑一

前回でやっと秀吉が死去しました。変な書きだしですが…これまでの史書、歴史小説では秀吉の終末期はあまり描かれていません。三谷脚本の面目躍如と言ったところで、史実が少ない所ほど作家の自由な推理が活躍できます。今までのように、耄碌爺(もうろくじじい)が「息子を頼む、頼む」と哀願するだけでは面白くないですし、死後に始まる大謀略戦のイントロとしては単純に過ぎますからねぇ。それぞれの欲が絡まって、組ずほぐれつ、混迷を増していきます。

真田丸関連のネット検索をしていたら「出浦昌相の家康暗殺未遂は史実か」と問い合わせが載っていました。「史実には残っていないが、ありうる話」というのが当面の回答でしょうね。但し、出浦昌相では面が割れていますから「真田の仕業」がバレます。真田昌幸が、そこまでして家康に敵対姿勢を見せたか…となると、疑問ですね。

石田三成ら奉行衆が相談し、家康暗殺計画を立てるのは秀吉の死の翌年です。1598年中は朝鮮撤兵の事務の為、三成は京大阪を離れ、博多に出張中です。出張中に…家康が掟破りの多数派工作を進めていたから「暗殺」も選択肢に加えられたのではないでしょうか。

ともかく、朝鮮から帰国した将兵は、伏見の秀頼の元に帰陣のあいさつに来ます。挨拶を受けるのは幼児の秀頼ですが、実質上は大老たちで前田利家と、徳川家康が応対します。とりわけ、朝鮮で苦労しながらも、秀吉からけん責処分を受けた小早川秀秋、黒田長政、蜂須賀家政などは不満の塊りですねぇ。その不満を受け止めて、抱き込んで行ったのが家康でした。アンチ三成派という派閥を育てていきます。

秀頼の大阪城移転

秀吉の遺言通り、翌1599年1月10日に秀頼は大阪城に移ります。つまり、政庁を伏見から大阪に戻します。そして家康は伏見留守居役という形で、政権中央から遠ざけられます。

ここまでは秀吉自身か、三成の入れ知恵かは別として、奉行派・三成の思った通りの展開です。家康を政権から遠ざけることに成功しました。そして第二弾、三成の留守中に家康が伊達、福島、蜂須賀と交わした婚約話を「掟破り」と糾弾します。これが1月19日です。政庁の引っ越しを終えて、最初の仕事とばかりに家康排除の動きに出ます。

この時、正義は明らかに三成など奉行衆にありました。家康の行為は秀吉の決めた法に違反します。まぁ、憲法違反になりますね。家康は「解釈」で弁明しますが、理が通りません。情勢としても三成に有利で、上方にいる兵力でも豊臣親衛隊(馬廻り衆)が圧倒的多数です。

家康完敗…という情勢ですが、想定外が二つ起きます。

一つは豊臣家親衛隊軍事派、加藤清正、福島正則、浅野幸長、蜂須賀家政、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎の7将が、伏見の家康邸の警護に兵を出します。いずれも朝鮮で三成派から虐めというか、不利な報告によって秀吉から譴責・叱責を受けた面々です。「石田憎し」で固まっていますから、三成のすることには「何でも反対党」です。

もう一つ、江戸から榊原康政が兵1万を引き連れて東海道を駆けあがってきています。それに対して東海道筋の大名(中村、山内、堀尾など)が素通りを許すどころか、協力している節さえあります。このままでは京・伏見で大戦にもなりかねません。

この事件を含めて、秀吉の死から関が原までの2年間の政党支持率というか、五大老五奉行の力関係を図にしてみました。徳川による政権交代、天下取りには2度の大きなピンチがあります。

その一つが、今 紹介している、私婚禁止令違反事件です。

図の下の方は私の私的メモなどで見えにくくて済みません。いろいろあり過ぎて…順番を間違えそうなので年表風にメモしたものです。その中で、今回は矢印の部分を書いています。

家康にとってはピンチです。三成の留守を狙った多数派工作が順調に拡大しつつありましたが、四大老と五奉行によって糾弾されます。伊達、蜂須賀、福島との婚約は掟破りに間違いありませんからね。理が通りません。

