六文銭記 39 家康劇場

文聞亭笑一

先週で一気に時間が飛びました。関ヶ原で家康が勝利したのが1600年9月15日です。

そして。九度山で真田昌幸が死んだのが1611年です。一気に十年を飛ばしてしまいました。

まぁ、それだけ九度山の生活は何もなかったということで、ドラマにならなかったんでしょうね。

それは良いのですが・・・、NHKドラマ「真田丸」は12月まで続きます。50回までやるとすれば残り12回、11月末ないし12月第一週までとしたら10回。何をどう描くのか、推理するしかありません。冬の陣、夏の陣・・・どうも今回は金のかかる戦闘シーンは避けるようですから多くて5~6回、少なければ2回でしょうね。逆算してみると、信繁(幸村)が大阪に入城する1614年までの3年間を1~2回描かなくてはなりません。実はこの間、幸村が何をしていたのか・・・資料は全くありません。従って、小説家の想いのままに、好き勝手を書く期間でもあります。司馬遼太郎、池波正太郎に限らず、「真田十勇士」を描いた江戸期の戯作者も、思い切り発想を広げたことでしょう。かくして、文聞亭も好き勝手を想像・創作します(笑)

真田昌幸の遺言

「大阪城で家康に一泡吹かせよ」と言うだけでしたが、昌幸は大阪城を拠点にした、徳川との戦闘シミュレーションを繰り返していました。それがドラマの中で信繁に託した冊子です。

この遺言にあった基本は「城から出て戦え」ということで、単純な籠城作戦ではありません。

第一次、第二次上田合戦もそうですが、籠城戦ではありながら…敵陣のすぐ近くまで兵を出し、罠に誘い込んでいます。そして伏兵を使って敵の横腹、背後を突きます。これが昌幸流の戦術ですね。そのストーリに基づいて、上田・小県という狭い天地ではなく、京阪と言う大きな地形で実現しようと夢を膨らませていたと思われます。真田丸という出城も、当然計画に含まれていたはずです。但しこれは敵をおびき寄せた後の「とどめ」であって、上田合戦でいえば城下にしつらえた千鳥掛けの柵、神川の放水のようなもので、主たる作戦ではありません。メインディッシュではなくデザートのようなものです。

幸村に与えた策は

①瀬田に兵を出し、敵を挑発し、程よい所で橋を爆破して徳川の進軍を停める

②宇治橋と、山﨑の隘路を使って徹底したゲリラ戦を展開する。

狙いは指揮官、大名の狙い撃ち・・・狙撃兵を用意しろと言っています。

十勇士の物語に出てくる筧十蔵がその代表でしょう。

③淀川、大和川を使って遊撃戦を展開する。真田丸に引き寄せる。それを叩く。

④豊臣恩顧の大名に寝返りを誘う。

・・・てな、ところだった、と思われます。要するに上田合戦の大阪版です。

ただ、こうも呟いています

「わしが言えばみな従うであろうが、おぬしでは誰も言うことを聞くまい。上田の合戦は皆、わしがしたことになっておる。おぬしの名は出ておらぬ」

この予言は、後に、全くその通り・・・当たってしまいました。冬の陣で幸村は上記の軍略を提案しますが、大野治長以下、寄せ集め武将の軍議の席で却下されてしまいます。実績、信用の問題は、何ともしようがありません。

余談ですが、私のビジネス人生の最初の方は「実績」との勝負でした。私の世話になった会社は関西系の新興企業でしたから、関東では全く実績がありません。「物は良くて安いが・・・実績がない」これが断られる常套句でした。実績の壁・・・小さなところから営々と積み重ねるしかありません。時間が掛かっても・・・成果を見せるしかありませんね。

九度山での経済

真田幸村たちが金繰りに困っていたのは、相当深刻でしたね。兄の信之からの、闇の仕送りだけですから不定期です。信幸も弟の事は気になりますが、父親宛ての仕送りとは差が出ます。

幸村はリストラをします。父についてきた16人の家臣たちを順次、上田に返します。賄いきれぬというのがホンネで、父の家臣であって俺の家臣ではないというのがタテマエです。相当金に困っていたようで、姉のお松に焼酎の無心をしている手紙が残っています。

内職を始めます。これが、有名な真田紐。この技術を持っていたのは上田出身のキリでしょうね。九度山村の女を集めて、指導し、量産体制を築きます。そしてこれを堺に売り込んだのが、真田十勇士たちでしょう。

真田紐…京大阪で大人気を博します。いわば付加価値の高い商品で、一種のブランド商品になります。堺の商人からは先物買いの注文が入るほどで、生産が追いつきません。商人の中には道具や糸などを先行投資してくる者が出るありさまで、九度山村は大いに潤いました。

