六文銭記 36 第2次上田合戦

文聞亭笑一

先週の犬伏の分かれの場面は「さすが三谷」と感心しました。かなりリアルに親子兄弟に情に迫りましたね。真田親子が一心同体であればこそ、あのような決断ができたと思います。

これは、真田に限りません。東軍に就いた大名も、西軍に就いた大名も、同様な経験をしています。「どちらが勝っても、家名を残して生き残る…」という戦略をとった大名が多かったのです。 例えば肥前(佐賀)の鍋島家の場合、当主の息子・勝茂は西軍の主力として大阪に向かい、伊勢方面攻略の先頭に立っていますが、親は国許に残り日和見に徹しています。兵を半分に分けて、どちらが勝っても家の存続を担保していますね。

黒田家などはもっとドラスティックで、親の官兵衛は第三勢力の九州王国を狙って空き巣狙いの大暴れをしますし、息子の長政は徳川軍の外交官、外務大臣のような役割を担い、豊臣恩顧の大名たちの切り崩し、徳川派多数派工作の先頭に立ちます。福島、池田などは勿論のこと、敵の中核である吉川、小早川といった毛利三家の二つまでを味方に引き入れてしまいました。

白か、黒か、二者択一の賭けに出た大名たちに比べれば、強(したた)かな身の処し方ということになります。前田、島津なども同様で、勝った方に「疑われない程度、言い訳できる程度」に動きます。

伏見城攻撃

 先週のタイムテーブルを参照頂ければお判りの通り、徳川の宿老・鳥居元忠が開城拒否をしたのが7月19日、そこから攻撃が始まって落城したのが8月1日と、約10日間かかっています。しかも城内には小早川秀秋の兄の木下家定がいます。決死の徳川勢だけではない城を攻めるのには時間が掛かり過ぎです。宇喜多、小早川といったところが兵の消耗を惜しんだのか、それとも城方への内応工作の稚拙さか、どこか手ぬるさを感じます。同様なことは丹後の細川攻め、大津の京極攻め、伊勢安濃津攻めでも言えます。ともかく、西軍は戦下手というか、攻撃が手ぬるいですね。時間が掛かり過ぎです。

その原因は主将の毛利輝元にあったようにも思われます。西軍の主将でありながら、自らの兵は四国や九州・小倉方面でのアルバイト(領土拡張)に精を出していて、大阪には来ていないのですから、西軍全体の志気も上がらないでしょう。

やはり戦争、戦闘などと云うものはリーダの意気込みが全体に影響を及ぼします。現代の政治でも、企業活動でも同様ですね。勇将の下に弱卒無し…といわれる通りです。

小山会議

家康が賊軍の立場になったという事実は、7月末には全国の大名に知らせが届いています。

小山会談が開かれた7月25日は、その情報が届くか届かぬか微妙なところです。が、西軍からの手紙が届いていなくても、雰囲気は伝わっていたでしょうね。実際にすぐ近くの佐野で真田昌幸が上田に引き返しているという事実がありますから、「何かあった」くらいの噂は流れていたでしょう。家康にとっては非常に苦しい所ですが、「事件は大谷吉継と石田三成が起こした」と事件を矮小化することでしのぎます。「悪いのは石田三成である」と首謀者を限定することによって福島、細川、池田などの反石田勢力の結集を図ります。江戸期の歴史書では「西軍首謀者は石田三成である」と限定していますね。限定したうえで「三成には人望がない。戦略眼・戦争遂行能力がない」と酷評しますが、その指摘は毛利輝元が受けるべき評価で、三成には酷な評価でしょう。このあたりも、徳川期、明治政府になってからの毛利家への配慮の跡がうかがえます。とりわけ明治の教育界を支配したのは長州出身者たちですから、おらが国の殿様を悪人にはできませんよね。死人に口なし…石田三成、大谷吉継、および近江人にはの気の毒なところです。

ともかく「悪党は石田、大谷である」と大宣伝をすることで、朝鮮役の不当評価に恨みを持つ者たちを家康方にまとめ上げます。

そうこうしている間に、細川屋敷の炎上、ガラシャの死、伏見城で鳥居元忠の死などの情報が追いかけてきます。大阪に残された人質への不安も手伝って、「三成憎し」の感情が新しいニュースが入る度に増幅されていきます。東軍の結束が固まっていきます。

山内一豊の大出世

関が原の恩賞の逸話としてトップクラスに挙げられるのが、山内一豊の「我が城を徳川様に明け渡す」という発言ですが、掛川6万石の小大名が土佐一国20万石を手に入れました。

実は、この発言は、仲間のアイディアのパクリでした。思いついたのは浜松の堀尾でしたが、会議の席上で発表したのは一豊です。

我々の人生の中でもこう言うことは良くありますねぇ。良いアイディアを思いついても、それを提案するにはかなりの勇気、度胸が必要です。「あれは、実は俺のアイディアだった」と後から主張しても負け犬の遠吠えです。会議の流れを変える発言にはタイミングが重要で、早すぎても、遅すぎてもダメです。私とてパクリもしましたし、パクられもしましたが差し引きチャラですね。権利主張の煩い現代ですが、雑談の際のアイディアレベルにまで権利主張はできないでしょう。ともかく一豊の一言で、会議の流れは一気に「三成を討つ」の奔流になりました。

