六文銭記 35 家康窮地に

文聞亭笑一

いよいよ関が原に向けて動き始めました。秀吉亡き後の勢力争いから次々とライバルを消し去り、混乱させて「家康劇場」を展開して来た狸親父が、想定外の局面に陥ります。

従来の戦記物、軍記物は江戸期に書かれていますから「家康はあらかじめ三成の蜂起を読んでいた」という前提で、幕府におもねる形で綴られ、戦後の時代小説も概ねその路線で関が原を描きますが、果たして家康がそこまで読んでいたのかどうか…、はなはだ怪しいと思っています。慌てたと思いますよ、迷ったと思いますね。困った時には爪を噛むのが家康の癖だったようですが、噛む爪が無くなってしまうほどに噛んだと思います。

直江状…上杉の家老・直江山城が家康の偏向した裁定に対して、実に論理的な、明快な反論をしていますが、これを論理で言い負かすことはできないでしょう。告訴した側の良い分だけ、つまり検察側の意見だけで判決を下してしまったのですから、「弁護側の意見を聞け」という上杉の要求は当然です。しかも「再審をするのなら、裁判のために上洛する」と言っていますから、上洛拒否にはなりません。直江状は弁護側の反証文書なのです。

それには委細構わず、家康は上杉討伐に動きます。

毛利の腹のうち

毛利120万石と言われますが、毛利一門の総てを糾合すると、家康に対抗できるほどの動員兵力を有しています。毛利にとって「家康が大阪を離れる」つまり「秀頼を手放す」というのは「秀頼を手中に収める=豊臣政権を手中に収める=天下取り」の千載一遇のチャンスです。この機を逃すべきでない…と、安国寺恵瓊が当主の輝元を焚き付け、けしかけます。勿論、安国寺恵瓊は佐和山に隠居中の三成と密接に連携をとった上の話です。

毛利には「決して天下を窺ってはならぬ」という創業者・元就の遺訓がありますから、将軍とか、関白とかになるつもりはなかったでしょう。しかし、秀頼を傀儡にし、その事務官僚として三成に政治の表向きを差配させて、自らは黒幕になるという道を狙ったと思いますね。

従来の通説では

三成と直江兼続は東西同時蜂起を密約していた。そしてその間を情報連携したのが真田である

ということになっていますが、いかに猿飛佐助が優秀な忍者であったとしても、滋賀県・彦根と福島県・会津を一日二日で駆けまわるのは無理です。忍者による駅伝リレーも無理です。早くて三日、普通は五日かかります。密約があったとしても、連携行動は無理です。

毛利輝元が上杉征伐のため…と、兵を整えに国許に帰ったのは、家康が江戸に向けて出発したのと同じ日(六月一六日)です。奇しくも関ヶ原の東西の総大将は同時に西と東に向かいます。毛利は船、徳川は陸路…二日で広島に帰った輝元と、江戸の戻るのに一五日掛かった家康の時間差…この間に安国寺恵瓊と石田三成の軍事クーデター計画が進行します。

毛利輝元は兵を糾合します。毛利全軍に出動態勢をとらせています。これは「家康劇場」へのお付き合いにしては規模が大きすぎます。明らかに天下取りのための動員ですねぇ。

石田三成がクーデターを起こしたのは七月一二日です。この日に奉行衆が毛利に上阪を要請しますが、五日後には上阪し、大阪城西の丸を養子の毛利秀元に占拠させてしまっています。あらかじめ準備していなければできない素早さでした。