「真田様のお陰や」久度山村での幸村の人気は高まります。・・・が、真田の財政は窮屈です。

十勇士とは誰か

江戸期に書かれた真田十勇士の物語は、この時代に幸村の下で働いた者たちをモデルにします。

改めて10人の名を上げてみましょう

①猿飛佐助・・・ドラマに出てくる通り、上田以来の情報部員(忍者)です。昌幸、信幸、幸村など真田家の手足として八面六臂の活躍をします。

②海野六郎・・・真田の本家、海野の一族で上田以来の部下です。幸村が弁丸と言われていた頃からの従者で、総務担当のような役割ですね。

③望月六郎…やはり真田のルーツである滋野一族で、情報部門担当といった役割です

④穴山小助・・・武田の一門、穴山梅雪の一門で真田に流れてきた一人でしょう。外交担当

⑤根津甚八・・・小県を本拠にする海野一門の流れです。

ここまでは実在した人物だろうと思います。勿論、本名は別でしょう。真田紐の販売ルートの開拓は彼らの功績だったと思われます。 残りの五人ですが

⑥三好青海入道、

⑦三好伊佐入道の兄弟は、四阿山系の行者を脚色した者でしょう。

四阿山の行者は全国を行脚し、情報を集めます。幸村の妻妾の一人が関白秀次の娘であったことから「三好」の名を借りたものだと思われます。

ここまでが九度山以来の部下で、残り3人は大阪入城後でしょう。

⑧筧十蔵・・・鉄砲の名人ということになっています。これは、大阪入城後、鉄砲の名手を選抜して部下に付けたことから、その代表として選んだ者と思われます。

⑨由利鎌之助・・・鎖鎌の名人ということになっていますが、鎖鎌は集団戦闘には不向きです。敵を絡めとる・・・つまり調略か、敵のおびき出しを担当した者と思われます。

⑩霧隠才蔵・・・伊賀忍者です。伊賀忍者は服部半蔵以下、徳川の手に着いたということになっていますが、服部半蔵は伊賀者の中では異端、反逆者です。

     伊賀の忍者の本家、山中家は秀吉の諜報部員として活躍していますから、本家筋は大阪城に残っていたものと思われます。伊賀者の本家・本流の代表でしょう。

その意味で、猿飛よりも忍びの技が上だったという話…頷けます。

想いきり・・・脱線ついでに

戦争とは常に経済の争いである…と言う説に、私は共鳴しております。豊かさを願い貧しさを厭うというのが人間の本質、欲であるとすれば、豊かな者はより豊かになるために、貧しい者は貧しさから抜け出すために、戦いを挑みます。IS、金正恩は後者でしょうね。中国は前者でしょうね。アメリカの共和党候補も前者の匂いがします。

1611年ころの日本はバブル経済でした。

為政者の家康・徳川幕府は、公共投資にジャブジャブと佐渡で産出する金を使います。汚職と糾弾された大久保長安は稀代の山師・鉱山開発師で、佐渡ばかりでなく甲斐、伊豆の金山からも莫大な金を産出しました。それまでの金の精錬が水洗という原始的な方法だったのを、西洋伝来の水銀を使ったアマルガム法に変えることによって、廃坑跡からも大量の金を採集します。

ともかく、江戸の幕府は資金豊富なのです。

江戸城を建設します。名古屋城を建設します。その他、一門の城を豪華に建てます。

増上寺、寛永寺ほか、江戸に寺社を勧進し、次々とハコモノを作ります。

さらに、利根川の東遷、木曽川大改修、東海道整備など大型公共工事のラッシュです。

そして、家康は秀吉が大阪城に溜め込んだ金塊を放出させようと目論みます。寧々や茶々などの秀吉の遺族をけしかけて、関西の主だった寺社に寄進、堂宇再建を働きかけます。奈良の東大寺、興福寺は言うに及ばず、秀吉を祀る東山・方広寺の再建を持ちかけます。

この目的は大阪城のご金蔵に眠る、いわゆる分銅金を吐き出させようと言うもので、豊臣の軍資金を枯渇させようということに他なりません。秀吉の蓄えと言うのは莫大で、大阪夏冬の陣で10万人が軍備、籠城し、あれだけ戦えたのは資金があればこそなのです。

真田の赤備え、あの鎧兜を揃えるだけでも凄い資金が必要だったと思います。大阪城に集まったのは、皆・浪人ですからね。一文無しの者たちが武装し、鉄砲、火薬をはじめ武器を持てたのは、資金がふんだんにあったからです。

大阪落城の折、ご金蔵には何も残っていなかったという話がある一方で、家康の埋蔵金がどこかに隠されているはずだと捜し歩いている人たちがいます。家康の埋蔵金とは…大阪城から没収した分銅金のことです。どこかに…あるかもしれませんよ(笑)

公共投資でバブルを起すと、人口の都市集中が進みます。江戸、大阪、京阪は人で溢れかえります。その人たちが均等に豊かになるわけではありません。貧富の格差が発生し、それは今までになかったほどの大きな落差を産みます。富裕層の出現は貧民の不満、恨みを湧き起こします。

1610年代・・・それが顕著に現れてきたんでしょうね。時の政府・幕府にとっても、由々しき問題です。家康はそれを一気に解決する方法を考えます。

不満分子を一か所に集め、まとめて退治する…アウシュビッツみたいなアイディアです。

大阪城と秀頼・・・これこそ、家康の想いにピッタリの条件を備えています。

自作自演の家康劇場でしょうね。秀頼・茶々は、まんまとその筋書きに乗ってしまいます。

(次号に続く)