「以後、気を付ける」と詫びを入れて一件落着します。大戦にはしたくないという奉行、四大老も同意しましたが、不満だったのは毛利輝元です。「この際、大戦にして家康を潰してしまおう」と、広島から8千の兵を呼び寄せていました。毛利にしたら、小早川隆景が生きていた頃の五大老筆頭の立場(図の左端)に復帰したかったと思います。しかし、玉虫色の決着になったことで、前田の地位が上がり、毛利の勢力拡大にはなりませんでした。

この結論、「以後気を付ける」ということで、以前は黙認されます。つまり、伊達、蜂須賀、福島との婚約は認められたということです。名を捨てて実を取った…家康の勝です。

真田の立場

信繁にとっては上司である石田三成、岳父である大谷刑部が豊臣親衛隊の立場ですから、自ずと主流派に足を置きます。兄の信幸は家康の与力の立場に徹して徳川派です。そして……昌幸。政局が混乱することを望みます。三人合わせて8万石の勢力では満足できません。せめて国持ち大名、信濃50万石を狙っています。

今回の事件で豊臣子飼いが、奉行派と軍事派に割れたことは歓迎ですが、軍事派が徳川に取り込まれることは歓迎できません。小田原征伐で共闘した上杉、前田が頑張り、家康包囲網を形成するのが理想でしょう。毛利との連携は考えなかったと思います。毛利は当主の輝元よりも参謀の安国寺恵瓊が政治を動かしており、恵瓊と三成が近すぎて割り込む余地がないのです。

このあたり、真田の動きを記した資料は殆どありません。三谷脚本が存分に想像、推理を働かせる余地があります。どう描くか? 楽しみです。

清正の想い

加藤清正…今回のドラマでは脇役、チョイ役の扱いですが、豊臣家臣団の中では一方のリーダです。ただの乱暴者ではありません。体育会系の政治オンチでもありません。豊臣家には誰よりも強い思い入れがあり、とりわけ親戚筋の北政所には母親以上の想いがあります。

「君側の奸が豊臣家を弱体化させている」

これが清正の基本認識であり、三成派を排除しなくては豊臣家が乗っ取られる・・・と云う危機意識が強かったと思います。かといって、五大老の勢力が伸長することは好みません。とりわけ家康に関しては警戒心を抱いていました。「家康よりは利家の方がマシ」という感覚だったでしょうね。その家康に接近している盟友の福島正則には、苦々しく思っていたと思います。また、安国寺恵瓊や直江兼続など三成と親しい者たちが家政を切りまわしている毛利、上杉も「頼むに能わず」で、前田利家に期待していったと思います。

現代でも都知事選などを見ていると政策、政治信念などとは次元の違う利権だとか、好き嫌いの感情論だとか、過去の怨念だとか、色々な思いが渦巻いて複雑な展開をします。自民党も一枚岩ではありませんし、民進党に至ってはバラバラな寄せ集め集団です。400年前の政局と現代の政局、違いを探す方が難しそうですね(笑)

三成の焦り 家康暗殺計画

未遂に終わっていますから「事件」にはなっていませんが、五奉行が集まった席で、この事が話題になったと言われています。三成の家老・島左近が発案したとも言われ、真田も一枚かんだなどとも書かれます。当然、考えたでしょうね。

「玉(大義名分)」である秀頼は大阪城におり、守役の前田利家がついていますから、徳川に大義を奪われる心配はありません。豊臣株式会社の社長は秀頼であり、五大老は取締役、五奉行は執行役員にすぎませんから、社長の命令としてしまえば何でもできます。

ただ、三成の脇の甘い所は、五奉行から情報が漏れることを警戒しなかったことでしょう。

五奉行筆頭の浅野長政は、自分を差し置いてでしゃばる三成を快く思っていませんし、息子の幸長は清正派です。増田長盛は家康から懐柔されて風見鶏、前田玄以も日和見です。長束正家を除き、こういう相手に暗殺計画などを口にしたとすれば漏れるのは当たり前です。とりわけ増田を関が原前夜まで信用していましたね。大阪の動きは増田ルートですべて家康の耳に入っていました。信じられないほどのお人よしです。

暗殺計画は冗談だったのかもしれません。鎌をかけて、情報の流れを探ったのかもしれません。

しかし、これが後に、前田・浅野追い落としに繋がろうとは…想像できなかったのでしょう。

(次号に続く)