この間のタイムテーブルを以下にまとめてみました。

年表

                                                                                                                                                                                                     
関が原へのタイムテーブル  
東軍 西軍
23 上杉への詰問使会津へ 24 上杉が直江状 家康の非を弾劾
2  家康上杉討伐を宣言  
  6  上杉討伐の軍議  
  16 家康が伏見城を経て江戸へ 16 毛利輝元 広島に帰国
2  家康江戸城到着 3  大谷吉嗣美濃に出陣 石田からの相談
  11  々    石田支援を決意
  12 増田、長束など奉行が家康に上阪要請 12 増田、長束など奉行が毛利に上阪要請
    17 毛利秀元 大阪城西の丸占拠
    奉行「内府違い」発行 (家康解任)
家康 反政府軍(賊軍)となる 毛利輝元 政府軍(官軍)総大将
    17 細川邸炎上 ガラシャ死す
    18 伏見城へ開城要求・鳥居元忠拒絶
    20 西軍が丹後の細川幽斎を攻める
  21 家康会津に向かい江戸出陣 21 真田親子 犬伏の分かれ
  24 小山着陣 伊達政宗 白石城攻略  
  25 小山評定 上杉攻め中止、大阪攻め  
  29 家康 賊軍にされたことを知る 29 毛利勢が四国攻めを開始
    30 石田三成 真田昌幸に詫び状
2  家康江戸城に戻る 1  伏見城陥落
    6  真田へ家康討伐を要請
    9  三成大垣城に出陣
    10 佐竹へ江戸城攻撃を要請 
  14 福島正則など清州城に集結  
  22 福島、池田などが岐阜城攻撃  
  家康が政宗に百万石で上杉攻めを依頼  
  23 岐阜城陥落  
  24 秀忠 中仙道に向け出陣 24 毛利、長曾我部、鍋島が伊勢攻略
1  家康が江戸城を出陣  
  2  秀忠が真田に降伏勧告 3  京極高次東軍に寝返り 大津城に籠城
  5  秀忠上田城攻撃を開始  
  9  秀忠上田攻略を断念 木曽に向かう 10 毛利軍 伊予へ侵攻
    13 丹後 細川開城
  14 家康が関が原に着陣 14 大津 京極開城
  15        =関が原 合戦=

このほか、九州では黒田官兵衛、加藤清正が独自の動きを開始

江戸の家康

江戸に入った家康は、会津討伐軍の到着を待ちます。勿論、徳川親衛隊を率いた秀忠を宇都宮に向けて出発させていますが、江戸城でどの大名がどれだけの兵力で家康の命に従ってくるかをチェックするのが目的です。家康にして見れば貢献度に関する部下査定、勤務評定のつもりです。

西国の大名は、一旦国許に帰ってから軍をまとめ、それから駆けつけますから遅くなって当然です。家康にしてみれば、秀吉の北条征伐を見ていますから、それの復習と言った感覚だったでしょうね。

12日に増田長盛ら奉行が発した「上方に不穏の動きあり、大谷刑部、石田治部謀反の兆し。至急上阪願いたし」という要請も、軽く見ていた節があります。石田、大谷の後ろに毛利が動いているとは思っていなかったのではないでしょうか。それが分かっていたとしたら、小山まで全軍を進めないはずです。「自分が賊軍になった」と知ったのは7月24日ごろだと思います。

石田、大谷が動いたクーデターは7月17日ですからね。大阪から江戸までの情報伝達の遅れは7日間あります。

クーデター・「内府違いの条」家康の大老解任

中心になって動いたのは石田三成、大谷吉嗣、安国寺恵瓊の3人です。

増田、長束、前田の3奉行を脅し、「内府違いの条」を書かせます。これは「家康は賊である」という宣言文、判決文のようなもので、この書状には毛利輝元と宇喜多秀家が署名しています。つまり政府の正式文書です。公には家康解任、討伐せよという指示書になります。

内府違いの条は13か条あります。

1、浅野、石田の2奉行を辞任に追い込んだ

2、大老の前田利長から江戸に人質をとった

3、何の落ち度もない上杉を討伐すると出陣した

4、豊臣に忠節のないものに知行を与えた(宇喜多家の反逆者など)

5、伏見城に自分の兵を入れ私物化した

6、五大老五奉行以外のものと誓紙を取り交わした

7、大阪城西の丸に勝手に入って、北政所を追いだした

8、西の丸に天守閣を建て、自らの居城にした

9、自分の贔屓にしている大名の人質に帰国を許した(信幸の妻・小松姫など)

10、政権の許しもなく勝手に婚姻を結んだ

11、若いものを扇動して徒党を組ませた(7将の乱のこと)