ただ、このケースでは、アイディアをパクッて出世した山内一豊が、自責の念に堪え切れず 「実は…」と白状したため、堀尾吉晴も浜松12万石から松江30万石に加増になっています。その意味ではメデタシ、メデタシの結果になりました。

第二次上田合戦

7月23日、上田に戻った昌幸と信繁は戦準備に掛かりますが、その時点で西軍に就くと明言していません。これは、西軍から正式の誘いがないから当然で、自衛のための戦争準備です。

7月30日に三成は「事前に相談しなかった」ことの詫び状と共に、「信濃一国を与える」と条件提示をしています。しかし、昌幸はこれに応じなかったようで8月6日には「甲斐も与える」と条件を引き上げています。これで、真田は西軍に就くと約束しました。したたかですねぇ。

しかし、このやり取りを見ていて不思議というか、感心してしまうのは情報の早さです。使者がとんぼ返りを繰り返してもわずか6日間に2往復しています。上田と大阪・・・どの道筋を通ったのでしょうか。テレビでは「大阪から犬伏まで4日半」と佐助が答えています。これから推測すれば上田までは3日となります。忍者がリレー方式で駆けまわってギリギリですが、世情騒然とした中を人、馬が駆けるというのは危険すぎます。

多分、信玄が川中島戦で開発した狼煙(のろし)暗号システムが使われたと思います。

武田の三段狼煙というシステムがあります。川中島から躑躅(つつじ)が崎(さき)まで4-5時間で

「謙信現る、敵3万、善光寺に陣す」という情報が伝わり、武田軍は各駐屯地から一斉に川中島に向かっています。謙信が姿を見せた翌日には、続々と海津城に武田軍が集まってきたと言いますから、謙信の方も驚いたでしょうね。

このシステムは3種類の狼煙の色を3回上げることで3X3X3=27通りの情報を伝えます。

最初は敵の主将が誰か・・・謙信なら黄色、副官クラスなら白、出先の守将程度なら黒といった按配です。2発目は敵軍の規模、全軍、1万、5千以下で色を変え、3発目で進路、陣の位置を伝えます。従って例に挙げたケースでは「白、白、白」ですね。緊急警報になります。

真田の大阪屋敷から京屋敷(比叡山)、佐和山近在・・・などと信号拠点を繫いで狼煙の情報が伝われば、一両日で上田=大阪の連絡が取れます。

真田の要求は「信濃・甲斐の二国」です。これがOKなら白、信濃だけなら黄色、信濃半国なら黒・・・てな具合に、暗号化してあったのだろうと思います。池波正太郎の小説では、真田の京屋敷の忍者たちが大活躍をしますが、忍者=情報員ですよね。当時の通信技術の最先端にあったのは狼煙、花火、手旗などだったでしょう。電話、Fax、ケイタイ、スマホ…こう言う通信手段ができたのは明治以降の話です。戦国の忍者集団とは、通信事業者の集団とみるべきでしょうね。かなり暗号化を徹底しておかないと、情報は筒抜けです。武田軍団の忍者集団は徳川家にもたくさん雇われていますから、信玄時代よりかなり複雑な暗号表を使っていたのではないでしょうか。

こう言う推理をして遊ぶのを面白がる・・・やっぱり文聞亭は技術屋、情報屋の癖が抜けませんねぇ(笑)雀百まで踊り忘れず・・・です。

駆け引きの妙

合戦の推移はテレビの方が面白いでしょう。基本的には第一次合戦のおさらいをするというか、二の舞をするというか、徳川勢が面白いように翻弄されます。

昌幸の嘘に騙されて時間稼ぎをされます。

真田を挑発したつもりが、逆に挑発されて攻め込み、城下で混乱させられて追い討ちを食う。さらに、兵を増やして真田兵を追いだしたところに、神川の上流のダムを切った山津波に襲われて兵を失う。まるで第一次のビデオテープを見るような馬鹿さ加減です。

徳川勢はなぜこういうバカなことをしたのか。過去の失敗体験が生かされなかったのか。

一つは第一次の時の攻撃参加者がいなかったことでしょう。二度目の参加になる大久保党ですが、第一次では父親の大久保忠世が主将を務めました。叔父の忠佐、彦左衛門といった面々でしたが、今度は忠隣…忠世の息子です。世代交代していて、経験が伝わらなかったのでしょう。

二つ目は大軍の奢りでしょうね。前回は7千人で攻めて負けました。今度は3万人です。負けるはずがないという油断が、軽率な手柄取りに走らせました。総大将の徳川秀忠も初陣ですから気負いもあったでしょうね。ブレーキ役の本多正信にしても、実戦経験のない本社スタッフですから、大負けに敗けてから、慌てて攻撃中止を進言しています。

昌幸にして見れば…少々あっけない戦いだったでしょうね。2波、3波の攻撃に備えて、準備万端、仕掛けは隆々で待ち構えていたのに、使えなかった仕掛けが多く残りました。それを使ったのが、真田丸。14年後の幸村・信繁でしょう。

(次号に続く)