12、五大老に相談もせず独断専行で物事を決めた

13、側室の内縁を以て石清水八幡宮の検地を免除した

いずれも秀吉の決めた法律違反だと指摘し、家康を討伐すべし・・・と云う形になっています。

17日に発せられたこの条文によって、家康は「賊軍のレッテル」を張られますが、家康がこの条文を見たのは7月24日でした。しかし家康としては楽観しています。毛利の動きを知りません。真田昌幸、信繁はこのことを20日には知っています。大阪から埼玉まで3日で届いていますね。情報の早さは抜群です。翌日には犬伏で親子三人の密談(犬伏の分かれ)をしています。

事前に大谷刑部からの知らせが届いていたでしょうね。情報が早すぎます。

7月30日に石田三成から真田昌幸宛の「詫び状」が出されています。曰く

「事前の連絡なしに事を起して、すまなかった。

家康が大阪を離れるまでは、誰にも相談しなかった。

敵を欺くには、先ず味方を欺け・・・ということで、理解してくれ」

三成がこれを書いた頃には、既に真田は犬伏で昌幸・信繁は西軍、信幸は東軍と決めて行動を開始しています。「いまさら何を…」といった受け止めだったでしょう。

武将たちの思惑

私たちは「東軍対西軍の天下分け目の戦」として関ヶ原合戦を見てしまいますが、実は東軍として家康に加担していたのは、西国に領土を持つ大名たちと、関東近隣の大名だけでした。

福島正則は領地が決戦上の最前線にあります。西軍の三成とは犬猿の仲ですから、今更、西軍に参加するわけにはいきません。池田輝政も同様です。姫路は敵に囲まれています。細川、蜂須賀、藤堂も同様で、根無し草ですから東軍に就くしかないのです。

東海道筋の山内、堀尾、中村、田中などは戦場への通路に当たります。西軍に寝返ったら皆殺しに遭います。これらの大名が東軍に就いたのは当然で、それしか生き残る道はありません。

真田昌幸は「領土拡張の絶好の機会」と西軍に就きますが、真田以外にも、殆んどの野心的大名は同じ行動をとります。

伊達政宗は、一旦は上杉領の白石城を攻略しますが、西軍蜂起を知って兵を引き揚げて日和見します。常陸の佐竹も同様です。日和見です。上杉景勝は家康の留守にした関東に攻め込まず、東軍で最も弱そうな最上領(山形)に攻撃を仕掛けています。

九州では黒田官兵衛、加藤清正が空き巣狙いに徹しています。西軍について大阪に兵を出して、留守になった城を各個撃破して領土拡大を目指します。

同様に、毛利は西軍の総大将にもかかわらず、領土拡大のために四国を狙います。東軍に就いた阿波の蜂須賀の留守を狙います。伊予の加藤、藤堂の空き巣を狙います。讃岐にも兵を出して生駒を圧迫します。西軍の総大将というよりは、ドサクサ紛れに領地拡大…を最優先でした。

従って、東軍の主力は家康本隊と、帰る場所がなくなった決死の西国大名です。彼らは西軍を倒すしか生きる道がありません。

一方の西軍は石田・大谷・安国寺のように、クーデターを仕掛けた者たちと、その試みに乗って天下を握ろうとする宇喜多くらいなものです。

人間社会には「2:6:2の法則」と言うものがあります。一つの案件に賛成か反対かを問えば賛成が2、反対が2で拮抗します。多数派の6は日和見します。つまり、情勢が進んでから…勝ちそうな方に乗ります。この6のことを無党派層などと呼びますが、昔から世の中は無党派層が多数派なのです。

拮抗した勢力が対決する場合、勝負を決めるのは勢いです。この勢いの優劣を決めるのは主将、リーダに他なりません。徳川家康 対 毛利輝元…関が原はこの二人の対決でした。が、江戸期に書かれた軍記物も、明治以降の時代小説も歴史書も、家康対三成にしてしまいます。毛利輝元をバカ殿にして無視しますが、西軍の総帥は明らかに毛利輝元です。関ヶ原の敗戦は、領土拡大に四国や九州に浮気をし、丹後や大津に兵力を分散した輝元の戦略ミスです。三成だけが悪いわけではありません。ただ、その隙をついて短期決戦を仕掛けた家康の戦略眼はさすがです。

(次号に続く)